15話 脱走からの捕獲
「は~な~せ~。離して~!」
「だーめ」
帝国の至高の存在たる皇帝とそんな皇帝に抱き上げられながら大暴れしているクルミを、たくさんの人達が目を丸くして見ている。
シオンに捕まえられたクルミは抵抗して大暴れしているが、うんともすんとも言わない。
細身な見た目に反してシオンの力は予想以上に強かった。
肉体強化して大暴れしているのに抜け出せないとは。
シオンも同じような魔法を使っているのかもしれない。
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら戻ってきた執務室。
部屋に入るやいなや、オカンが吠えた。
「くぉるぁ! シオン! お前は急にどっか行きやがって、どこで何して……」
怒りにまかせて怒鳴りつけたものの、シオンの持っているクルミの姿を見て、段々と尻すぼみになっていく。
「お前、何持ってるの?」
「何って、僕の可愛い黒猫だよ」
「誰がいつ、あんたのになった!」
クワッと目を剥いてクルミは否定する。
「クルミを拾った時からに決まってるじゃないか。まったく、猫の時はゴロゴロ甘えてきて可愛かったのに、人間になった途端にこんなじゃじゃ馬になっちゃって……」
やれやれというように息を吐くシオンに、クルミは聞きたくないと耳を塞ぐ。
「止めて、それはもう私の中では消えた過去になったんだから!」
人間とバレないように猫になりきって甘えたり擦り寄ったりしていたが、今となっては思い出したくない黒歴史である。
まさか最初から人間と分かっていたなんて思っていないからこその行動だ。
「クルミがどんなに嫌がっても過去は消えないものだよ。可愛かったなぁ、クルミの寝顔は。今日も一緒に寝ようね」
「わざと言ってる、この人! 性格悪い。助けて、オカン~」
クルミはポカンとしているアスターに向けて手を伸ばした。
「はっ? オカン?」
すると、吹き出すようにシオンが声を上げて笑った。
「あはははっ、オカンだって。確かにアスターは口うるさい母親みたいだよね。よかったね、アスターに娘ができたよ」
「オカン、このいじめっ子から助けて! いや、いじめっ子なんて可愛らしいものじゃないわ。悪魔よ、魔王よ。そして精霊は魔王の手先だわ」
散々な言われようだが、シオンは至極楽しそうだ。
クルミの反応を面白がっている。
一方、置いてけぼりをくっているのがアスターである。
「いやいや、俺に娘はいない! ……じゃなくて、俺は男だ! ……でもなくて……頭がパニクってきた。さっきから普通に俺を会話に巻き込んでるが、どういうことだ!?」
「どうって何が?」
「お前が連れてるのは誰なんだよ」
「クルミだよ。さっきまでこの部屋にいただろう。僕の黒猫だ」
チュッとシオンがクルミのこめかみにキスをすると「ぎゃあぁぁ!」とクルミが叫んだ。
絶対に嫌がらせである。クスクスとシオン一人楽しそう。
アスターは猫を被っていない素を見せているシオンに驚いた顔をしている。
「黒猫って……」
アスターはクルミを見た後、執務室に置かれている、猫のために用意されたベッドを見た。
そして、再びクルミを見てようやく察したらしい。
「いや……でも、そんなこと……」
「アスターは竜王国の愛し子を知っているだろう?」
ハッとしたように顔を上げたアスターは「あの腕輪!」と声を上げ、シオンはにっこりと笑みを浮かべて頷いた。
今度はクルミが置いてけぼりをくらう。
「えっ、何? 竜王国の愛し子?」
「竜王国の愛し子もクルミと同じ腕輪を持っていて、よく猫に変身しているんだよ。まあ、あっちは白猫だけど」
「えっ、本当!?」
そんなはずはない。
この腕輪は、クルミが持つ物とヴァイトにあげた二つだけだ。
しかし、すぐに時の精霊リディアの姿が頭に浮かんだ。
「もしかしてその愛し子って、時の精霊と契約してる?」
「してるよ」
「そう……」
それならば納得だった。
以前契約していたヴァイトの私物を、次の契約者であるその愛し子が継承したのだろうと。
クルミが自分の前世の遺産を手にしたように。
まあ、その辺りの詳しいことはまたリディアに聞けばいいと頭の隅に寄せた。
今問題なのはそんなことではない。
「とりあえず、下ろしてっ」
「はいはい」
