六十九 浅井と織田の連合軍の上洛
1569(永禄12)年四月上旬 近江国八幡山城 浅井長政
いよいよ義兄の信長と一緒に上洛する。
浅井軍の集結場所はいつもの長浜城ではなく八幡山城にした。
今回は一気に畿内を制圧すべく、北陸の兵もある程度動員する。
今津や海津から船で長浜に来て、そこから陸路で京に行くのは遠回りだ。
京に近いという意味では大津まで船で行くことも考えられるが、比良おろしが吹けば大津付近の船での移動は困難になる。
有名な「急がば回れ」ということわざの語源は「もののふの矢橋の船は速けれど 急がば回れ瀬田の長橋」という短歌だと伝わっている。
東海道の草津宿から大津宿を経由して京都へ向かうとき、草津の矢橋港から大津の石津港まで琵琶湖を通る船のルートだと距離は短いが、比叡山から吹き下ろす突風(比良おろし)で舟が転覆するなど危険があるから、瀬田の唐橋を経由する陸路の方が安全で確実だという意味の和歌だ。
浅井の大型の軍船はそうそう転覆はしないが、比良おろしに出くわすと到着が大きく遅れることはある。
その点、大津より東にある八幡山城のあたりは、そこまで厳しい風は吹かない。
今後は畿内に出兵することも増えてくるだろうし、家臣の屋敷が増えてきて長浜は手狭になってきたこともあって、本城は八幡山城に移す予定だ。
こんなこともあろうかと八幡山城の城下町は大きめに作ってある。
政元には俺と交替で長浜城に入ってもらおうかと思っている。
上洛にあたって、半兵衛や橘内と、どれくらいの規模の出兵にするか検討した。
今では浅井領は160万石くらいに増えている。
生糸や清酒、淡水真珠などの特産品の利益に加えて、昆布などの日本海貿易の利益も伸びてきていて、浅井の経済力は日増しに強くなっている。
越前侵攻でも人的被害は少なかったこともあり、最近では銭で雇っている常備兵は約6万人にまで増加している。
今回の上洛では、その中から約4万を出すことにした。
可能性は低いが、もし上杉や武田など周辺の大きな勢力が攻めてきても、農民兵を動員するまでは2万の守備兵で対応できるだろう。
上洛する浅井の軍勢は浅井の常備兵約4万人に加え、甲賀と伊賀の地侍たちが2千、西美濃三人衆が3千の兵を出すから、合計で約4万5千人の軍勢となる。
昨年元服した蒲生氏郷と片桐且元にとっては初陣になる。
二人とも張り切っているが、いきなり大きな手柄を得ようとせず、とにかく生き残ることを第一に考えるようにと言ってある。
織田は2万5千人出すと言ってきた。長島での敗戦の影響を考えれば、頑張った数字だろう。浅井の半分よりは多く出したい気持ちがあったかもしれない。
合計約7万の大軍で上洛すれば、おそらく三好三人衆は戦うより四国に逃げることを選ぶだろうと半兵衛は予測した。俺も同意見だ。
「御屋形様、失礼致します。」
新しい近習が入ってきた。
今年の一月に元服した赤尾清綱の息子だ。清冬と名乗っている。
歴史では、小谷落城時に清綱は腹を切ったが、その忠義を評価した信長に清冬は助命されたと伝わる。
宿老の清綱が支えてくれていることに感謝しているので、清冬には立派な武将に育ってほしい。
俺が発言を促すと清冬は用件を述べた。
「諸将の皆様の出陣の準備が済んだようでございます。」
「そうか、俺も出ることにしよう。」
1569(永禄12)年四月下旬 山城国・摂津国 浅井長政
浅井と織田の連合軍が山城に進軍すると、三好三人衆は戦わずに逃げた。
足利義昭と側近たちは上機嫌だ。
日蓮宗の大寺である本圀寺を仮の御所として、もう宴会をしている。
俺と義兄上はまだ近くに敵がいることを理由に宴会に付きあわず、畿内から三好三人衆の勢力を一掃するために兵を進めた。
三好義継と松永久秀も河内から呼応して兵を挙げた。
挟撃される形となった三好三人衆と篠原長房は持ちこたえることができなかった。
まず山城の勝竜寺城に退却した岩成友通が降伏し、次いで摂津の芥川山城に退却した細川昭元と三好長逸は城を捨てて逃げ出した。
さらに篠原長房も摂津の越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びていった。
越水城は三好氏の本拠地である阿波と畿内を結ぶ重要拠点で、かつて三好長慶も居城にしていた。その後松永久秀が任されていたが、篠原長房が奪っていた城だ。
この城を取り戻したことは久秀には感慨深いようだった。
摂津池田城主の池田勝正は最後まで抵抗したが、味方の三好三人衆や篠原が撤退し、押し寄せた浅井と織田の大軍の前に降伏した。
池田城で、三好義継と松永久秀に久しぶりに会った。
義継は三人衆を追い払ったことに感謝を述べてきた。
少し見ない間に精悍さを増した気がする。苦労をした分、成長しているように思えた。
松永久秀は、俺が止めたおかげで将軍殺しの汚名は三好三人衆が着ることになり、三好家当主の義継は距離を置くことができたことに感謝を述べてきた。
将軍弑逆は思ったよりも反発が強く、名前だけで実権がなくとも、影響はまだあるものだと感想を述べていた。
浅井と織田の連合軍は三好三人衆の勢力を畿内から一掃すると、京に凱旋した。
だが、京の人々は新興勢力である浅井や織田の実力をあまり知らず、足利義昭が諸将を率いて上洛したと認識しているようだった。
義昭の側近たちは、義昭の指示を受けて浅井や織田、三好が大軍を率いて三好三人衆を追い払ったのだと吹聴して回ったようだ。
そんなことだろうとは思っていたが、やはりうんざりする。




