14話 黒猫は皇帝の手のひらの上
シオンが皇帝であったという事実に驚いてから早数日。
食事も仕事も寝る時も、シオンはどこへ行くにもクルミを連れていった。
怪我を心配してか、移動は必ず抱っこされて。
皇帝のペットとして、それはもう悠々自適、至れり尽くせりな宮殿暮らしだ。
ちょっとこのままでも良いかもしれない……。などと悪魔が囁いたが、何日もすればずっと魔法を使っていないので研究がしたくなってくる。
オカンは相変わらずオカンのようで、宮殿でもシオンに付き従ってあれやこれやと口を出している。
そんな甲斐甲斐しいアスターに笑顔を浮かべながら、シオンは皇帝としてその多くの時間を執務室で書類に囲まれ過ごしていた。
愛し子という我が儘が許される立場でありながら、文句も言わず黙々と書類の決裁をしたり、大臣達との会議など、精力的に働いている。
帝都に着くまでにクルミが見てきたシオンは、どこか子供っぽい雰囲気もあり、時々アスターをからかって困らせては面白がっていた。
けれど、宮殿に来てからのシオンは、常に笑みを絶やさず、臣下の声にも真剣に耳を傾け、真面目で書類を裁き、的確な指示を与えるお手本のような皇帝だった。
宮殿で働く人達からは、シオンを褒め称える言葉しか聞こえてこない、若き賢君。
きっと、アスターはシオンにとって心許せる相手なのだろう。
笑顔が違う。人前に出るシオンは、まるで天使の微笑みの仮面を被ったような張り付いた笑顔をしていた。
それがなんだか気持ち悪い。
そう思うのは、宮殿に来るまでの気を許した者に見せる楽しげでちょっと黒さを感じる笑みを見たからだろうか。
なんだかほだされかけてるなぁと思い始めた頃、ようやくクルミの腕の包帯が取れた。
「……うん。ちゃんと治ってるね」
傷跡はまだあるが、傷は綺麗に塞がっていて、痛みももうない。
「にゃーん」
お礼を言うように、クルミはシオンの手に頭を擦り付ける。
あの町から脱出できたのはシオンのおかげだ。お礼を言っても言い足りない。
しかもだ、どうやらシオンがあの町にいたのは調査のためだったことをこの前知った。
領主の悪行の噂を聞きつけて、皇帝自ら足を運んだというのだから、シオンはかなりフットワークが軽い。
クルミに因縁を付けてきたあの領主、裏では他にも色々やらかしていたらしい。
お仕置きしないとねと、シオンが天使の皮を被った悪魔の微笑みをしていたから、それ相応の処罰があるのだろう。
ざまあみろであるが、このシオンは見た目に反していい性格をしていることがこの数日で分かった。
シオンがクルミを執務室にも連れて行くのでシオンの色んな会話を聞くことができたのだが、愛し子云々ではなく絶対に敵に回してはいけない人物だと認識を改めた。
最初は捨て猫を拾う優しい人だと思ったのだが、ただの優しい人ではない。
まあ、皇帝ともなると優しいだけではやっていけないのだろう。
こちらに火の粉が飛ばないならどうでもいい。ここにいるのはあと少しだから。
クルミはすでにここを出る算段を付けていた。
『ナズナ』
『はいな』
クルミが心の中でナズナを呼ぶと、すぐに返事がきた。
『今日出るから』
『もう傷はよろしいんでっか?』
『うん。問題ないわ。ナズナはどこにいる?』
『宮殿内の森の中やで』
広い宮殿内には森と言って差し障りない広大な庭がある。
野生の動物などもいて、時には狩りを行ったりするらしい。
ナズナはそこで身を隠しているようだ。
『なら今夜、部屋まで来られる? テラスから出るから受け止めて』
『了解や。見つからんように気を付けるんやで~』
ナズナとの会話を終えて、のんびりする。
カリカリとペンを走らせるシオンを見つめて、こんなのんびりした時間も今日で終わりかと、なんだかしみじみとしてくる。
***
深夜、シオンが寝静まった寝室で、クルミはゴソゴソと動き始めた。
周囲にはシオン以外誰もいない。
シオンは寝る時、精霊を側に置かないらしい。
まあ、精霊に睡眠は不要なので、常にちょこまかとしておしゃべりにうるさいから睡眠妨害になるからだろう。
だが、そのおかげで動きが取りやすい。
しっかりとシオンが寝ているのを確認して、クルミはベッドから飛び降りた。
皇帝が使うだけある高級そうなカーペットの上に音を立てず着地する。
クルミが離れてもシオンが起きる様子はない。
クルミは心の中で「ありがとう」とシオンにお礼を言い、テラスへ続く窓へと近付いた。
