七十五 暗殺の裏側
1570(永禄13)年5月上旬 山城国 二条城
義兄の織田殿の死に大将は動揺し、間違いではないのかと大声を出した。
残念ながら間違いではないと俺が答えると、茫然と立ち尽くした後で、
「これも歴史の修正力なのか」、「信長が死ぬ運命は回避できないのか」などブツブツと言い始めた。
歴史の修正力があるのか、どれくらい回避が難しいのか、大将の未来の知識を知った俺たちの間ではよく議論になる。
だが、歴史とは人がつくるものだろう。
織田殿の暗殺にも裏の事情がある。
話は少し遡るが、俺と半兵衛殿は大将に隠していたことがある。
1570(永禄13)年4月 山城国 山中橘内
紀州に放っている手の者から気になる報告があった。
鉄砲の名手と呼ばれている男が、何者かに雇われて京に向かったという。
雑賀衆か根来衆なのかはよく分からないが、とにかく鉄砲の名手として知られているらしい。
何が目的なのか良く調べるようにと指示を出した。
しばらくして、追加の報告があった。
どうやら織田殿を暗殺する依頼である可能性が高いようだ。
鉄砲の名手は、京の盗賊など影の世界の者に、織田家の動きを聞いて回っているらしい。
誰が依頼したかまでは分からないが、織田には敵が多い。
最近では長島を攻めて本願寺の門徒と敵対し、さらに日蓮宗の本圀寺を破壊して法華門徒も敵に回している。
さて、この情報をどうすべきか。
普段の俺なら、大将に報告するところだ。
だが、このままでは浅井家と織田家の関係は面倒なものになる可能性が高い。
大将は義兄の織田殿とうまくやっていけると信じたいようだが、歴史をみても、天下を獲れるのは一人だろう。
大将は敵には厳しいが、身内には優しく甘い。俺は大将のそういうところも好きだが、甘さが大将自身を苦しめることもあると思う。
報告した者に情報を引き続き集めるように指示をしてから、俺は腹心の忍びを呼んだ。
「お呼びでございますか。」
気配もなく傍に現れたのは芥川九郎、甲賀二十一家のうち北山九家の一つである芥川家の次期当主だ。
俺が近江に行くと行ったときから付いてきてくれている、最も信頼できる忍びだ。
「九郎。どうやら織田尾張守を狙っている者がいる。詳しい出自は分からないが、紀州の鉄砲名人らしい。
それで、既に大津あたりの警護は固めているが思うが、山城との国境のあたりの警護をさらに厳しくしてくれるか。」
「山城の警護は良いのですな。」
「ああ、近江を固めてくれればいい。山城はよい。」
「承知。」
再び九郎は気配を消した。聡い九郎は、俺の意図をよく理解してくれる。近江では山城との国境の警護を固める一方、山城の警護はわざと甘くするはずだ。
紀州の鉄砲の名人はそれなりに影の世界に詳しいようだから、襲撃は山城で行うだろう。
数日後、大将と半兵衛殿と京の状況を確認した後で、半兵衛殿が俺をたずねてきた。
半兵衛殿は挨拶をするとすぐに切り出してきた。
「橘内殿、何か一人で抱えておられませんか。」
忍びとして育った俺は、表情を表に出さない訓練は厳しく課された。
大将や半兵衛殿に隠し事をしていることは気取られていないはずだ。
「いや、そのようなことはありませんが。」
「そうですか。では、私の独り言をお聞きください。」
半兵衛殿は淡々と話し始めた。
「浅井家と交替する形で織田家は近く京を離れます。
織田殿は長島で本願寺の門徒と戦い、二条城造営のために本圀寺を壊して法華門徒の恨みを買いました。
駿河の今川、美濃を追われた斎藤に加え、尾張では織田一族と争い、もとより敵の多い方です。
本拠地を離れている今、その命を狙おうとする者もいるでしょう。
ところが、橘内殿からそのような話はありません。
甲賀と伊賀を束ね、美濃衆まで配下にしている橘内殿です。
織田殿を襲撃しようとする者の動きに気付かないはずはありません。
それなのに何も話をされないのは、何か抱えておられるのではないかと思ったのです。」
くっ。この天才軍師は、具体的な情報はなくとも、状況からそこまで見抜くのか。
「もしそうだとしたら、どうされる。」
「いや、私は何もするつもりはありません。浅井と織田は唇歯輔車の関係だと殿はよくおっしゃる。確かに今は両家の関係は良い。しかし、天下を二つの家で分け合うことはできないでしょう。」
半兵衛殿は、むしろ優しい口調で話を続けた。
「橘内殿。私も織田家には弱くなってもらった方が浅井家にとって良いと考えています。
織田殿は確かに優れた武将ですが、領地を栄えさせ、民に優しく、出自はおろか性別も問わず能力があれば登用する御屋形様こそが、新しい世をつくる人だと思っています。
次の天下人になるべきなのは他の誰でもない、浅井新九郎長政です。
私が橘内殿に申し上げたいのは、ただ、お一人で背負う必要はないということです。
おそらく橘内殿は近江の警護を固めたうえで山城の警護は緩めるのでしょう。
それだけでも十分かもしれませんが、織田殿がいつ京を発ち、どの道を通って近江に向かうのか、暗殺者に伝わるようにできませんか。」
「半兵衛殿がそこまで考えてくださるとは。かたじけない。」
「いや、御礼は私が言うべきです。御屋形様のために汚れ仕事を引き受けてくれるのは、軍師としても非常に有難い。
しかも誰にも頼まれてもいないのに、御屋形様のために嫌な役回りを果たそうとする貴方こそが一番の忠臣だと私は思っています。」
こうして、半兵衛殿と俺は密かに、織田殿の暗殺がうまく行くように御膳立てをした。
大将に隠して動くのは不忠かもしれないが、大将を天下人にするためなら手を汚すことも厭うつもりはない。




