七十九 美濃にかかる暗雲
正月の宴は賑やかだった。畿内を支配したことで浅井は天下を獲ったなどの威勢の良い声も家臣たちから聞かれたが、武田や上杉、毛利など強力なライバルがいる。
天下を獲ってなどいないし、まだまだ油断できない。
半兵衛や橘内と情勢を検討しているが、俺の歴史の知識からは随分乖離したので、今後はあまり歴史の知識に頼れないだろうという認識で一致した。
一方、歴史の修正力のようなものを感じることもあるので、歴史を自由に改変できるとは思わない方が良いと自戒もしている。
ただし、今までのところ武将の健康状態や寿命は、俺の知識からあまりずれていないようだ。
歴史では今年の5月頃に信玄は血を吐いて、三河で有利に進めていた戦を中断して甲斐に戻る。
武田と戦うなら、なるべくその直前にしたい。
こんなことを考えているのは、織田家で内戦が起きる可能性が増大しつつあるからだ。
橘内の報告によれば、織田家中の親浅井派と親武田派の対立はさらに深刻化している。
織田信忠は歴史では甲州征伐の指揮をしたり、雑賀攻めで雑賀孫一を降したり、武将としての能力の高さを示している。だが、残念ながら現時点では実績がない。
信玄は親武田派の柴田や林に対して、もし兵を挙げるなら援軍を出すとけしかけているようだ。
浅井としても、親浅井派の丹羽長秀や滝川一益、木下藤吉郎らに対して、もし武田との戦いになれば浅井は全力で織田を助けると伝えている。
松姫を嫁に出すと武田が言っていることは、今川との政略結婚で同盟しても破った前科があるので、織田家中でもあまり評価されていないようだ。
婚姻外交については、安養寺と進藤の意見も聞いたが、血縁という点では、信長の妹であるお市の産んだ長男が浅井の後を継ぐので、織田とは既に十分縁があるという意見だった。
一時は信忠と京極竜子との結婚という話も出ていたが、無理に進める必要はないと二人とも言ってくれた。
竜子を外交の駒として扱う必要がないことに、俺はほっとした。
1571(永禄14)年2月 美濃国 岐阜城 織田信忠
丹羽長秀が、内密の話があると言ってきた。
人払いをしてほしいとは、穏やかな話ではないようだ。
丹羽は織田家臣の中でも温厚な人柄で知られ、父も信頼していた武将だから、私も信を置いている。
「五郎左、何があったのだ。」
「されば、申し上げにくいことながら、林佐渡と柴田権六は戦の支度を始めている様子でございます。」
「戦の支度か。私に背くということか。」
「恐れながら、そうだと思われます。どうやら三七様を次期当主として担ぐつもりでございます。」
織田の家臣は親浅井と親武田の二派に分かれて議論していたが、今川との婚姻同盟を踏みにじって駿河に攻め込んだ武田を信じるのは愚かと言うべきだろう。
織田が西に進むためには浅井領が邪魔になると言う主張に一定の理はあるが、父の死で混乱している織田家に西進する余力はない。
浅井の叔父上は、時期が遅くなっても堺で織田の代官を受け入れると言ってくれるなど、織田に十分配慮してくれている。
結局、柴田や林は自分が織田家の主導権を握りたいのではないか。
最近の私はそう考えるようになった。
私が浅井家との同盟に傾いたと見た柴田や林は、最近岐阜城を辞して領地に戻った。
自分たちの主張を諦めたとも思えないと見ていたが、どうやら弟を担いで叛逆するらしい。三七信孝は、私や信雄と母が違うために低く扱われていると不満を持っていたようだ。
そして、林や柴田の背後には武田信玄がいるのだろう。
「家臣が背くのは私の力不足。だが、こうなれば柴田と林を討つしかないだろう。出兵の準備をしてくれるか。
それから、武田が出てきたときに備えて、浅井の叔父上に援軍を頼んでくれるか。」
「畏まりました。我らは全力を持って殿をお支え申し上げます。」
丹羽長秀と滝川一益、木下藤吉郎は親浅井派の家臣たちだ。
考えてみれば、父上が見出した武将たちは親浅井、祖父の頃から重臣だった家の者たちは親武田ということになる。
1571(永禄14)年3月 近江国 八幡山城 浅井長政
美濃に戦の暗雲がかかりつつある。
親武田派の家臣たちが戦の準備をしていることを美濃衆をはじめとして橘内配下の忍びたちが掴んできた。
どうやら信忠が浅井との同盟を続けようとしていることに不満のようだ。
柴田や林は義兄上の三男の信孝を傀儡の当主にして、実権を握るつもりでいるのだろう。
だが、あの信玄が相手でそれで済むとは思えない。
柴田や林が内紛を起こせば、信玄は丸ごと織田を呑み込もうとするだろう。
しばらくして美濃の信忠から使者が来て、状況を知らせると共に武田が出てきたときに浅井に援軍を出すよう頼んできた。
「織田家の状況は承知した。浅井は勘九郎殿にお味方致す。
勘九郎殿は義兄上が後継者としていた嫡男であり、柴田らの振舞いは道理がない。
柴田や林らは武田信玄に踊らされているのだろう。武田は約束を守らぬ。柴田や林が織田の実権を握ることなど許さず、織田を飲み込むつもりだろう。」
「かたじけなく存じまする。」
使者は木下藤吉郎だった。本来なら重臣の丹羽や滝川が来るべきところ、迎え撃つ準備があるので、俺と面識のある自分が使者に立ったと詫びていた。
俺は藤吉郎殿が来てくれれば十分だと答えた。
陽気な秀吉だが深刻な表情を浮かべていた。
先の読める秀吉には、この内戦を信忠が勝ち抜いても織田の力は大きく失われることが分かっているのだろう。




