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長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う  作者: スタジオぞうさん
第五章 義兄の死

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八十三 武田に備えた外交

1571(永禄14)年10月 近江国 八幡山城 浅井長政

 小田原から訃報が届いた。

 北条氏康が病死したのだ。

 関東の巨人がいなくなったという印象だ。北条氏康は武田信玄、今川義元と伍して北条家を隆盛に導いた。戦も強かったが、何より内政家として尊敬できる。

 北条家の家督は氏政が継いだ。歴史では氏康の遺言にしたがって、上杉との同盟を破棄して武田と再び同盟するが、違う展開になった。

 氏康が上杉と手を切ろうとした理由の一つは、おそらく歴史では将軍義昭の仲介で上杉が武田と休戦したことにあると思う。北条としては上杉に勝手に武田と和睦されては梯子を外された感じだっただろう。

 だが、将軍義昭は浅井と共に行動しているので、そんな仲介はしていない。上杉は越中の一向一揆との戦いで身動きは取れないものの、武田と休戦はしていない。

 このために武田の駿河での軍事行動は、ある程度上杉に備えながら行われた。

 その結果として、駿河は概ね武田領になったものの、北条も武田にやられてばかりではない。

 歴史とは違って韮山城が武田に落とされるようなことはなく、伊豆は北条領のままだ。

 駿河でも今川の旧臣が武田にゲリラ戦を仕掛け、それにあわせて北条が攻め込むこともあり、武田が支配したとは言い切れない。

 さらに、歴史との大きな違いは、浅井が北条と同盟したことだ。

 浅井としては、同盟国である織田が武田と同盟していた間は、武田の敵である北条と同盟することは難しかった。

 しかし、信玄が織田家の内戦を煽ったことで、織田家は武田家と絶縁した。

 この機会に、安養寺には小田原に船で行ってもらった。

 伊勢では調略や小規模な戦をして、浅井の領土を広げつつある。今では津のあたりまで浅井領になっている。

 浅井水軍はかつては琵琶湖のみで活動していたが、日本海沿いの領地が増えてから、海での経験を積んでいる。特に船上での鉄砲の運用は、他家より優れている。

 伊勢湾沿いの領地を増やす過程で伊勢湾の水軍も増強し、今や伊勢湾の制海権は浅井水軍が握っており、三河や遠江、駿河の沿岸も支配しつつある。だから外交の使者を小田原に送ることができた。

 浅井から同盟を提案すると、北条は二つ返事で了承した。

 安養寺によれば、信用できない武田と、ときに予期できない行動をとる上杉とは違い、信頼できる同盟相手ができたと氏政は喜んでいたようだ。

 北条家とは、もし武田が北条を攻めたときは浅井が東美濃から南信濃を攻め、武田が浅井を攻めたときは北条が駿河に攻め込むことを約束した。

 こうしたことの結果として、氏康が亡くなっても北条が武田と組むことはなかった。


1571(永禄14)年11月 近江国 八幡山城 浅井長政

 八幡山城に元気な赤ちゃんの泣き声が響いた。

 お市が次男を産んでくれた。

 幼名は政元と同じ竹若丸にした。竹生島の竹の字を頂くことは縁起が良いように思ったこともある。

 歴史では幼名は万菊丸で、後に政芸と名乗ったようだ。

 生年は不詳だったが、この頃に生まれたのだろうか。お市は昨年に初を産んだばかりなのに、負担をかけてしまった。

 出産は慣れたと言わんばかりに元気な顔を見せてくれているが、しばらくはゆっくり休んでもらおう。

 お市はこれで二男二女を産んだことになる。

 もし長男に何かあっても次男がいるので、浅井家の将来は安泰だ。

 俺に側室を勧めようとする者たちに対して、これまで以上に強く断ることができる。

 後継者の確保や婚姻外交など、この時代の大名が側室を迎えることは理解できるが、お市や子どもたちを幸せにすることが俺の目標だ。家庭内の不和の原因になりえる側室を迎える気はない。 

 長女の茶々は早いもので4歳になり、弟の誕生を喜んでいる。

 不器用な手つきで弟を抱っこしようとする姿は微笑ましい。

 長男の猿夜叉丸は、もう8歳になった。最近では実宰院の姉上から武芸を学び、従妹の松千代殿から内政を教えてもらっている。

 今の浅井家には、次期当主が女性から学ぶことにケチを付けるような者はいない。


1572(永禄15)年3月 近江国 八幡山城 浅井長政

 年の初めは若い武将が元服したり、小姓として登用できたりするのが楽しみだ。

 今年は石田正継の次男である石田三成、栗太郡長束村出身の長束正家、浅井郡の土豪である渡辺右京の子である渡辺勘兵衛が揃って10歳になったので、小姓として登用した。

 いずれも将来の活躍が楽しみだ。

 そして、年末年始にかけて、水面下で外交努力をしていたことが実った。

 将軍義昭に加えて朝廷にも働きかけて、浅井と本願寺は不戦協定を結んだ。

 昨年は越中大乱と呼ばれる激しい戦いを繰り広げていたので、本願寺も浅井と対立する余力はなかっただろう。

 ただ、俺は単なる不戦協定ではなく、浅井領内では本願寺は武装しないことを求めていたので、交渉は簡単ではなかった。

 そのあたりは、畿内で続く戦乱を嫌気している朝廷が力を貸してくれた。

 本願寺に対し、武田に使嗾された戦国大名のように戦を起こすのはよくないのではないかと朝廷は釘も差してくれたのだ。

 本願寺は門徒を守るために止むを得ずと説明していたようだが、朝廷からは、では浅井のように民を安んじる内政が行われていれば、湖北十カ寺のように戦力を保持せずに信仰に専念するのだなと念を押されたようだ。

 結局、本願寺は浅井と休戦協定を結ぶと共に、浅井領内では過剰な戦力を保持しないことを約した。

 浅井から石山本願寺に対して、石山本願寺からの退去は求めず、多額の矢銭を課すこともしないが、鉄砲を運び込んだり兵を集めないように求めた。

 石山本願寺もこれを受け入れた。

 門徒たちも好んで戦いたいわけではない。近江の門徒たちから浅井領内なら安心して暮らせるという話も伝わっていたようだ。 

 本願寺との不戦協定を急いだのは、武田の動きに備えるためでもある。 

 武田信玄は体調が回復して、再び西に進もうとしているらしい。

 浅井は兵の数も鉄砲の数も武田より遥かに多いが、歴戦の武田騎馬隊の強さは侮れない。

 歴史では、そろそろ三方ヶ原の戦いも起きる頃だ。

 だから、武田が西進を始めたら、本願寺に後方を扼されることのないようにしておきたかった。

 三條西卿によれば、本願寺顕如がこれまでのように信玄に唆されることはないだろうとのことだった。

 これで後顧の憂いなく、武田と対峙できる。 



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