五十六 八幡山城の完成と政元の結婚
1565(永禄8)年12月 近江国八幡山城 浅井長政
八幡山に新しい城が完成した。長浜城と同じで琵琶湖の水運を重視した湖岸の城だ。
琵琶湖から水路を掘って、城の堀にしている。ただの堀じゃなくて、船も通れるようになっているから運河と言うべきかもしれない。
この運河は、歴史で豊臣秀次の居城だったときと同じように、八幡堀と名付けた。八幡堀は後世で近江商人の活躍の舞台となるから、きちんと作らねばと思っていた。
全体としては守りよりも統治を重視した城で、八幡山の麓に館と城下町をつくったが、戦のときには山の中腹の城に籠るようにしている。
城造りのための資材は観音寺城から安土まで運んで、そこから船で運んだ。
今では干拓されて西の湖しか残っていないが、戦国時代には、大中湖や伊庭内湖など、このあたりには琵琶湖の内湖がいくつもあった。
だが湖といっても水深が浅いところも多く、岸にはヨシが茂っていて、物を運ぶのは思ったよりも大変だった。
大きな石には陸路で運ぶしかなかったものもあって、そのために道路も整備した。
城だけ造れば良いというものでもなく、いろいろ大変だったが、それでも遠くから石や木を運んで、一から城を造るより随分ましだった。
普請に参加すれば食事を出すことで領民がこぞって普請に参加したこともあって、城造りは早く進んだ。
先代将軍義輝の弟である僧の覚慶は、細川藤孝や和田惟政が奈良から脱出させて甲賀に潜伏していたが、先月、南近江の野洲郡矢島を在所として、矢島御所と称すことになった。これも歴史のとおりだ。
後に足利義昭になる覚慶には、あまり深く関わろうと思わない。足利家の将軍候補というと有難がる大名もいるが、将軍になってからの義昭の行動を考えると、深く関わると良くない気がするからだ。
もちろん失礼にならない程度の支援はしている。挨拶もしたが、幕臣たちには家柄を自慢して嫌な感じの者もいたが、覚慶自身は穏やかな印象の人で、悪い人には見えなかった。民に優しい僧侶だったという噂も聞く。
足利家に生まれ、周囲に祀り上げられて将軍位を目指す人生は、幸福なものではないのかもしれない。
近江国長浜城 浅井長政
八幡山城の完成にあわせて、政元の結婚式を行った。
式典の場所は八幡山城にすることも考えたが、来賓に浅井の繁栄ぶりを見てもらうために、城下町の栄えている長浜にした。
そして公家はどこも困窮しているので、三条西家の姫の嫁入りの費用はすべてうちが負担し、浅井の力を見せるためにも、銭を惜しまず華やかな式典にした。
近江の生糸からつくった豪華な絹織物の着物を浅井家の侍女たちが身にまとい、三条西家の御供をして歩いた。
嫁入り行列の警備をする近習たちにも、新しく華やかな甲冑を揃えた。
その煌びやかさは京や堺でも評判になったようだ。浅井は武だけの家ではないと示せたのなら嬉しいことだと思う。
高倉家から三條西家の養女になって嫁いできた姫は、小柄で控えめな女性だった。
三条西家の当主の実澄は、駿河国に下向していたが、養女とはいえ娘が結婚するので、近江に来てくれた。
近江に来る途中、三條西家の娘が嫁いでいる美濃の稲葉良通に会ってきたようだ。
後に出家して一鉄と名乗る稲葉良通は、その父や兄が浅井家との戦いで命を落としている。以来、稲葉と浅井との関係は悪かったが、これを機に改善できればと思う。
三条西実澄
養女が嫁ぐので近江に来たが、これほど栄えているとは驚いた。
長浜の港にはひっきりなしに船が出入りしている。
公用の船は城の船着き場に行き、商人たちの船は城下町の湊に着くが、琵琶湖が船で埋まりそうな勢いだ。
養女が嫁ぐ浅井次郎政元殿とその兄の新九郎長政殿に会った。
ひととおり挨拶した後で、驚いたことに浅井兄弟は和歌について議論を始めた。
きっかけは、次郎殿は和歌が好きだという新九郎殿の発言だった。
「次郎は和歌が好きなので、三条西卿にお会いするのを楽しみにしていたようだ。」
「ほう、次郎殿は和歌がお好きですか。」
「はい、子どもの頃から好きです。」
先代の久政殿は評判が良いとは言えない武将だったが、側に能楽師を置くなど、文芸には関心が高く、その点だけは息子たちに影響しているらしい。
「新九郎殿も和歌には興味はおありですか。」
「はい、私も興味はあります。ただし、次郎は平安の恋愛の和歌が好きなようですが、私は万葉集のほうが素朴で力強くて好きです。」
「兄上、確かに万葉集の歌は大らかで心情を率直に表現した良さがあります。しかし、単純なのです。古今和歌集は恋愛を取り上げた歌が多いのは確かですが、あからさまな表現ではなく比喩や暗喩などの技巧を用いて、ほのめかすところが良いのです。「秘すれば花なり」が良いのです。」
何と、次郎殿は能楽もご存じか。若い武将にしては珍しい。
「そうかな。俺は「大海の岩もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも」みたいな豪快な歌のほうが良いな。」
「源実朝公の金塊和歌集ですな。確かに豪快ですし、実朝公のその後の悲劇を思えば、いろいろと考えさせられる歌です。しかし純粋に和歌としてみれば、少し単純ではないでしょうか。」
「ちょ、橘内、お前は次郎の肩を持つのか。」
同席していた山中橘内殿が次郎殿に同調し、浅井新九郎殿は心外な様子だった。
橘内殿は甲賀出身で浅井の忍びの頭領だと聞いている。浅井家では忍びも和歌を論じるか。いやはや本当に驚いた。
浅井兄弟と山中橘内はしばらく議論していたが、思い出したように新九郎殿が言った。
「そういえば次郎、三条西卿にお会いしたら聞きたいことがあったのではないか。」
「ああ、そうでした。一つお伺いしたいことがあります。平兼盛の歌は壬生忠見の歌よりも勝っているとされますが、私には甲乙つけがたいように思えます。三条西卿はどのように思われますか。」
いや、次郎殿は本当に和歌が好きで、詳しいのだな。
平兼盛の詠んだ「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」と、壬生忠見の詠んだ「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」が同じ歌会に出されて、どちらが良いか評者が迷ったとき、ときの帝が「忍ぶれど」と口にされたので、兼盛の歌が良いとされた。
だが、どちらも秘めた恋心を歌った秀逸なものだ。帝はたまたま一方の句を口にされただけで、実は両方の歌を同じくらい気に入っておられたと伝わる。
「麿も次郎殿と同じです。どちらも素晴らしく、優劣はつけがたいと思います。」
「本当ですか!和歌の権威であられる三条西卿が同じお考えとは、とても嬉しく思います。」
ああ、次郎殿は良いな。和歌をよく学んでおられるうえに、人柄も真っ直ぐなようじゃ。
式が終わったら駿河に戻ろうかと思っておったが、近江のほうが諸国の文物が集まっておるし、これは近江にいた方が面白そうじゃ。




