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長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う  作者: スタジオぞうさん
第五章 義兄の死

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八十四 武田の西進

1572(永禄15)年8月 近江国 八幡山城 浅井長政

 田植えが終わると、武田軍は再び徳川領に攻め入った。

 同盟相手である織田が弱体化し、徳川は苦しい戦いを強いられた。やはり綺羅星の如く有名武将の揃う武田騎馬隊は強い。

 あるいは徳川は武田と結ぶことも考えたかもしれないが、つい最近、遠江に食指を伸ばした武田に反発し、徳川は武田との共同戦線を解消して今川と講和したばかりだ。

 武田は西進するにあたり、浅井の後方を攪乱するために本願寺に働きかけ、東の北条には不戦協定を提案したようだ。

 信玄はまだ、浅井は本願寺と不戦協定を結び、北条と同盟したことは知らないだろう。

 だから本願寺も北条も武田の誘いに乗ると思ったのだろうが、両者の返事を待たずに主力を率いて西進したのは、体調のよくない信玄の焦りかもしれない。 

 美濃では、7月に遠山景任が跡継ぎのないままに病死した。歴史より一月早い。

 遠山家からは、景任の妻のおつやの方が当主となることを浅井に打診してきた。歴史のとおりの展開だ。違うのは織田から信長の幼い息子が将来の当主として送り込まれないところだ。

 俺は遠山家に使者を出し、おつやの方の当主就任を認め、もし武田が攻めてきたら後詰をすることを改めて約束した。

 おつやの方は、武田軍に岩村城を包囲されたときに敵将である秋山の妻となったため、不義だと批判されることがある。しかし、自分の身を犠牲にして遠山家の家臣たちを守ったという見方もできると思う。茶々が淀君と呼ばれていたように、戦国時代の女性は貶められがちだと思う。

 武田と徳川の戦いでは、史実では今年の年末に起きた三方ヶ原の戦いが早まったようだ。

 そろそろ結果が伝わる頃だと思っていると、小姓の石田三成が駆け込んできた。

 「御屋形様、大変でございます。」

 「何があった。」

 「三方ヶ原で徳川が武田に大敗し、当主の徳川家康が討ち死にしたようでございます。」

 そうか、徳川家康が逝ったか。

 そうなる予感はあった。三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって死んだと伝わる夏目吉信は浅井家の家臣になっている。

 腹心の参謀である本多正信と、信長から海道一の勇者と褒められた正重の兄弟がいないのも痛いだろうと思っていた。

 さらに大きく俺の知る歴史からずれた。もう歴史の知識には頼れないだろう。

 北条は単独で武田の背後を突くのではなく、俺が動いたときに武田の後方を衝くことにしたようだ。偉大な氏康が亡くなり、氏政が継いだばかりなので慎重になっている面もあるのだろう。

