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長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う  作者: スタジオぞうさん
第五章 義兄の死

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七十七 畿内の統治と信忠の元服

1570(永禄13)年6月下旬 山城国 浅井長政

 6月のうちに近江から京に戻った。

 武田の動きに備えるためにも、畿内を早く安定させたい。

 歴史は既に大きく改変してしまった。半兵衛や橘内とも相談して、これまでのようにバタフライエフェクトを気にするのではなく、あるべき体制の確立を目指した。

 浅井は将軍の信を得ており、摂津に代えて政所執事になった伊勢も親浅井といってよい。

 今後、畿内の統治は概ね浅井の考えに沿って進められる。

 まず、将軍の襲撃という三好三人衆の暴挙を防げず、救援に来たのも浅井と三好義継だったことで、管領の畠山と侍所執事の一色は辞任した。

 ここで将軍に頼んで、どこかの名家の家名をもらえば浅井は管領になれるかもしれない。だが、既に室町幕府の体制は形骸化していて、管領も侍所執事も名前だけになってしまっている。だから、どちらも空席にすることにした。

 次に畿内の統治体制だが、河内は三好と畠山が半国ずつの守護だったところ、三好を河内全体の守護にした。ただし畠山の領地は安堵した。   

 和泉の守護は浅井が任じられた。そして堺の代官も当面浅井だけが置くことにした。織田家からも代官を出す予定だったが、まだ誰を任じるか決まってない状態で当主が亡くなった。有力家臣は美濃に集まっており、それどころではなくなっている。

 織田家への外交的配慮として、状況が落ち着いたら堺に織田の代官も受け入れると伝えてある。

 堺の代官は浅井の商業の今後を考えると非常に重要なポジションだし、清水山の従妹殿との連携も重要なので、妹の竹千代を抜擢した。

 浅井竹千代は最近は姉に劣らぬ才媛として頭角を現わしているし、歴史での活躍からいっても、十分やれると判断した。もし堺の商人たちが女だと侮れば、手痛い目に遭うだろう。竹千代殿の補佐には、松井有閑を付けた。

 堺を得ることで浅井の貿易は一層盛んになる。これまでの日本海貿易でも明の商人との取引が有ったが、堺では南蛮商人との取引もできることが大きい。

 絹も有力な輸出品だが、特に淡水真珠は欧州で高値が付くことが期待できる。

 和泉の主城である岸和田城は、大津にいた新庄に任せた。

 新庄は家督継承のときから信頼している譜代の家臣だし、浅井の商業にも詳しいから、堺の従妹殿のバックアップもしてくれるだろう。

 摂津はいわゆる三守護のうち伊丹親興は留任させたが、家臣の荒木村重が三人衆と通じた池田勝正と、もともと甲賀の国人で摂津にあまり縁のなかった和田惟政は守護から外した。ただし、混乱を避けるために池田の領地は安堵している。

 新しい摂津の三守護には、旧六角家臣の後藤高政と宮部継潤を抜擢し、三好家の重要拠点だった芥川山城と高槻城をそれぞれ任せた。

 ところで、後藤高政というのは誤字ではない。旧主の六角義治に父と兄を討たれた怒りから、本人の希望で名前を高治から高政に改名した。

 自分がされて嫌だったことを他人にしたくないので、俺は自分の名前を使うよう家臣たちに強制は決してしないが、後藤の六角家臣から浅井家臣になるという思いは受け取った。

 名門六角家の両藤と呼ばれた後藤家には畿内に詳しい家臣もいるようだし、うまく統治してくれることを期待している。

 もう一人の宮部継潤は謀略に強い武将だから、陰謀渦巻く畿内でもうまくやってくれると期待した。史実では浅井家を裏切ったが、ここでは橘内の補佐を長くつとめていて、忠誠心という点でも、もう心配をしていない。

