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長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う  作者: スタジオぞうさん
第三章 京の争乱

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五十八 信長の上洛?

1566(永禄9)年8月 近江国長浜城 浅井長政

 織田信長が兵を率いて上洛することになった。

 足利義秋が細川藤孝を美濃と尾張に派遣して織田信長と斎藤龍興の和解を斡旋し、形の上では両者は和睦したことを受けた動きだ。

 義秋は周辺の大名に自分を擁して上洛するように働きかけていたが、上杉や武田も周辺に有力な敵がいて、皆なかなか上洛できない。

 もちろん京に近い浅井には幕臣たちも何度も上洛するように言ってきたが、東に斎藤、北に朝倉と敵がいるので上洛できないと言って、かわし続けていた。

 尾張の義兄上は、斎藤家を討った後に浅井と共に上洛したいと答えていたようだ。

 この和睦を受けて、義兄上から上洛したいという書状が俺にも来た。

 こうなると俺も知らぬふりはできない。まだ敵対する朝倉がいるものの、織田と斎藤が兵を挙げて上洛するなら、義秋を自領で保護している浅井が協力するのが筋だ。

 俺としては、義兄の信長と、正式な同盟を組んでいるわけではないが信頼関係のある三好義継が戦うとなると立ち回りが難しい。

 だが幸いなことに三好家内は割れて、三好三人衆と義継、松永弾正久秀が争い始めた。 京は三好三人衆の勢力圏になっているので、三好三人衆と戦うことは問題ない。

 義兄上が上洛するなら共に戦うと返事をした。

 こうした流れを受けて、信長は尾張から出兵した。


 だが織田軍の上洛には、なお懸念があった。

 そして歴史と同じように、その懸念は現実のものとなる。

 織田軍が上洛のために尾張から出兵し、美濃を通過しようとしたとき、斎藤龍興は裏切り、織田軍に襲い掛かったのだ。

 世にいう河野島の戦いだ。

 そして歴史のとおり、織田軍は木曽川が増水して河野島に避難したところを斉藤軍に突かれ、大きな損害を出した。

 義秋と幕臣たちは、それぞれの大名の状況をあまり考えず、形だけでも和解させて上洛させようとしたから、うまくいかない。

 将軍の座を巡るライバルである義栄の方が、京を支配する三好家の後押しを受けて有利に見えるので焦っているんだろうが、周囲の大名にとっては迷惑な話だ。


1566(永禄9)年9月 尾張国小牧山城 織田信長

 「龍興め、義秋様の調停で和解したにも関わらず、裏切りおって。」

 美濃を通過するとき、油断したつもりはなかったが、斎藤軍に攻められ、わが軍は大きな損害を出した。

 木曽川の増水が災いした。敵に討たれた者より、川で溺れた者が多かった。

 小牧山城に本拠を移し、中美濃を少しずつ侵食し、そろそろ美濃を獲ることもできると思っておったのだが。

 足利家からの上洛要請に応じるのは武門の誉れと思ったが、此度の戦の損害は痛い。

 龍興は許せぬが、こちらの体制を立て直すのには時間がかかる。

 その間に斎藤からの調略を受けるであろう。

 美濃に出兵できない状態が長引けば、家中から斎藤になびく者が出ないとも限らぬ。

 武田信玄の息子の勝頼に養女を嫁がせたが、織田の旗色が悪いとなると、武田との同盟も揺るぎかねん。

 武田信玄は今川が弱体化したことで、息子と結婚していた義元の娘を離縁させた。さらに今川と親しくなっている息子の義信から後継者の地位を奪った。

 織田が弱ったとなると、同盟を破棄して襲い掛かってくることもあり得る。

 こうなると、止むを得ぬ。

 市の嫁いだ浅井長政に援軍を要請しよう。

 浅井に援軍を頼むと、美濃を首尾よく獲れたとして、浅井と分割することになるだろう。

 儂は美濃を丸ごと呑み込むつもりだった。

 さすれば尾張とあわせて100万石を越える。南近江、若狭を獲って日の出の勢いの浅井よりも力は上になると思っておったのだが。

 苦しい状態なのに援軍を頼まぬと、実は浅井とは仲が良くないのではと心配する家臣が出てくる可能性もある。

 ここは援軍を頼むほかあるまい。


1566(永禄9)年9月下旬 近江国長浜城 浅井長政

 織田信長から美濃攻めの援軍を要請する使者が来た。

 使者は譜代の重臣の佐久間信盛と丹羽長秀だった。

 美濃を丸ごと得るために、これまで俺に援軍要請をしなかったのだと思うが、河野島の戦いの痛手は大きいのだろう。

 織田の使者が来ると聞いた時点で半兵衛や家臣たちと話をしておいた。

 援軍に応じるという結論は事前に出しておいたので、俺は使者にその場で援軍を承知した。佐久間も丹羽もほっとしていた。


 尾張からの援軍要請を受けると、半兵衛たちの動きは早かった。

 まず安藤守就には娘婿の半兵衛が連絡をとった。

 そして氏家直元、稲葉良通も本多正信や橘内と手分けして調略し、あっという間に斎藤龍興からの離反の約束を取り付けてしまった。

 織田信長の侵攻に対し、美濃の国人衆は粘り強く抵抗していたが、次第に押し込まれていっていた。

 西美濃三人衆は、斎藤龍興は一部の側近にばかり頼る姿勢は変わらず、このままでは織田領になるという危機感を持っていたようだ。

 だが戦い続けた織田に降ることには抵抗感があり、俺の代になってから戦をしていない浅井の旗下に加わるほうが受け入れやすかったらしい。

 もちろん半兵衛たちがうまく説得してくれたことは大きいし、浅井が近江を統一して若狭や北勢を獲り、領内も豊かになっていることも影響したようだ。

 西美濃三人衆には所領の安堵を約束した。

 そして尾張の義兄上に調略が成功したことを知らせ、農民兵ではなく常備兵が中心という浅井・織田両家の特徴を生かし、米の収穫時期を狙って稲葉山城を攻めることになった。



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