七十一 本圀寺の変
1570(永禄13)年1月 近江国長浜城 浅井長政
年が明けたが、ある歴史イベントを待っていたので、正月の宴は簡素にした。
家中の者には、畿内の情勢が不透明だから宴は控えるようにと伝えている。
1月2日に橘内が報告に来た。
「大将、年末に阿波から和泉に着いた三好三人衆の軍勢だが、京に向けて出発したようだ。おそらく明後日あたり、例の事件が起きるだろう。」
「そうか、予定どおりだな。」
この半年ほど、この歴史イベントに向けて、いろいろな準備をしてきた。
「俺は美濃に向かっていることになっているんだったな。」
「そうだ。松永弾正も一緒に向かっていることになっている。」
史実では信長が美濃に帰り、松永久秀も美濃に向かったすきを突いて、三好三人衆は畿内に舞い戻っている。
それを再現するために、俺も久秀も正月に美濃に向かうという噂を畿内に流した。
どうやら上手くいったようだ。
目立たぬように出兵の準備をしよう。
1570(永禄13)年1月3日 山城国本圀寺 足利義昭
正月の宴は賑やかに続いている。
昨年はついに将軍になることができた。
皆が正月を喜ぶのも分かる。
だが、京の民は貧窮に喘ぎ、餓死する者もいる。
私は足利家に生まれたとはいえ、早くに出家し、長い間、覚慶という名前の僧侶だった。
乱世で苦しみ民の声を聞き、何とか救いたいと思ってきた。
だが僧侶の身では民の苦しみを何とかしたいと思っても大したことはできなかった。
兄上の側近だった者たちの言に従い、還俗して将軍を目指したのは、力を握れば出来ることもあるだろうと思ったこともある。
しかし、この半年くらいで、私はお飾りの将軍だということを思い知らされた。
実権は政所執事の摂津や幕臣たちが握っている。
目の前で贅沢な食事を並べ、美女に酌をさせている側近たちを見ながら、私の心は晴れなかった。
そのとき、宴の席に家臣の一人が駆け込んできた。
「何事じゃ」とか「宴の席に無礼であろう」などと怒鳴る声が聞こえる。
しかし蒼褪めた顔をした家臣は、そうした声が耳に入らない様子で叫んだ。
「大変でございます、三好の兵が京に攻め込んでくるようでございます。」
宴の場は大騒ぎになった。
三好三人衆は昨年末に阿波を出て、堺の南方の家原城を攻めたとは聞いていた。
だが、三好義継からは家臣が防いでおり、大和の松永弾正も援軍に来るとの知らせがあったので、安心していた。
実際には家原城は落ちており、三人衆の軍勢は京に向かっていたようだ。
1月5日 山城国本圀寺 足利義昭
三好三人衆の軍勢は、知らせのあった翌日の四日には東福寺近辺に陣を置き、瓜生山の地蔵山城を焼き、さらに洛中の周辺に火を放った。
どうするか騒いでいた側近たちは結局、本圀寺に籠城し、救援を待つことにした。
火を放たれたので逃げられなくなったというほうが正しい表現だろう。
側近たちは放火されて苦しむ民のことは考えていない。これが幕府の実態かと思うと暗然となる。
山城にいる細川藤孝や摂津の池田や伊丹、城を落とされた三好義継にも救援を要請する使者が送られた。
さらに一部の幕臣は嫌がったが、私の判断で近江、若狭、越前、伊賀の四国の太守である浅井にも救援を求める使者を出した。
5日になり、いよいよ三好三人衆の軍勢が押し寄せてきた。
幕臣たちはせいぜい5千くらいだと言っていたが、どうやら1万を超える大軍のようだ。
本圀寺を守る兵は二千もいない。
大軍の足音は怒号は、本圀寺の奥にまで聞こえてくる。
私も兄上と同じく、三好三人衆の手にかかるのだろうか。
恐ろしい。いったい何のために将軍になどなったのだろうか。
部屋の中で震えていると、物音も立てずに何者かが傍に現れた。
驚いて声も出ない私に、その者は低い落ち着いた声で言った。
「上様、ご安心ください。私は浅井家臣山中橘内の配下の忍びの者でございます。上様をお救いに参りました。」
驚いたことに、それは女性の声だった。
「私が女であることに驚かれましたか。正月の宴で多くの女が招き入れられましたので、女の方が潜入しやすかったのです。
私は伊賀の藤林家の者で、こう見えても訓練を積んだ忍びです。外には手練れの忍びたちも待っておりますから、大丈夫でございます。」
私は忍びに手を引かれ、部屋の掛け軸の後ろに隠された入口から逃げ出した。この部屋のすぐ外には数人がいつも詰めていたはずだが、誰も現れなかった。
「このような隠し通路がいつの間に。護衛の者たちは気付かないのか。」
「主の浅井中将と山中橘内は、こんなこともあろうかと、将軍の御座所となる可能性の高い本圀寺に細工をしていたのでございます。
部屋の外に詰めていた者たちには眠ってもらいました。殺してはおりませんので、どうかご安心を。」
浅井は多くの兵を有していることは知っていたが、その強さは戦だけではないようだ。
忍びを使った水面下の戦こそ、浅井の独壇場なのかもしれぬ。
幕臣たちを残して自分だけ逃げることに一抹の罪悪感は覚えた。
だが、この半年、彼らが権力の甘い蜜に群がって私腹を肥やすところを見てしまったので、まあ良いかと思えてしまった。
長政記のあらすじをストーリーの進行にあわせて少し修正しました。
次第に歴史からの逸脱が大きくなり、もうじき佳境に入ってきます。それなりに書き進みましたので、18日の週ぐらいから毎日更新しようと思っています。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。また、評価点やブックマークを頂いた方々に深く感謝申し上げます。PVと総合評価が伸びることは執筆の原動力です。
さらに誤字脱字をチェックして頂いている方々に御礼を申し上げます。自分でもチェックしているつもりですが、このところミスが増えており、大変ありがたく思います。