今度はすんなりと下ろしてくれ、ようやく地面と再会を果たした。
ほっとしたクルミは、くるりと背を向け歩き出す。
「どこに行くんだい?」
「ここを出て行くの」
「ここにいれば三食昼寝付き。衣食住の心配せずに研究三昧させてあげるよ?」
「…………そんなのいらない」
「主はん、今ちょっといいかもって思ったやろ」
「お黙り」
ナズナの言葉は的確にクルミの心を表していた。
正直、とても心惹かれる内容だ。が、魔王の甘言に惑わされるわけにはいかない。絶対に裏があるはずと、クルミは疑っていた。
「私にはこれから行きたい所があるんだから。帝国でじっとしてるつもりはないもの」
「どこに行きたいんだい?」
どこでもいいだろうと言う前にナズナが口を滑らした。
「ヤダカインですわ」
「っナズナ、なんで言っちゃうの!?」
「えっ、アカンかった?」
「アカンのです!」
クルミとナズナが言い合いをしている側で、シオンは目を細めた。
「ふーん、ヤダカインねぇ」
「ヤダカインなんかに何の用があるんだ? あそこは何もないだろう」
「あそこは名所らしいものもない。変わったものは魔女の使う魔法ぐらいだ」
どうやらシオンは、クルミが異世界人と猫だったことは知っていても、前世のことまでは知らないようだ。
クルミもそこまで詳しく説明するつもりはなかった。
「あなたには関係ないわ」
ツンとした態度を取るクルミに、シオンは笑みを深くした。
「クルミ。あまり頑固だとお仕置きするよ」
真っ黒な笑顔を向けられたクルミはビクッと怯える。
このシオンの恐ろしさはここ数日で嫌でも目にしてきた。が、クルミとて意地がある。
頑なに口をつぐんでいると、大袈裟な溜息を吐かれる。
「仕方ない」
シオンはテーブルの上にあったベルをチリンチリンと鳴らした。
何が起こるのかと身構えていると、部屋の扉がノックされ、シオンの許可で女官がぞろぞろと入ってきた。
「彼女を」
それだけで彼女達には通じたらしく、揃って頭を下げる。
「かしこまりました」
女官達にガシッと腕を掴まれたクルミは唖然としたまま引きずられていく。
「えっ、何? 何がかしこまりましたなの?」
ズルズルと引きずられたまま部屋を出されたクルミに、扉が閉まる直前、満面の笑みで手を振るシオンが目に入った。
それから、どこに行くのかと聞いても答えてくれない女官達に連れて行かれたのは、大きなお風呂だ。
盗んだ女官服を剥ぎ取られ、お風呂に入れられゴシゴシと入念に丸洗いされる。
ツルツルになったクルミの髪を乾かすのに使われたのは、ドライヤーのように暖かい風を出す魔法具だ。
こんな物もあるのかと感心している間に、メイクをされ髪を整えられ、最後にずっと触っていたくなるような上質の布で作られたドレスを着せられる。
鏡の前に立たされると、見違えるように綺麗な自分が映っていて、クルミは目を輝かせた。
「わぁぁ、綺麗。私じゃないみたい……ってちっがーう!!」
一人乗りツッコミをした後、再びシオンの執務室に戻された。
すると、そこではテーブルの上に乗ったナズナが、椅子に座りながら優雅にお茶を飲むシオンに話をしているところだった。
「へぇ、なるほど。ヤダカインの初代女王ねぇ。それでクルミはヤダカインに行きたいわけか」
「そういうことでんな」
口の軽い鳥にクルミは怒り心頭である。
「ナズナ! 何をペラペラしゃべっちゃってるの!」
「だって、主はん。このお人に逆らうなと第六感がビシビシ攻撃してくるんですわ」
「うんうん、君はよく分かってる。良い子だね。長生きするよ」
シオンに頭を撫でられたナズナがブルブル怯えているではないか。それを見たらナズナを怒る気も失せた。
「まあ、大抵のことは分かったよ。ヤダカインの女王の前世の記憶に、魔法具の知識か。使い魔なんてこんな生き物を作れる魔法具士……」
シオンはクルミに向かってにっこりと微笑んだ。
「益々興味が出てきたよ。これは手放せないね」
天使のような微笑みなのに、背後に魔王が見え隠れするのは何故だろう。
優しい笑顔なのに、背筋に剣を突きつけられてるかのような気分になる笑顔は初めてである。
「何言ってるのよ、私は出て行くから」
「うんうん、上手くいくといいね。頑張って」
そこから、逃げたいクルミと逃がしたくないシオンの攻防が始まるのであった。
