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長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う  作者: スタジオぞうさん
第四章 越前侵攻と上洛

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六十五 越前の統治と茶々の誕生

1567(永禄10)年七月 近江国 長浜城 浅井長政

 越前の戦を終えて長浜に戻った。

 越前50万石のうち大野郡10万石は織田に譲ったが、40万石もの領地を得て、浅井領は大きく広がった。味方に大きな被害はなく、順調に進んだ戦いだった。

 越前の統治を早く安定させるためには、領地の事情に詳しい者が必要なので、旧朝倉家臣のうち人格的に評価できると判断した朝倉景健と魚住景固を登用した。

 主要な拠点にはもちろん浅井家臣を配置する。

 まず一乗谷城主は遠藤直経にした。今回の戦では磯野の功績も大きかったが、若狭に移ってまだ二年なので、できれば移りたくないようだった。

 最も信頼できる直経が遠くに赴任するのは寂しい気もするが、大国である越前の統治を安心して任せられる家臣は多くない。

 直経の補佐として本多正信を付けた。

 隣国の加賀は一向門徒が支配している。門徒のことを良く知る正信には、特に加賀との折衝役を期待している。

 また越前の直轄地の代官は石田正継に任せた。石田は初期から浅井の内政に携わっているので、浅井の農業や商業のやり方に詳しい。

 ただ、越前40万石全体を直経が差配すると他の家臣との差が開きすぎる。磯野にも一国の統治を任せているが、若狭の石高は10万石にも満たない。

 越前は石高も大きいし、日本海貿易の拠点となる湊も複数ある。

 そこで朝倉家の支配体制を参考にして、敦賀郡など越前の南西部は金ヶ崎城主が差配することにした。

 その金ヶ崎城主は中島宗佐に任せた。北国街道につながる敦賀港も擁し、非常に重要な拠点なので、やはり信頼できる者を城主にしたい。

 金ヶ崎城の近くの敦賀湊の代官は田中吉政を抜擢した。

 遠藤直経の後任の鎌刃城主は片桐直貞に任せた。美濃国境の守りという意味は薄れたが、近江の国境を守る重要な拠点であることに変わりない。

 中島宗佐の後任の日野城主は前田利家に任せた。最近は内政でも手腕を発揮しつつある。若い頃は傾奇者だったが、大領を任せるにふさわしい武将になってきている。

 前田利家がつとめていた石部山城主は、野洲川周辺の水利を工夫することもあわせて、井口の伯父上に頼んだ。

 井口の伯父上は越前攻めで功績もあったので加増して、酒造りなど秘密も多い元の領地に加えて石部山城主も兼ねる形にした。

 片桐直貞の後任の山本山城主は、敦賀湊を獲ったことで重要度を増した北国街道の警備担当という役割もあわせて、弓削梓を抜擢した。

 築城中の城の人事もあわせて行った。

 一つは大津城だ。大津は琵琶湖の水運の要でもあるが、京と隣接する拠点という意味もあるから、城を築くことにした。八幡山城が完成したので、野洲川流域の民の働き口を確保する意味もある。

 大津城が完成したら、大津の代官の新庄直頼を城主にするつもりだ。

 もう一つは越前の丸岡城だ。加賀の門徒とは友好関係を保つつもりだが、そうはいっても国境に城を整備したほうが良い。

 丸岡城は北陸地方で天守が唯一現存している城としても有名で、確か桜の名所だったと覚えている。

 完成したら城主は高野瀬秀頼に任せることにした。肥田城を六角の大軍から守った実績があり、国境の城主にはふさわしいと評価している。

 越前も得て、日本海貿易は小浜から九里半街道を経て今津に至る経路に加え、敦賀から北国街道を経て海津に至る経路も浅井領内で完結することになった。さらに商業は盛んになるだろう。

 海津浅井の伯父上には越前攻めで活躍してもらったこともあり、従妹殿を清水山城代から城主にした。

 彼女は浅井の内政の要といってよい。橘内も分かっていて、警備をさらに強化すると言っていた。


 もう一つ良いニュースが入ってきた。

 若狭武田家が臣従してくれた。

 国吉城の粟屋勝久は今回の戦に参加して、浅井との国力の差を痛感し、名目上の若狭国守にこだわるより、浅井の臣下になったほうが若狭武田家は安泰だと考えたようだ。

 若狭武田家嫡流の武田元明はまだ5歳だ。歴史では朝倉家に一乗谷に連れて行かれたが、俺はもちろん粟屋が庇護することを認めている。

 いずれ元明が元服したら、どこかの城主にして処遇しようと思う。

 若狭武田家は甲斐の武田家と同族の源氏の名門で、さらに元明の母は足利義晴の娘だ。

 この乱世でもまだ血筋に拘る者は少なくない。

 若狭武田家の当主が浅井家に臣従していることは、浅井家の権威付けに一定の効果がある。


 城主任命などの人事をしてから、ほどなくして娘が生まれた。

 浅井三姉妹の長女である茶々の誕生だ。

 幸いに母子ともに元気で、お市は一人目で慣れていたから今度のお産は前回よりも随分楽だったと、笑顔を見せてくれた。

 娘は、息子のときと違って最初から愛おしく思えた。

 自分が何者かという迷いがなくなったせいかもしれない。

 あるいは父親はみな娘が可愛いと言うから、俺も同類なのかもしれない。

 歴史では周知のとおり、茶々は秀吉の側室となって秀頼を産み、淀殿と呼ばれる。


 茶々の首がすわった頃、海津浅井家の姉妹が遊びに来た。

 歴史では後に淀殿を支えてくれる姉妹が、交替で茶々を抱っこしている微笑ましい様子を見ていると、史実で彼女たちを襲った過酷な運命を思い、拳を握りしめた。

 実際に会った秀吉は好感の持てる人物だったが、大事な娘を妾になどさせないし、娘と従妹の竹千代殿が大阪城落城と共に命を落とすような事態にもしない。

 浅井家を襲う悲劇の歴史に抗い、この子たちは守ってみせる。

 握りしめた手が震えていると、隣に来たお市が、そっと手を添えてくれた。

 部屋の端の方では山中橘内が娘たちを優しい目で見守ってくれている。

 非情な忍びの世界で育った橘内だが、情の厚い良い男だ。

 この場にはいないが、半兵衛も知恵を貸してくれる。

 俺一人ではなく、支えてくれる人がいるのは心強いものだと思った。

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