七十二 毒をもって毒を制す
1570(永禄13)年1月7日 山城国本圀寺 浅井長政
史実から1年遅れだが、日付は同じ1月5日に本圀寺の変が生じた。
三好三人衆は約1万の兵で足利義昭の仮御所の本圀寺を襲った。
歴史では織田家の兵や若狭武田家の兵が奮戦し、寺内への三好の侵入を阻み、翌日に山城の細川藤孝、北河内の三好義継、摂津の池田勝正らが援軍に駆け付け、三人衆を追い払ったと伝わる。
だが、ここでは本圀寺に織田家の兵はおらず、浅井の家臣となった若狭武田家の兵もいない。そして本圀寺の状況の報告を聞きながら、俺は近江から出兵するタイミングを見計らっていた。
将軍義昭を無事に救出したという報告を受けたときは、ほっとした。
義昭は逃げてくれるとは思っていたが、兄の義輝殿を救えなかったことは俺の中で大きな悔いになっている。
将軍を救出してから間もなく、5日の夕刻には三人衆の軍は寺内に侵入し、摂津晴門や上野清信など幕臣の多くは討ち死にしたようだ。
援軍を遅らせたのは、幕政を壟断し、将軍家と有力大名の対立を煽ったり、私腹を肥やしたりした側近たちを三好三人衆に片づけてもらうためだ。
自分でも悪辣な気もするが、綺麗事だけでは魑魅魍魎の跋扈する畿内の情勢に対応できない。
翌朝になり、三人衆の軍勢が本圀寺内に義昭がいないか探していたところに勝龍寺城の細川藤孝と伏見の三淵藤英の兄弟の軍勢が着いたようだ。
だが、北河内の三好義継は事前の打合せどおり、援軍は出すものの、浅井と同様に遅れて到着する。
摂津の池田勝正は、荒木村重が謀反を企んでいるという噂を浅井の忍び達が流したので、出陣して背後を突かれることをおそれ、動けなかった。
村重は本圀寺の変では謀反を起こすつもりはなかったかもしれないが、橘内の手の者は村重が三好三人衆と密かに通じていることを掴んだから、あながち虚報でもない。
同じく摂津の和田惟政は、もともと甲賀の国人で摂津に地盤がなく、周囲の国人たちとの関係が薄い。 そのため、和田が京に向けて出兵すれば、摂津の国人や地侍たちは三好三人衆に通じて背後から襲うという噂を流したところ、動けなかったようだ。
結果として、山城の細川藤孝と三淵藤英だけが援軍に来たが、河内からも摂津からも援軍が来なかったため、三人衆の軍勢に単独では抗し得なかった。
しかも三人衆の軍勢が義昭を探していたため、藤英と藤孝の兄弟も、まだ義昭がいると思って本圀寺に突入したようだ。
あるいは永禄の変の際に義輝を助けられなかったので、今回は何とか助けようと思ったのかもしれない。
結局、三淵藤英と細川藤孝の兄弟は討ち死にしたと報告があった。
後のことを考えると、藤英と藤孝の力を削いでおきたいと思い、他の援軍が来ない状態で三人衆とぶつかるように仕向けたのだが、後味の悪い結果になった。
歴史では本能寺の変の際、光秀と仲が良かったにも関わらず光秀を見限った細川藤孝なので、本圀寺に駆け付けても勝ち目がないと思えば逃走すると予想したのだが、意外な結果だった。
やはり歴史の知識があるといっても、人の行動は読めないものだと思わされた。
浅井軍は、5日に幕臣たちの討死の報告を受けたところで長浜を出て、7日に本圀寺に着いた。
急いだので、連れてきた兵の多くは南近江に駐留している常備兵だ。それでも事前に八幡山にある程度の兵を集めていたので、ざっと2万はいる。
武将としては、日野の前田利家や大津の新庄直頼らがいる。
将軍が見つからずに焦っている三人衆の軍勢を襲うと、最初は抵抗の構えを見せたが、浅井勢がほぼ二倍の兵数であることに加え、タイミングをあわせて三好義継と松永久秀の兵も現れたことで、敵わないと思った敵兵は逃げ出した。
そのまま追撃戦に移り、桂川の河岸で足の止まった三人衆の軍勢は、交戦を余儀なくされた。歴史の本圀寺の変と同じような展開だ。
戦意の下がった三人衆の兵には、川に逃げ込み、溺死した者もいたようだ。
三人衆はしぶとく逃げ出したが、阿波から連れてきた多くの兵が討たれ、客将の小笠原信定も討ち死にした。
俺は御所の警備に3千の兵を残すと、残りの兵には畿内で追撃戦を続けるよう指示した。
1570(永禄13)年1月15日 山城国勝龍寺城 浅井長政
京を逃げ出した三好三人衆を追っていた前田利家や新庄直頼も山城に戻ってきた。
摂津と河内にも追っ手を出したが、捕えることができなかった。どうやら三人衆は阿波に逃げ込んだらしい。
三人衆の逃げ足は一級品だ。だが多くの兵を失ったので、しばらく派手な動きはできないだろう。
将軍義昭は、安全を確保するために近江の八幡山城で保護している。情勢が落ち着けば京にお戻り頂く予定だ。
本圀寺では、君側の奸と言うべき幕臣たちも討たれたが、真面目な幕臣にも犠牲が出た。
済まない気持ちもあるが、全てを得ることはできない。
安否を気にかけていた幕臣の一人に、明智光秀もいた。
歴史では、本圀寺の変で奮戦したことが表舞台に光秀の名が現れる最初の機会になっている。
家臣に行方を探させたところ、負傷はしていたが、幸いなことに生きていた。
光秀を保護するように家臣に指示をした。
美濃を出た織田軍が京に着いたのは、15日のことだった。
義兄の信長に会い、既に三人衆は畿内から逃走したことを伝えると、少し心外なような表情を浮かべたが、それでは城としての防衛機能を持つ将軍の御所を造るとのことだった。
信長も京まで来て、何もせずに美濃に帰ることはできないだろう。
将軍のための城造りは一任して、俺はいったん近江に戻ることにした。




