17話 脱出成功からの
執務室にて書類を裁いていたシオンは、一旦ペンを置いて伸びをした。
肩をグルグルと回して、一息吐く。何年にも及んだ内戦による後始末はほとんど終わり、後はできるだけ口出ししない方針ではあるが、皇帝である以上しなければならない仕事が全くないわけではないのだ。
今問題となっているのは、先代の皇帝の時代から蔓延っていた奴隷商人の摘発。
帝都の隣の港町でうまいこと言って人を騙して攫い、そのまま船に乗せて連れ去ってしまうのだ。
帝国では奴隷の売買はご法度だが、未だ奴隷が公認されている国は少なくない。
そういう国へ売られていくのだろうが、国外に出られてしまったらさすがの帝国でも足取りを追うのは容易ではない。
港町は他国との貿易の拠点ともなっており、国外へも逃げやすいので早くなんとかしないと被害が増え続ける一方だ。
まあ、その件ももうすぐ終わる。シオンの机の上に置かれた報告書にその詳細と今後の計画が書かれていた。
シオンの疲れを感じたアスターがすぐに動いた。
「茶でも持ってくるか?」
「お願いするよ」
すぐに用意に取りかかったアスター。
クルミはいつもアスターがお茶を淹れるのを、趣味だとか女官にさせると気を使うからとかという言葉を信じているようだが、それは本当の理由ではない。
まだ後継者争いが盛んだった頃、兄弟達は愛し子であるシオンの支持を欲しがった。
愛し子からの後押しがあれば皇帝の椅子が近付くと思ったのだろう。
けれど、どの兄弟の派閥もそれを望むと同時に危惧もしていた。
他の兄弟の支持に回られたら厄介だと。
その結果、あろうことか派閥の貴族達はシオンの暗殺を考えたのだ。
暗殺者を送るのは無意味。なにせ常にシオンの側には精霊が付いているから。
そうして考えたのが、毒殺。
最初は食事だった。
けれど、食事には必ず毒味役が付いていたので、毒味役という尊い犠牲で事なきを得た。
毒を入れた者も指示した者もすぐに精霊の制裁が与えられたが、それでは終わらなかった。
シオン付きの女官の家族を人質にその女官を脅してお茶に毒を混入させたのだ。
まあ、精霊が付いていながら気付かずに飲むことなどありえないのだが、幼い頃より付いていた女官であったため、シオンのショックは大きく、お茶すら気楽に飲むことができなくなった。
それからだ。アスターが女官に任せず自分でお茶を淹れるようになったのは。
最も信頼する友であり命を預ける護衛であり兄のような存在。
アスターの淹れるお茶だけは、シオンは毒の心配をせずに飲むことができた。アスターもシオンからの信頼を分かっていて淹れるのだ。せめてお茶の時間だけでも心穏やかな時間が取れるようにと。
アスターのその気遣いがシオンは心から嬉しかった。
アスターがお茶を淹れる理由がまさか毒殺の心配をしているからなどとは、クルミは思いもしないだろうな。
そんなことを思いながらクルミのことを思っていると、無性に会いたくなった。
「クルミは部屋かい?」
「ああ。でもさっきは庭に出てたって報告があったな」
「まあ、クルミも気分転換がしたいだろうしね」
「あんまり虐めてやるなよ」
「勿論さ。これでもじゅうぶん大事にしているだろう?」
シオンの本当の冷酷さを知るアスターは、苦笑を浮かべるに留めた。
何も言わない。それこそが答えだった。
***
リラという心強い味方を手に入れたクルミは、早速その日に行動へ移した。
『また逃げたー』
『捕まえろー』
『わーい』
部屋から抜け出すや、どこからともなくわらわらと集まってくる魔王の手先……いや、精霊達がクルミを追い掛けてくる。
いつもはここですぐに捕まってしまうが、今日のクルミはいつもとは違う。
最強の切り札があるのだ!