前足で押すとゆっくりと開いた窓から外へ飛び出す。
テラスの手すりに飛び乗り、そこから外へ向かって全力のジャンプ。
三階にあるシオンの部屋から飛び降りるのは普通で考えると自殺行為だが、クルミの体は重力に反してゆっくりと地面に着地した。
「なんや久しぶりやな、主はん」
そこではナズナが待ち構えていた。
クルミを受け止めたのはナズナの首にあるネックレスの形をした魔法具だ。
それには風の魔法を刻んでいる。
両足にはそれぞれ水と雷、そして首には風と、ナズナに乞われてあらかじめたくさんの魔法具を与えていたのは正解だった。
『じゃあ、とっととここを出ましょう。明日は帝都を観光よ』
「楽しみやわ~」
クルクルと楽しげに空を飛ぶナズナを微笑ましく見てから、クルミは森に向かって走り出した。
クルミがのんびりとしてる間に宮殿内を散策していたナズナの情報によると、この森を抜けた先に宮殿を囲むように壁があるのだが、抜け穴ができている所があるらしい。
人が通れはしないが、猫の姿である今のクルミなら難なく通れるほどの大きさの穴が。
そこを目指して、身体強化をして森の中を失踪していると……。
『にゃんこだ~』
ビクッとクルミの心臓が跳ねた。
急ブレーキをかけて周囲をキョロキョロ見渡すと、頭上に複数の精霊がいるのを発見した。
『あれって、シオンのにゃんこだよ~』
『散歩かな?』
『散歩じゃなくて迷子かもよ?』
『大変だ~。シオンに知らせないと』
『じゃあ、僕はにゃんこを捕まえよう』
『おー』
腕を突き上げて盛り上がっている精霊達に、これはマズいとクルミは大急ぎで走り始めた。
『あ、逃げたー』
『追いかけっこだ!』
『わーい』
わらわらと集まってきた精霊にクルミは声なき声を上げる。
『ひぃぃぃ! ナズナなんとかならないの!?』
「そんなこと言うたかて、精霊に手出したらこっちがやられてまう」
身体強化までして走っているのにそれに追い付いてくる精霊達。
クルミには彼らが悪魔に見えた。
そして一人の精霊がクルミに張り付いた。
『つ~かまえた~』
「にゃぁぁ! (ぎゃあぁぁ!)」
あまりの恐怖にクルミはその場で失神してしまった。
そして次に目が覚めた時にはシオンの膝の上に。
「あっ、目が覚めたみたいだね。悪い子だ。僕が寝ている間に抜け出すなんて。迷子のところを精霊達が見つけてくれて助かったよ」
「にゃうう……(違うのにぃぃ)」
シオンに「見つけてくれてありがとう」とお礼を言われている精霊達は、ドヤ顔で胸を張っていた。
その日の夜。
リベンジマッチが開催されることになった。
本当ならばとっくに帝都観光を楽しんで町の安宿にいるはずだというのに、未だにこの豪華な皇帝の寝所にいる。
今日こそはと、テラスへ続く窓を開けようとしたが、開かない……。
「にゃんっ? (なんでっ?)」
恐らくここから出たことを知ったシオンが今日は鍵を掛けたのだろう。
そう言えばシオンが寝る前に窓を触っていたのを思い出した。
これはマズい……。
クルミは室内をグルグルと歩き回りながら頭を働かせ、どこかに逃げ道はないかと考える。
素直に扉から出るのは愚行だ。
扉の前には警備の兵士が常駐していて、そこから出て行けばすぐに見つかってしまう。
どうしようと焦りながら寝室から出て他の部屋を確認していくと、お風呂場の窓が開いていた。
換気のために開けていたのだろう。
それを見てクルミは目を輝かせた。
猫のジャンプ力を駆使して窓に飛び乗り、空いた隙間に体を滑り込ませた。
『ナズナー!』
少しするとナズナが窓の方に回ってきた。
それを見て飛び降りると、昨日と同じようにナズナの魔法具の力で着地。
今度こそと地面を蹴ったその時。
『またにゃんこが逃げ出したよ~』
『追いかけろ~』
『わーい!』
デジャブ……。
今度は失神する恥をさらすことはなかったが、精霊に呼び出されたシオンが迎えにやって来た頃にはたくさんの精霊に押し潰されていた。
シオンの後ろにはアスターの姿もある。
「まったく、困った子だね」
そう言いつつも困った様子はなく、むしろ楽しそうな声色で大量の精霊に埋もれたクルミを救出した。
「にゃん、にゃうう! (なんで、なんでこうなるの!)」
「もう夜中に遊びに出掛けたら駄目だよ」
シオンに頭を撫でられながらクルミはどうしたらここを出て行けるかと考えを巡らせた。
そして、答えに辿り着いたのだ!
