六十七 和議の失敗と将軍宣下
1568(永禄11)年一月 近江国長浜城 浅井長政
和議の仲介のため尾張に行っていた安養寺氏種が戻ってきた。
「よく戻ったな、三郎左衛門尉。正月の宴にも出られなくしてしまい、済まなかったな。」
「いえ、大事なお役目でしたので、盆も正月もありませぬ。」
旅装のままですぐに報告に来てくれた氏種を労ったが、その顔色は明るくなかった。
どうやら交渉は上手くいかなかったようだ。
「それで、どうだった。義兄上は分かったとは言わなかったか。」
「はい、長島門徒には大事な弟を殺された。和議など出来ぬと。良い返事を得ることができず、申し訳ございません。」
「いや、難しいのではないかと思ってはいた。ご苦労だった。」
織田と長島の門徒との間の和議を仲介できないかと思って、年末からいろいろ動いていた。
三条西卿に仲介してもらい、本願寺にも連絡をとっていた。
本願寺は、織田が攻めてきたのだから織田に非があり、長島門徒の側から和議を申し出ることなどできないという返事だった。
石山に交渉に行ってもらった進藤賢盛によれば、どうやら本願寺は織田の同盟相手である徳川が三河で一向宗を禁教したことを重視しているようだ。
本願寺は織田も禁教する可能性があると考えているらしい。
これでは和議など無理だ。
しかし浅井にとっては、和議を仲介する努力をしたことに意味はある。
浅井領内の湖北十カ寺などの門徒たちは、浅井が同盟国である織田と長島門徒の戦いを止めようとしたことで、浅井が門徒を攻撃するつもりはないと安心するだろう。
畿内で続く戦乱を憂慮する朝廷や公家も、争いを止める方向で行動する姿勢を見せることで、浅井を評価すると思う。
1568(永禄11)年二月 近江国長浜城 浅井長政
足利義輝の死後、空席だった征夷大将軍が決まった。三好三人衆の推す足利義栄だ。
三好三人衆は将軍を襲った際、義輝の妻だった近衛前久の姉は助けて近衛家に送り届けていた。
そのこともあって関白の近衛は三人衆とは敵対しておらず、いつまでも将軍が空位では落ち着かないと、足利義栄の将軍宣下を認めたらしい。
歴史のとおりなので俺や橘内、半兵衛には驚きはない。
だが足利義秋の周辺は大騒ぎになった。
俺としても三好三人衆に擁立され、三好義継と松永久秀と対立している足利義栄が将軍の座にいることは望ましくない。
歴史では今年の秋に義栄は病死するので焦ってはいないが、だからといって放置もできない。
義秋の使者として上洛を促しに来た細川藤孝には、来年には兵を率いて上洛するつもりだと答えた。
細川は「ついに浅井が動きますか」と素直に喜んでくれた。同じ幕臣でも上野あたりだと嫌味を言っていくところだ。
安養寺氏種を美濃に派遣し、来年上洛したいと伝えたところ、義兄上も義秋を擁して上洛することに賛成し、織田も一緒に兵を出すとの返事をもらった。
三好義継には進藤賢盛を使者に出した。義継と久秀も俺が上洛すれば三人衆を追い払えると喜んで、自分たちも兵を出すと言ってくれた。
1568(永禄11)年五月 近江国長浜城 浅井長政
四月から五月にかけ、いくつかの動きがあった。
足利義秋は京から二条晴良を招いて元服し、義昭と名を改めた。これは歴史でも起きたイベントだ。改めて義栄に対抗する意志を表明したというところだろう。
義秋改め義昭と側近たちは先代将軍の義輝に近かった上杉謙信に期待を寄せている。
しかし謙信の動きを封じるための武田信玄の策が発動し、五月に揚北衆の本庄繁長が叛乱を起こした。
さらに謙信が叛乱制圧のため北上すると、越中の椎名康胤も信玄の調略に応じて離反した。越中は神保氏が武田を後ろ盾とし、椎名氏は上杉を後ろ盾として争っていたが、状況は大きく変わった。
上杉は上洛どころではない状況に追い込まれている。
一方の武田はこのところ今川領を狙っており、西上するような状況ではない。
昨年秋には、今川家の塩止めを受けて甲相駿の三国同盟は破綻している。
そして今川義元の娘を娶っていた嫡男の義信は廃嫡され、死去した。義信の傅役の飯富虎昌は永禄八年に謀反の疑いで処刑されているが、虎昌は武田の宿老だった。
武田信玄は修羅の道を歩んでいる。
上杉も武田も上洛しそうにないので、義昭と側近たちはこのところ俺に接近している。
これまでは、浅井は家柄が低いから幕府における地位は与えられないなどと言っている側近もいたが、急に御供衆に任じると言ってきた。
将軍になってもいないのに任じるとか偉そうだとは思ったが、受けることにした。
1568(永禄11)年九月 近江国長浜城 浅井長政
足利義栄が歴史のとおり病死した。
今年二月に将軍宣下があってからわずか七か月後だ。三好三人衆は慌てている。
一方、足利義昭と側近たちは大喜びをしている。
今こそ上洛すべきだとせっついてきたが、織田はまだ長島の戦いの敗戦から立ち直っていない。
俺は単独で義昭を担いで上洛するつもりはない。
将軍の側近たちは家柄自慢の者が多い。
首尾よく浅井の力で上洛し、三好三人衆を畿内から追い払っても、名族である河内の畠山氏や丹後の一色氏あたりが浅井より重用されるのは目に見えている。
浅井は言葉の上では感謝されるだろうし、形の上では幕府の要職に付くかもしれない。たとえば実権のない副将軍なんかありそうだ。
それでも義昭の幕府による統治が落ち着いてくれば、実力の大き過ぎる浅井は邪魔者扱いされるだろう。
織田との約束に反して単独で義昭を奉じて上洛なんかしたら、そのときに織田は義昭の働きかけで反浅井に転じる可能性も否定しきれない。
まさに「狡兎死して走狗烹らる」になってしまう。
そんなわけで、織田の準備が整うのを待ってから上洛する。
三好三人衆を畿内から追い出した後は、浅井が主導権を握っても、織田に十分に配慮をして畿内を治めていくつもりだ。




