六十三 金ヶ崎の戦い
1567(永禄10)年4月上旬 近江国長浜城 浅井長政
金ヶ崎城を攻め落としたという知らせを聞き、俺も浅井の本隊を率いて長浜を出て、敦賀に向かうことにした。
さて、問題はここからだ。いくら戦を好まない義景でも敦賀を獲られたままにはできないだろうし、朝倉景鏡も敦賀郡司家が敗れた浅井を相手に軍功を挙げようと出兵してくるだろう。
だから今度は金ヶ崎城に浅井の本隊を率いていく。
今の浅井領は近江、若狭、西美濃、伊賀、北勢の一部に及ぶので120万石くらいある。この時代で一般的な農民兵で考えると120万石なら最大6万人くらい出せる。
日本海の湊を得て、織田領との間の関所をなくしたことで商業がさらに盛んになり、今では常備兵で4万人くらいいる。
一方、越前は50万石くらいあり、日本海貿易で潤っているので、朝倉が本気になれば2万5千人くらい動員できると思われた。
今回の遠征には3万5千人を動員し、鉄砲も浅井領全体で4千挺くらいあるが、3千挺を持ってきた。
留守は常備兵5千が守り、必要があれば農民兵を動員できる。
お市はお腹が大きくなったので、長浜城の留守居役は赤尾美作守に頼んだ。
朝倉家は昨年、家臣の堀江景忠が加賀の一向門徒に通じて謀反を起こし、朝倉義景に討伐を命じられた山崎吉家や魚住景固が戦っている。
歴史では一乗谷に来た足利義秋の仲介で朝倉家と加賀門徒は和解しているが、ここではまだ和解していない。加賀との戦いに自ら出陣しないことで、義景の求心力は低下しているはずだ。
一方、織田家が越前を攻めたときと違い、姉川の戦いで戦死した猛将の真柄直隆は健在だ。さらに重臣である前波景当も生きている。
いろいろな状況を総合して半兵衛や橘内、宮部善祥坊、本多正信らと検討したが、彼我の兵力差と鉄砲の数の違いを考慮すれば、朝倉に城を攻めさせられれば苦戦しないと考えた。
そして、こちらが朝倉領の敦賀を占拠している以上、向こうから攻めてくるしかない。
さらに朝倉家には、歴史では織田に攻められたときに寝返る家臣が何人かいる。
その代表格は朝倉一族の重鎮の朝倉景鏡だ。景鏡は織田軍に押し込まれたときに信長に寝返り、当主の義景の首を土産に織田に降っている。
朝倉景鏡は織田家が調略したいと言ってきたので、任せることにした。
うちは事前に調略すると相手に良い条件を提示する必要もあるし、織田に降った朝倉旧臣がその後仲違いして内戦状態になった歴史も考えると、無理に調略しないことにした。
軍略は善祥坊や正信らとも相談しているが、こうした歴史の知識を踏まえた相談は半兵衛と橘内だけにしている。
朝倉軍を迎え撃つ場所は大量の鉄砲を生かすために広い場所で迎え撃つことにして、金ヶ崎城と天筒山城を防衛ラインに設定し、二つの城の間にある山地に柵などをつくった。
5月になれば田植えの季節になる。朝倉は4月のうちに来るだろう。
1567(永禄10)年4月下旬 越前国 金ヶ崎城の東側の山地 真柄直隆
浅井に敦賀を獲られたことで、一乗谷は大騒ぎになった。
さすがに戦の好きではない殿も敦賀を取り返すため、加賀の門徒への備えは最低限にして、集められるだけの兵を集めた。
越前は大国で、日本海貿易の利益もある。
短期間でも二万を超える兵が集まった。
長く敦賀を支配されていては領内に動揺が広がり、田植えが始まると兵を集められない。
浅井の軍勢は三万以上と聞いたが、こちらに地の利はある。互角以上に戦えると考えて、出陣した。
金ヶ崎城に着くと、本隊である我らは山の中を進んだ。
天筒山の方から鉄砲の音が聞こえてくる。
おそらく別動隊の味方は苦戦しているだろう。天筒山の前は湿地帯になっている。
だが、あちらは陽動だ。
金ヶ崎城の弱点は海岸に沿って伸びるこちらの山の方だ。
朝倉家の城だから弱点は知っている。兵が多少少なくても、城に取り付けば何とかなるだろう。
山中の細道を進む。
そろそろ視界が開ける頃だ。
視界が開けて、城を見て呆然とした。
こちら側の金ヶ崎城の防備は薄いはずだったのだが…。
越前国金ヶ崎城 浅井長政
朝倉軍は予想どおり、田植えの始まる前に現れた。
橘内の手の者から、2万を少し越える軍勢だと報告があった。全力を出してきたな。戦力を小出しにするよりはいい。
だが、城や砦を守るほうが有利なうえに、こちらの方が人数も多い。
どうするのかと思っていたが、予想通り攻めてきた。
兵を集めて戦いもせずに逃げることはできないし、朝倉は田植えの前に何とか敦賀を取り返したいだろう。
天筒山の東側は湿地帯になっている。このところ晴れているが、足場は悪い。
攻め寄せてくる足軽たちには少し同情したくなる。
味方の鉄砲が火を噴いたようだ。多くの鉄砲が斉射され、周辺に轟音が響き渡る。
ほどなくして金ヶ崎城の東の山から敵が現れた。
おそらくこちらが本隊だろう。
金ヶ崎城は東の山地への備えは少なかった。
だから浅井が城を獲ってから間もなく、山の木を伐り、溝のような空堀を何重にも掘った。櫓も造り、柵も巡らして備えを強化した。
うちの常備兵は、普段は道路の拡張などの土木作業をしているから、こうした作業は慣れていて早い。
山から現れた敵は、こちらの備えに驚いたように見えたが、やがて意を決したかのように突撃してきた。
装備もよく、朝倉の精鋭なのだろう。だが浅井の鉄砲に撃たれ、次々に倒れていく。
こちらの弾薬が尽きることを期待してか、あるいは朝倉の意地なのか、何度か突撃してくる。
硝石は最近では硝石丘法によって安定して生産しているので、あいにくと弾薬は十分にある。
城などの拠点から鉄砲による迎撃を行うと、戦いというより一方的な殺戮になる。
あまり気分の良いものではないので、早く退いてほしい。敦賀で鉄砲の威力を見せたのは、攻めても無駄だと敵に知らせるためでもある。
敵は、大柄な指揮官が倒れたのをきっかけに、退却していった。
次の日、敵は現れなかった。
忍びの報告によれば、昨日倒れた大柄な指揮官は猛将の真柄直隆だったようだ。
大野郡司の朝倉景鏡が城で迎え撃つべきだと主張し、当主の義景が決断しないうちに勝手に兵を退いたらしい。景鏡は寝返ったのかもしれない。
こちらは追撃戦に入った。
士気の低下していた敵は潰走した。歴史でも朝倉軍が近江で織田軍に敗れて敗走したとき、刀禰坂の戦いでは一方的に被害を出したと伝わる。
朝倉宗滴公に頼りきっていた弊害なのかもしれない。
脱走する者も増えたようで、みるみる敵の兵数は減っていった。
鎧を脱ぎ捨てて逃げていくような者は追わないよう、事前に指示をしてある。
農民兵は占領後は領民になる。占領後の統治を考えると、敵の犠牲も少ない方が良い。
一乗谷に着く頃には、敵は二、三千にまで減っていた。
そして、一乗谷には織田家の永楽銭の旗印が翻っていた。