飛んでくる精霊達に、片手で持てるほどの植木鉢をズイッと見せると、精霊達はキョトンとして首を傾げる。
すると、植木鉢の土からズポッとリラが顔を出した。
『あー、リラ様だー』
『また埋まってたー』
ワイワイ騒ぐ精霊達に、リラは「恥ずかしいぃぃ」と顔を背けてしまった。
最高位精霊がこれでいいのかというツッコミは飲み込んで、リラに促す。
「リラってば、恥ずかしがってる場合じゃないでしょ。ほら奴らに頼んで」
「はいぃ。み、皆、賢者さんを追い掛けるのは駄目です」
『えー、でもシオンが見張ってろって』
『逃げたら捕まえろってぇー』
「その願いは一旦白紙に戻します」
リラがそう命じると、揃って『はーい』と元気のいい返事をした。
愛し子の願いよりも最高位精霊のリラの命令の方が強いのだ。
これで追ってこないとほっとしたが、まだ忘れていることがある。
「リラ、私が逃げたことも伝えないようにお願いしてくれる?」
「はい。皆、そういうことなので、愛し子に告げ口は駄目ですよ」
『はーい』
『でも、シオン怒らないかな?』
『怒るよね』
『魔王が降臨するね』
精霊達は不穏な言葉を発しながらコロコロ笑っているが、クルミは笑うに笑えない。
「見つかる前にとっとと帝都を出た方が良さそうね」
「わいも同感や」
「じゃ、じゃあ、リラ、もしどこかで会ったらゆっくり話しましょう」
鉢植えのリラを宮殿の森の中に埋めて、別れを告げる。
「はい、賢者さん。お達者で~」
短い腕を振るリラに背を向けてクルミは走り出した。
後ろから精霊が追い掛けてくる様子はない。
「んふふふ。やっとあの魔王を出し抜いたわよ」
「まだ気を抜くのは早いで」
「そうね、なんせ魔王だし……」
出し抜いたと思った瞬間、「やあ、遅かったね」と天使のような悪魔の笑顔で出てきてもクルミは驚かないだろう。
せめて気を抜くのは国外に出てからだと思ってから、クルミは悔しげに顔を歪める。
「くぅ、せっかく帝都に来たのに観光なんてしてる場合じゃなくなったわね。観光したかったのにぃぃ」
「捕まってもええならしたらどうでっか?」
「いいわけないでしょ。このまま帝都の隣の港町に行って、そこから竜王国に行くわ」
「船に乗ってしまったらさすがのあの人も追い掛けては来られんやろしな」
「そう思いたいけどね……」
一抹の不安を感じながら、クルミは観光できぬことに後ろ髪を引かれる思いで帝都を脱出。空が薄く明るくなってきた頃には帝都の隣町に到着した。
けれど、ここで安心して止まってはいられない。
もう少しすれば女官がクルミを起こしに来て、クルミがいないことを気付かれるだろう。
そうすればシオンにすぐに話がいく。
精霊が自分の願いに背いたことにシオンはどんな顔をするだろうか。その顔が見られないことは少し惜しい気がした。
だが、それ以上に、クルミが逃げたことに怒り、目の笑っていない笑顔を浮かべたシオンを見る方が恐ろしい。
想像しただけで、背筋がぞくりする。
「早いところ竜王国に向かう船を探しましょう」
「そやな」
魔王が追ってくる前に。
そう思って港へと足を進める。
海があるだけあってすでに朝市が開かれ、たくさんの魚が水揚げされていた。
市場の人に竜王国へ向かう船のことを聞くと、様々な国へ向かう定期船が泊まる場所を教えられた。
そこには、客船がいくつも停泊していて思わず口を開けて感心してしまう。
「すごーい」
「ってか、この中から竜王国に行く船を探すんでっか?」
「片っ端から聞いてくしかないでしょ」
基本的に、船への乗船は船との直接交渉が主流らしいと市場の人に聞いた。
そこらでは、分かりやすくどこ行きという木札を持った人が船の前で呼び掛けている。
だが、中々竜王国行きの船が見つけられずにうろうろしていると、後ろから声を掛けられた。
「嬢ちゃん何か探してるのか?」
肩を叩かれて振り返ると、まさに船乗りという様相の厳つい男性が二人立っていた。
これまでの経験から少し警戒しながら話をする。
「ええ。竜王国に行きたいのよ。今すぐに。できるだけ早く」
そういうと、二人の男性は目を見合わせて口角を上げた。
「だったらうちの船に乗りな」
「おじさん達の船?」
「ああ、あれだ」
男性が指差したのは、並ぶ船の中では一番大きく綺麗で、そこに乗り込もうとしている人も身なりが整っている人が多かった。
「豪華だろ? うちはそれなりに地位のある方達も乗る船でな。ここいらじゃ一番信用できる船だぜ。嬢ちゃんは見たところ一人だろ? 女の一人旅ならちゃんとした船を選んで乗らないと危ないぜ」
「その点、俺らの船は信用第一でやってきたらからな。安心して乗っていいぜ」
「そんな客船じゃあ、お高いんでしょ?」
「嬢ちゃん魔法は使えるか?」
「え、ええ」
「それなら話は早い。ちょっと魔法使える奴に欠員が出て人手が足りないんだよ。船内の手伝いをしてくれるなら安くしてやるぜ」
「っていうか、頼むよ。俺達も人手を探してこいって船長に言われて放り出されて、魔法使える奴が見つかったなら俺らもどやされず戻れるんだ。もちろん力仕事はさせねぇよ。それは俺達の仕事だからな」