***
「うううっ。また捕まったぁぁぁ」
シオンに抱え上げられながら、両手で顔を覆った。
「クルミも飽きないねぇ」
この度目出度くも、二十七回目の逃亡が幕を下ろしたところだ。
「この帝国の皇帝であり愛し子でもある僕の妃になれたのに、なんで逃げるかなぁ?」
「それが問題だからでしょう!」
そうなのだ。
このシオンは、即日に自分の部屋の隣にクルミの部屋を用意し、そこには女性が過ごすのに困らない衣装や小物が準備されていた。
どうも帰ってきてからすぐに、いつでもクルミを受け入れられるよう密かに用意を始めさせていたらしい。
そうして準備万端の部屋を与えられたクルミは、何故か皇帝シオンの妃として迎えられたのだった。
勿論抵抗した。それはもう暴れ出さんばかりに。
オカンにも泣きついた。
けれど、シオンは既に外堀を埋めていたらしく、宮殿で働く人達からは皇帝の黒猫様と愛称まで付けられて、盛大にウェルカムされてしまったのだ。
身分もない、どこの者とも知れぬ女をそこまで歓迎する意味がクルミには理解できなかったが、これまでどんな美姫にも目もくれず、浮かれた話もなかった結婚適齢期の皇帝がみずから部屋を準備し迎え入れた女性。
初めて女性に興味を持ったと、クルミを不支持する声より支持する声の方が大きかったのだ。
そのせいで、なし崩し的にシオンの妃という地位を手に入れてしまった。
クルミには不本意この上ないことだった。
「どうして私がこんな魔王の妃なのよぉ」
「僕がそう決めたからそうなんだよ」
「何様だ」
「皇帝で愛し子様だね」
「くぅ」
それを出されたら何も言えない。
どんな我が儘でも叶えられる。それが愛し子というものなのだ。
「こんなのが、国民には人気だなんて皆騙されてるわ」
クルミが足掻いているのを見て楽しんでいる腹黒いシオンだが、国民からの支持は絶大だった。
皇帝でありながら愛し子。
天使のような微笑みで民を魅了して止まない。
シオンを描いた絵画は即日完売だそうな。
皇帝として善政を敷いているのもあるのだろうが、熱狂的な信者がいるほどに愛されているのだ。
見た目に騙されるなと、クルミは帝都の中心で叫びたい。
何故この腹黒さが周りに伝わらないのか分からない。
宮殿で働く人達の中にもシオンの信者が多く、「黒猫様は陛下にそんなに愛されて幸せ者ですね」などと言うのだ。
それは事実ではない。クルミの反応を面白がっているだけなのだ。
これまでシオンのお遊びに振り回されていたアスターとは今では同志である。
お互いにシオンに対して通じるものがあってすぐに仲良くなった。
今では茶飲み友達で、クルミの逃亡劇が失敗に終わり部屋に戻されると、部屋でお茶を入れて待っていてくれる。
その後はシオンの愚痴大会の開催だ。お互いに不平不満をぶつけてストレスを発散するのだ。
クルミの気が済むまで愚痴に付き合ってくれる、本当に心優しいオカンだ。
けれどいつまでもアスターに愚痴っているわけにはいかない。
「絶対に逃げてやるんだから」
決意を新たにするが、パタパタと飛んできたナズナが言葉を掛ける。
「主はん、もうええかげん諦めて妃になってしまったらどうでっか?」
「ほら、ナズナもこう言ってるよ。人間諦めが肝心だよね」
「ナズナ、余計なこと言わない! 絶対に諦めないから」
「はいはい。まあ、頑張って」
全然心の入っていない応援。シオンはできるはずがないと思っているのだ。精霊が味方に付いているのだから当然だろう。
「悔しいぃぃ」
それを否定できないことが悔しい。
部屋に戻されると、やっぱり捕まったかと眉を下げるアスターが迎えてくれた。
「ママ~。また捕まったよぉぉ」
「ママでもオカンでもないと何度言えば分かるんだ、お前は」
そう言いつつも、抱き付くクルミを避けるようなことはしなかった。
今日は夜ということもあり、用意されていたのはリラックス効果のあるハーブティーだ。
きっとよく眠れるだろう。
やはりアスターは気遣いのできる優しいオカンである。
カップにハーブティーを注ぎながらアスターは問い掛ける。
「まだやるのか?」
「勿論!」
「いっそ諦めてシオンの妃を受け入れたらどうだ?」
「オカンまでそんなこと言うのぉ!?」