シオンも精霊もクルミをシオンのペットの猫と思っている。
つまり、人間に戻れば追い掛けてくることはない、と。
そこでクルミは準備を始めることにした。
まずは宮殿内の調査だ。
普段はシオンと執務室で大人しくしているところを、扉をカリカリと引っ掻き、外に行きたいアピールをする。
すぐにアスターが気付いてくれる。さすが、オカンは気が利く。
「なんだ、お前外に行きたいのか?」
そうするとシオンも手を止めてクルミに視線を向けてくる。
「アスター、開けてあげて」
「いいのか? また迷子になるぞ。宮殿は広いから」
「大丈夫だよ。宮殿の外には精霊がいるからすぐに見つけてくれるよ。クルミだって部屋でじっとしてるのは退屈だろうからね」
この時クルミは気付くべきだった。シオンの言葉の違和感を。けれど、クルミの頭は次の計画のことでいっぱいだった。
自由な時間を手に入れたクルミは早速目的の物を見つけるべく積極的に動く。
どうやらこの数日の間でクルミの存在は周知されているらしく、黒猫が宮殿の廊下のど真ん中を歩いていても誰も咎めない。
それをいいことに、クルミはそれぞれの部屋を物色していき、そしてようやく見つけた。
「にゃふふふ」
見つけたのは宮殿で働く女官の服だ。
それを空間の中に放り込む。
そして、クルミはすぐに実行に移すのではなく、数日の期間を置いた。
シオンが執務室に行って少しすると、クルミは外に出たがりアスターが外に出してくれる。
そこで逃げるのではなく、必ずしばらくしたら元の執務室に戻った。
そうして、外に出してもクルミが帰ってくることをシオンとアスターに印象付けた。
何日もかけて気を許してきただろうその日、クルミの計画が実行に移される。
「にゃんにゃん」
その日もいつもと同じように扉をカリカリと掻くクルミに、アスターがまたかと仕方なしに扉を開けてくれる。
「ちゃんと戻ってくるんだぞー」
心の中でアスターに謝罪し、クルミは執務室から飛び出した。
この数日宮殿内を調べ回ったので、どこをどう歩けばどこに辿り着くか、地図は頭の中だ。
シオンの私室や執務室の近くは高位の女官や侍従、兵士しか入れない。
その辺りで人間に戻るとすぐに身バレしてしまうので、宮殿内でも人の少なく、かつ、下位の者が出入りする辺りに向かった。
下位の女官ともなると人数も多く出入りも激しかったりするので、見知らぬ者が一人混ざっていてもさして違和感をもたれない。
そこに目を付けたクルミは、人気の少ない部屋にあらかじめ目星を付けておき、そこにナズナを潜ませた。
その部屋でナズナと落ち合ったクルミは、ナズナに腕輪を外してもらい、女官の服に着替える。
目立つ黒髪を帽子の中に押し込み、伏し目がちに部屋から出た。
さすがに真っ正面から出るわけにはいかない。
宮殿の出入りには厳しい調べがあるからだ。
いくら女官の服を着ていても難しいだろうというのが、ここ数日で調べた結果だ。
けれど、まったく穴がないわけでもない。
宮殿の敷地は広く、ほとんど使われていない離宮もたくさんある。
そして、そういうところには大概外へ通じる隠し通路があるものだ。
そちらはナズナが下調べ済みで、いくつかの中から隠し通路がある離宮を見つけた。
クルミが目を付けたそこは、月に一度清掃が入る程度でほぼ放置されている。
ひと目の多い道を避けながらその離宮へとやって来た。
ここまでは全て計画通り。