 北条にも本願寺にも、浅井との同盟や不戦協定は武田に気付かれないようにしてほしいと依頼してある。このため、両者とも武田に曖昧な態度をとっているはずだ。

 冷たいようだが、ここで徳川家が武田家に潰されるのは浅井にとって悪い話でもない。俺は信忠は守るつもりだが、家康を助けるつもりはなかった。


1572(永禄15)年12月 近江国 八幡山城 浅井長政 

 9月になり、米の収穫のために武田軍はいったん退いた。

 米の収穫期は浅井にとっては攻めどきなので、中伊勢の長野家を攻めた。

 今回は俺でも政元でもなく、日野城主の前田利家を大将とし、亀山城主の増田長盛を副将として出兵した。

 織田の内戦では越前の遠藤に一軍を委ねたが、今回は譜代の家臣ではない新参の二人に任せた。

 二人は期待どおりに長野家を降伏させてくれた。

 浅井も大きくなってきたので、今後、様々な家臣に軍を任せることが出てくるだろう。


 米の収穫が終わると、武田信玄は再び出兵し、三河を襲った。

 徳川は酒井忠次や石川数正が中心となって迎撃し、織田も援軍を出した。

 織田も余裕はないが、このまま同盟相手の徳川が武田に吞まれれば、次は尾張に武田が迫ることになる。

 だが武田の騎馬隊の前に敗北し、徳川は酒井忠次や鳥居元忠が討ち死にし、援軍に行った織田の森可成も命を落とした。

 武田は東美濃にも兵を出してきた。歴史と同じく、山縣と秋山が兵を率いてきた。

 武田は浅井の援軍が来る前に勝負を付けるつもりだろう。

 だが、その動きは半兵衛の読みどおりであり、橘内配下の忍びは武田軍の動向を常に監視している。

 このため、武田の侵攻に十分に間に合うタイミングで、再び越前から遠藤直経たちに援軍に行ってもらった。浅井は本願寺と不戦協定を結んだので加賀の門徒に備える必要性がなく、越前の兵は遠征させやすい。

 直経も、今回は南信濃の武田勢と雌雄を決すると意気込んで出掛けた。

 遠藤が2万の本隊を率い、敦賀の中島も5千の別動隊を率いていき、南信濃の武田軍を大きく兵力で上回った。

 さらに武田軍を岩村城に引きつけて、事前に遠山家と図って岩村城内に配備しておいた鉄砲隊が撃ちかけ、武田軍が撤退するところを別動隊が衝く形をとったので、いくら名将の山縣と秋山でも勝負にならなかった。

 あるいは東美濃への攻撃は、浅井の目が東海道の武田本隊に向きにくくするための陽動だったかもしれない。

 だが、浅井がこれだけの大軍を東美濃に送ることは予想外だっただろう。

 遠藤と中島は余勢をかって南信濃に攻め込み、高遠城に迫った。

 岩村城を攻めた際の被害もあり、兵力で大きく劣る武田軍は甲斐に撤退していった。


 東海道の武田軍の主力についても、信忠が俺を頼ってくれれば、浅井が援軍を出して十分に押し返せると思う。浅井が動けば、北条も武田の背後を衝く。

 だが信忠からの援軍の要請がなければ、浅井は援軍を出せない。

 俺とお市は甥の信忠を心配しながら、年末を迎えた。


1573(天正元)年2月 尾張国 鳴海城 織田信忠

 年が明けて、武田軍はついに尾張に攻め込んできた。

 昨年には同盟していた徳川家康殿が討ち死にした。

 丹羽や木下は浅井に援軍を頼んではどうかと進言してきた。

 だが、当家の内紛で叔父上の手を借りたばかりだ。

 今回、武田に攻められたからとまた叔父上に助けてもらうことになれば、織田家はもはや独立した大名として立っていられないと思う。

 苦しくても、ここは踏ん張り所だと思った。

 三河の戦いでは、徳川も奮戦して武田にも小さくない被害が出たと報告を受けている。

 今回の戦で何とか武田の勢いを止めたい。

 そう思って鳴海城に私自らが出陣した。

 しかし、武田信玄は狡猾だった。

 必死の思いで城を守っていると、武田の勢いは弱まった。ここだと思い、城から打って出ると、それは罠だった。

 こちらの攻勢に押されたように見えた武田軍を追撃していると、伏せていた別の部隊に横撃された。

 さらに、最初は姿を見せなかったので、三河の戦いで損害が大きかったのかと思っていた武田騎馬隊が襲ってきた。

 ここまでかと覚悟を決めたが、佐久間信盛が殿を引き受けてくれた。

 佐久間は、柴田や林たちとの戦いの際にはしがらみがあって味方できなかったことを詫びたうえで、「退き佐久間の名は伊達ではございません」と笑ってみせ、私に清州に戻るように促してくれた。

 だが実際には佐久間は覚悟を決めていたのだと思う。

 清州城に戻った後、信盛が討ち取られたという知らせがとどき、私は唇を噛み締めた。

 私の判断の誤りで、大切な家臣を失ってしまった。

 これでは父の後を継ぐどころではない。これ以上家臣たちを死なせてはいけない。

 私は浅井の叔父上に従属する覚悟を決め、援軍を要請した。

 

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