クルミは、うわーんっとテーブルの上に顔を伏せて嘆く。
唯一の味方と思っていた者からの裏切りに等しい言葉だ。
アスターは嘆くクルミの前カップを置き、そして自分の分も入れると向かいに座った。
「えーと、妃はいいぞー。なんたってこの帝国で二番目に偉いんだ。シオンの妃なんだからな。まあ、正妃になるかどうかで変わってくるが」
「私、その正妃とか側妃とかの制度は許せないタイプなんだけど。一夫一婦制で育ったから」
帝国でも、庶民は一夫一婦制だが、貴族や皇帝は複数の妻を持つことができる。絶対ではないが、跡継ぎを絶やさないために、正妃以外に側妃をもうけることが多い。
一夫一婦制で育ったクルミには理解しがたい制度だった。
「シオンはクルミには優しいし他の女を妃に迎える心配はないんじゃないか?」
「優しい? あれで?」
「うーん……」
うろんげに見れば、アスターは唸って視線をそらした。
しかし、慌ててフォローを始める。
「そう、あれはクルミを気に入ってるからこその愛情の裏返しだ、うん」
「玩具が気に入っただけでは?」
クルミから見れば、シオンのあれは新しい玩具が手に入って喜ぶ子供のようだ。
「まあ、そう見えるが……」
「そうにしか見えないんですけど」
クルミはカップに視線を落とし、一口飲んだ。
ハーブの香りがささくれ立ったクルミの気持ちを若干落ち着かせてくれる。
一息吐いて、視線をアスターに戻すと、アスターは予想外に真剣な表情でクルミを見ていた。
「これは冗談抜きで聞くが、本当に妃になる気はないか?」
「だから、私はヤダカインに……」
「その後でもいい! いや、いつかちゃんと連れて行ってやるから」
「……どうしてそんな必死なの? 私以外にもっと相応しい人がいるでしょう。相手は皇帝様よ?」
皇帝ともなれば高貴な貴族の令嬢が列をなして待っているだろうに。
「そうだな。だが、クルミは知らないだけだ。あんな風に……クルミのようにシオンと接することができる相手はほとんどいない。クルミといるシオンは本当に楽しそうだ。心から笑ってる。そんな相手は貴重なんだよ。あいつは産まれた時から愛し子だからな……」
「どういうこと?」
「あいつは愛し子だ。産まれた時から世界に祝福された、皇帝なんかよりよほど至高な存在だ。誰もがシオンの機嫌を窺い、勘気に触れないよう慎重に接する。シオンが普通を望んでも、周囲はそれを許さない。強要したわけじゃない。けれど、シオンは察しのいい子供だったからな……自分から愛し子という役を演じきってる。それはさらにシオンを孤独にした」
そう言うアスターの顔はどこか悲しげだった。
「あいつには、クルミのように普通に接してくれる存在が必要だ」
「私が普通なのはヴァイトっていう破天荒な愛し子と関わりがあったからで」
「初代の竜王か」
「うん……。その免疫があるだけで、前世なんて覚えてなかったら普通の人と同じように彼を畏怖してたわ」
「そうかもしれない。だが、何が理由だろうと、クルミといる時のシオンはただの男に見えるよ。愛し子じゃない普通の一人の人間に……」
クルミは何も言うことができず、カップに残ったハーブティーを無言で飲んだ。
アスターが出て行くと、クルミはベッドに寝転がった。
すると、隣にナズナが飛んでくる。
「なんや愛し子ってのも大変なんやな」
ナズナはクルミの心の内をよく理解していた。
今何を思っているのかを。
「ヴァイトはあまりそういうの気にしてなかったからなぁ。でも、確かに愛し子は孤独よね。愛し子の意思一つで国一つ滅ぼすことができるんだもの。周囲は過剰に優しくなるか恐怖するか、想像はできるわね。対等な関係を築くのは難しいかもしれない」
しかも、シオンは愛し子であると共に皇帝でもある。周囲の気の使い方は異常なほどだったろう。
いや、平然と怒鳴りつけているアスターやクルミの態度こそがこの国では異常かもしれない。
だからあんなに性格がひねくれたのか。などと、シオンに聞かれたらほっぺをつねられそうなことを考えていた。
「同情してしまったんちゃうか? ここにいはったらどうでっか?」
「まさか!」
シオンの楽しそうに笑う顔が一瞬頭を過ったが、クルミの目的は変わらない。
むしろ、これ以上情を持つ前に去るべきだ。お互いのために……。