後は隠し通路から外へ出るだけ。
「やっと出られるわね」
「長かったな~。主はん」
「外に出たら観光三昧よー!」
ゴールが間近に見えて意気揚々と離宮の扉を開けた。が、その瞬間、クルミは笑顔のまま固まった。
「やあ、遅かったね」
そこには天使のような笑顔で出迎えるシオンの姿があった。
何故シオンがここに……。
全身から冷や汗が止まらない。
「こ、皇帝陛下……、どうしてここに?」
「嫌だなぁ、皇帝陛下だなんて他人行儀な。シオンと呼んでくれて良いんだよ」
「何をおっしゃるのやら。一介の女官が陛下のお名を口にするなど恐れ多く……」
クルミは自分の声が震えているのが分かったが、動揺は隠しきれない。
シオンは今頃執務室にいるはずだ。
それにこの気安さはなんなのか。
気付かれてる? いや、そんなはず……。と、クルミの頭の中はパニック状態。
肩に止まるナズナもどうして良いのか分からない様子で、オロオロしている。
「私は仕事がありますので、これで」
ここは逃げるが最善とばかりにきびすを返したが、すかさずシオンに腕を掴まれた。
そして、袖をまくられる。
露わになった腕をじっくりと見られ、居心地が悪い。
「うん、やっぱりちょっと後が残ってるね。猫の時は毛が邪魔でよく見えなかったから良かったけど」
ドキンっと心臓が跳ねた。
「ねねね、猫? なんのことですか?」
腕から視線を上げたシオンが笑った。それはもう邪悪で真っ黒な笑みを。
「僕が何も知らないと思った? そう思ってるなら愛し子というものを甘く見すぎだよ。ねえ、クルミ」
決して口にしていなかったクルミの名をさも当然というように口にしたシオンに、クルミは顔を引き攣らせた。
「な、な、え?」
「知っているよ。君の名がクルミということも、異世界からの来訪者だということも、全てね」
クルミは口をパクパクとさせるがあまりにもびっくりしすぎて言葉が思うように出てこない。
「これ、見覚えあるでしょ?」
「そ、それっ!」
目の前に吊り下げられたそれは、この世界に来た初日にとっ捕まえた精霊に情報と引き換えに渡したスクイーズだった。
シオンは愛おしげにそれに唇を寄せる。
まるでクルミに見せつけるかのように。
「どこまでっ……」
「知ってるよ。こことは別の世界から来たことも、村ぐるみで売られそうになったことも。まあ、それは精霊に調べてもらって知ったことだけど、町でクルミが一生懸命魔法具を売っているところからは実際に見ていたよ。気付いていなかったみたいだけど」
「な……なら、私が猫になっていたのも知って……」
「ああ、知っていて拾ったんだ」
言葉が出ない。
知っていてクルミを拾って、猫のように接し、猫のように扱っていたのか。
それならばクルミが逃げようとしていることも分かっていたはず。分かった上でクルミが足掻くのを楽しんで見ていたわけだ。
「性格悪いっ!!」
「あはは、よく言われる。……よいしょっと」
「ひゃっ!」
突然シオンに抱き上げられたクルミは声を上げた。
「何するの、下ろして!」
「駄目だよ。だって下ろしたらクルミは宮殿から出て行っちゃうでしょう?」
「当たり前」
「だから駄目。クルミは僕が拾った僕の黒猫なんだから」
逃がさないよ。とそう耳で囁いたシオンの捕食者の目を見てしまったクルミは、とんでもない者に捕まってしまったのではないかと察して顔を青くした。