 山城は将軍の直轄地として引き続き守護は置かないものの、守護代に浅井が任じられた。将軍の御料所は維持するが、防衛と治安維持、訴訟などの行政は浅井が行う。

 山城の防衛拠点は、将軍の了解を得て勝龍寺城をもらいうけた。二条城の近くに浅井の屋敷も構えるが、兵を置いて西に備える拠点が必要だと考えたからだ。

 山城の仕切りは、伯父の浅井明政に頼んだ。

 京における俺の名代は重要なポストだし、浅井一族の方が何かと都合が良い。河内の三好家との交渉窓口をつとめてきたという経緯もある。

 海津の本領は高島郡の領地と共に清水山の従妹殿に任せて、伯父上には二条城近くの浅井屋敷に住んでもらうことになった。

 伯父上の補佐には元六角六人衆の目賀田貞政を付けた。

 そして、山城を守る勝龍寺城の城主は、信頼できる譜代の片桐直貞に任せた。

 近江では、鎌刃城主の後任には本多正重を抜擢した。

 越前での戦いぶりは目覚ましいものだった。さすが歴史で信長から海道一の勇者と言われただけのことはある。

 いずれ武田軍と美濃あたりで戦うとなると、鎌刃城は前線に近い城となるから、戦の指揮が上手い武将を城主にしておきたい。

 もう一人の三河出身の将である夏目吉信は、俺の旗本の隊長にしている。

 大津城主兼大津代官には弓削梓を抜擢した。最近では彼女の弓の腕は諸国にも鳴り響き、「今板額」という異名も付いた。

 山本山城主には若宮まつを抜擢した。まつは四年前から武芸を姉上に学び、内政を従妹殿に学び、大きく成長した。主として警備隊で活躍しているので、北国街道の警備も担当してもらう。

 横山城主は山内一豊に任せた。浅井に仕官してから、早いもので7年になる。目立つ活躍はないが、安定感のある武将に成長した。

 姉上はお市の警護もあるので、八幡山城に来てもらった。

 城下には大きな訓練所をつくったので、引き続き警備隊の訓練をお願いしている。姉上の鉄砲と弓の訓練には定評があるが、ある将来構想のために、騎乗の訓練を教える者も増やした。

 橘内も朝妻城だと八幡山城から遠いので、八幡山の近くの岡山城を整備して、その城主を任せるつもりだ。

 朝妻城主には藤林長門守を任じた。将軍義昭救出で活躍した伊賀の女性忍者は、藤林長門守の娘だったので、その功に報いる意味もある。

 藤林家の本拠地は伊賀と甲賀の境にあり、甲賀にも影響力がある家だ。浅井の忍びの長は橘内だが、その下で伊賀と甲賀の連携を取るために尽力してくれていることにも報いたいと思っていた。 


 畿内の拠点となる城には、浅井の常備兵を配置した。堺を抑え、京を抑えたことで浅井の経済力はさらに飛躍する。

 約6万人いる常備兵はさらに2万増やすことにした。

 畿内で三好三人衆の陣営にいたせいで没落した家の家臣なども雇った。そうした新参の者は畿内ではなく越前や近江に配備し、近江のベテラン兵を一定数、畿内に配置した。

 こうして畿内の統治体制を整えた。三好三人衆が阿波から攻め込むような隙はつくらないつもりだ。

 畿内の体制整備が一段落したところで、近江に戻った。


1570(永禄13)年7月 美濃国 岐阜城 織田信忠

 父上の死は織田家にとって、あまりにも大きい。

 しばらく隠すことにしたが、いつまでも隠しておけるものでもない。

 家臣たちと相談し、父上の死を明らかにすると共に私が元服して家督を継ぐことになった。

 私はまだ13歳だ。偉大な父の後を継いで織田家を率いて行けるだろうか。

 織田家には父が集めた優れた武将が集まっている。だが、皆が仲が良いわけではない。

 父だから家臣たちをまとめることができていた。

 今も、家臣たちは親浅井と親武田の二派に分かれて対立している。

 私の母は永禄9年に亡くなっている。母は父上の側室で、母の実家の生駒家は裕福な馬借だが、織田家中であまり影響力のある家ではないから、後ろ盾になることを期待してはいけない。

 祖父も父も子どもはたくさんいるが、父は織田一族と戦い続けてきた。

 一族の長老格というと、父の庶兄の織田三郎五郎信広殿になる。三郎五郎殿は父の名代として京にいたが、父の訃報に接して美濃に戻っている。

 三郎五郎殿は最近は父に忠実に従っていたが、若い頃には斎藤義龍と組んで父に対する謀反を企てたことがある。私のことをどこまで支えてくれるか、無条件で信頼することは難しい。

 それでも、私は自分にできることをして、一歩ずつ進んでいくしかない。    

 

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