「…………」
提示された金額はクルミでも払える金額だ。
いい話だ。だが、いい話すぎる……。
また騙されたりしたら……。
この男性達を信用できるのか、クルミには判断できない。
「少し考えてもいいですか?」
「ああ、良いぜ。俺らはあの船のとこらへんにいるから、気が変わったら声を掛けてくれ」
クルミはすぐに市場に戻った。
そして、そこで情報収集をする。勿論、先程の船に関してだ。
それによると、ここらでも大きな豪華客船らしく、よくお金持ちの人達が利用しているようだ。
特に怪しいところはなかった。
時間も押している。これ以上時間を掛ければ見つかる可能性もある。
なんせ、シオンはクルミがヤダカインに行きたがっていることを知っている。
そしてヤダカインに行くためには船でまず竜王国に行く必要があり、クルミがこの港町にいる可能性が高いことは容易に想像できるだろう。
迷っている暇はない。
クルミは意を決して港に戻り、先程の厳つい男性に声を掛けた。
「あの……」
「おっ、さっきの嬢ちゃん。どうした、乗る気になったか?」
「はい。お願いします」
「はははっ、歓迎するぜ。じゃあ、早速船に乗るか」
「この船はいつ出発するんですか?」
「そうだな、あと少ししたらだ」
「できるだけ早く出発したいのでお願いします」
「おー、分かった、分かった。まずは船内を案内するぜ」
言われるままに船内に入ったクルミは、豪華な内装を見ている余裕はなく、早く早くと気ばかりが急く。
客室ではなく、椅子だけが置かれた簡素な部屋に連れて来られたクルミは、「ここで待っててくれ」と言われそのまま待つ。
しばらくすると、部屋に三角帽子を被った年配の男性が入ってきた。
衣服も貴族のように整った服を着ていて、見ただけでクルミをここまで連れて来た男性より立場が上の者だと分かる。
「これがそうか?」
「へい。どうやら魔法も使えるようです」
「なるほど……」
三角帽子の男性はクルミを上から下へと舐めるように見つめてくる。その嫌な感じがクルミの勘を刺激する。
「ふむ、いいだろう。見目もそう悪くない。魔法が使えるというならあれを」
「へい」
クルミをここまで連れて来た男性が部屋にあった木箱から何かを取り出す。
まるで手枷のようなそれを見たクルミの顔が引き攣る。
「ヤバいんちゃうん。ヤバいんちゃうんっ?」
ナズナが焦ったようにしきりに耳元で囁く。
「わ、私やっぱり違う船にします! 急用を思い出したので~」
と、部屋を出ようとしたが、そう簡単に帰してくれるはずもなく、三角帽子の男性が扉を遮るように立ち、そして厳つい男性に強引に腕を掴まれて手枷をはめられてしまった。
途端に感じるナズナとの魔力の繋がりが切れたような感覚。
クルミもナズナも目を丸くした。
「えっ……?」
「どうだ、魔法は使えないだろう?」
元々魔法を使おうとはしていなかったクルミは不思議に思ったが、続く言葉にナズナとの魔力の繋がりが切れた理由を知る。
「それは魔封じの腕輪だ。魔力を封じ魔法を使えなくする」
唖然とするクルミの顔に満足そうにし、三角帽子の男性はもう一人の男性に「地下に入れておけ」と命じると部屋を出て行った。
クルミは男性に手枷から繋がる鎖を引っ張られ無理矢理引きずられて部屋を出た。
相手は筋肉ムキムキの厳つい男性だ。女性のクルミに勝てるはずがない。
しかも、魔封じのせいで肉体強化の魔法が使えないのだ。
ナズナはオロオロしながらも、ただの鳥を装って大人しくクルミの肩に止まっている。
そんなナズナにクルミは声を潜めて話し掛けた。
「ナズナ、絶対に魔法具を発動させちゃ駄目よ。今は私との魔力の繋がりが絶たれてるから、ナズナの媒体となってる魔石の魔力がなくなったら石に戻るから」
魔封じによりクルミからの魔力の供給が絶たれている状態で、魔法具を使えば、魔法具はナズナの元となっている魔石の魔力を消費して魔法を発動させることになる。
ただでさえ、使い魔であるナズナはその姿を維持するのにクルミの魔力が必要なのに、魔法具を使うことで保有している魔力を消費してしまえば、あっという間にナズナは形を保てなくなって石に戻る。
「わい、むっちゃヤバいやんか」
「だから、大人しくしてなさい。できるだけ話すのも動くのも駄目よ。それだけでも魔力を消費するんだから」
そう言うとナズナはピタリと口も動きも止めた。
それからクルミは引きずられたまま、船の下へと連れて行かれ、地下のとある部屋に来た。
暗い室内。中々中に入ろうとしないクルミを男性は突き飛ばし、クルミはしたたかに体を床に打ち付けた。
「痛っ!」
「ここで大人しくしてな」
「ちょっと、どういうことなのよ! なんのつもり!?」
扉が閉められて鍵が掛けられた音がした。
その扉の向こうで男性が話す。
「お前は売られるんだよ。これから他国でな」
下品に大笑いした後、笑い声が遠ざかっていった。
そして、クルミはその場に崩れ落ちる。
「また騙されたぁぁぁぁ!」
何度目か分からない悔しさで、己が情けなくなってきた。




