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長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う  作者: スタジオぞうさん
第五章 義兄の死

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八十七 武田包囲網

1573(天正元)年5月 尾張国桶狭間付近 浅井長政 

 後方からドーンと大きな音が聞こえた。

 浅井軍の頭上を通過していったそれは、武田軍の後方で地面に激突し、地響きと共に土煙が上がった。

 野村隊が近江から持ってきたのは大砲だ。

 歴史では関ヶ原の合戦や大阪冬の陣で国友製の大筒が使用されたと伝わる。

 関ヶ原よりも30年近く早いが、浅井では10年ほど前から予算を惜しまず国友村で鉄砲の開発を進めていた。さらに俺は大砲の明確なイメージを持っていたこともあって、この時期に完成させることができた。

 次弾は後方の武田軍に着弾したようだ。驚いた声が聞こえてきた。

 味方に攻めかかる武田の騎馬隊にも動揺が走った。

 今回の戦には10門の大砲を持ってきている。

 実践での運用経験は乏しく、狙いはまだあまり正確ではないが、初見の武田軍を驚かせるには十分だろう。

 武田の騎馬隊は鉄砲に撃たれ、大砲に戦列を乱され、馬防柵の一部は壊したものの、なかなか浅井・織田軍の陣地に乱入できない。

 鉄砲は切れ目のない三段撃ちとはいかず、弾込めのために弾幕が切れるときもあるが、そのときは弓隊が活躍した。弓削梓の率いる弓隊も、姉上に鍛えられて練度は高い。

 武田軍の勢いがなくなったところで、長槍隊が前進して、落馬したり、怪我をしている武田の騎馬兵に止めを刺していく。

 やがて、動いている武田兵は見えなくなった。

 壊された馬防柵や、堀を越えたところで絶命している武者を見て、武田軍の強さを改めて感じた。

 だが武田騎馬隊の損害は大きい。戦場を確認したところ、赤備えの山県昌景や土屋昌続、真田信綱・昌輝兄弟など、名のある武将も多く倒れていた。

 場所も展開も違うが、結果は長篠の戦いに似たものになったようだ。野戦陣地も信長が長篠で築いたものが日本初と言われている。

 これで武田軍も弱体化できた。

 しかし、もし谷に入り込んで伏兵に襲われていたら、鉄砲の威力は活かせなかっただろう。やはり武田は脅威だった。信玄は生きているのだろうか。 


 忍びや物見の兵たちが武田軍の撤退を確認してから、浅井と織田の連合軍は谷を進んでいった。

 それからも慎重に進んで尾張と三河の国境まで来たが、その間、武田の襲撃はなかった。

 織田軍には負傷兵も少なからずおり、領内の慰撫も必要なので、ここで清州に戻ることになった。

 三河から先は浅井家単独で進む。

 冷たいようだが信長が健在だった頃の織田家とは違い、今の織田家は兵力も少なく、浅井家単独で進むことに問題はない。 

 織田軍が戻って行ったところで、新兵器ではないが新しい通信手段として準備してきた伝書鳩を八幡山城に飛ばした。

 伝書鳩は堺で南蛮商人から購入したものだ。欧州ではローマ帝国以来、軍事通信用に長く使われている。

 八幡山城に飛ばした鳩の足には俺の書状が括りつけてあり、同盟国の北条に武田騎馬隊を討ったことを知らせ、同盟国ではないが武田と敵対している上杉にも武田を攻める好機だと知らせる使者を出すようにと書いてある。

 上杉は同盟国ではないが、足利将軍家を通じて交流はあり、良い関係を保っている。


 浅井軍は順調に三河の城を接収していった。

 北条に渡すのは東駿河だけにしたいので進軍速度を上げたが、三河でも武田軍による組織的な抵抗はなかった。

 桶狭間での被害が大きかったにしても、どうもおかしいと思っていると、橘内の手の者が、信玄が病死したらしいことを掴んできた。

 どうやら歴史より少し長生きしたものの、信玄は病死したらしい。

 信玄がいないなら、武田の息の根を止める好機だ。

 俺は城の接収は小数の部隊に任せて、追撃の速度を上げた。

 東海道を遮二無二進み、遠江の西の掛川城のあたりで追いついた。

 しかし、武田軍の中から一部隊が出てきて、小勢でも手強く戦ったため、本隊は逃した。死を覚悟した兵は強い。敵の首を検めると、馬場信春がいた。史実と同じく、主君を逃すために犠牲となるか。敬意を払うべき敵将に俺は合掌した。

 一方、ここまで来れば、俺がいなくても東海道の戦は問題ないだろう。

 東海道の軍は政元に任せ、俺は2万の本隊を連れて近江に戻ることにした。

 あまり長く近江を留守にしていると、せっかく落ち着いた畿内がぐらつきかねない。


1573(天正元)年6月 近江国八幡山城 浅井長政

 各地から、その後の戦況が伝わってきた。

 北信濃では遠藤直経と中島直親の軍が南から攻め込み、上杉軍も北から現れ、武藤喜兵衛も合流した。武田軍はたまらず甲斐へ敗走したようだ。

 謙信は俺の書状を見ると、越中に最低限の兵を残し、北信濃と上州に攻め込んだらしい。さすがに動きが早い。

 東海道の政元の軍は予定どおり西駿河を占領した。武田の抵抗は散発的にあったものの、大きな戦いは無かったようだ。そして東駿河に攻め込んだ北条・今川軍と接触し、取り敢えずの国境を決めたという報告があった。

 橘内の手の者の報告によれば、上州は南から北条軍、北から上杉軍が攻め込んだようだ。

 広がっていた武田の所領は甲斐一国になった。


 やがて田植えの季節になり、北条や上杉の軍勢は国に戻って行った。

 甲斐も田植えの季節で農民兵の動員は難しいだろう。

 だが浅井の軍は動ける。遠藤と中島の率いる兵には長期遠征となるが、信玄の死から武田家が立ち直る前にけりを付けることにした。

 兵力差もあり、俺が出張る必要もないだろうと半兵衛も言ってくれた。

 北信濃からは遠藤と中島の軍、西駿河からは政元の軍が攻め込むと、兵力差に加えて浅井の鉄砲や大砲の威力の前に武田では脱走兵が増えたようだ。

 さらに一族衆の穴山梅雪が裏切り、信玄の後を継いだ勝頼は打つ手がなくなった。

 勝頼は自害し、源氏の名門である武田家は滅んだ。

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