五十五 若狭侵攻
1565(永禄8)年6月中旬 近江国長浜城 浅井長政
浅井では最近は清酒や黄金鮒に加えて、生糸や淡水真珠も売っている。特に淡水真珠は堺の商人が目が飛び出るような値段で買っていくと従妹殿が嬉しそうに言っていた。
浅井の経済力が強化されたおかげで、常備兵化は進んでいる。今では農繁期でも一万五千くらいの兵は楽に動かせる。
それに対し、若狭は石高が10万石に満たない小国だ。若狭全体で動員できるのは頑張っても五千人くらいだろう。しかも若狭国内は一枚岩ではなく割れている。
半兵衛が指摘したように、若狭が独立を保っていられたのは、足利将軍家との姻戚関係があればこそだろう。
若狭遠征には、一万の兵を出すことにした。
念のために長浜、清水山、鎌刃に常備兵を五千人残す。多くの大名は農民兵が主力だし、田植えの季節でもあるから、備えとしては十分だろう。南近江からは兵を出していないので、いざとなれば南近江の兵も動かせる。
鉄砲も増産した結果、浅井家全体では二千五百挺くらい保有しているが、半兵衛とも相談して、今回は千挺持っていくことにした。
それから、今回は他国を攻める戦だが、女性兵中心の警備兵もお市が率いて参加することになった。城や砦を攻めるのではなく、占領地を安定させるためだ。
最近では浅井の警備兵の活躍は有名になり、女性兵も含めた警備兵が民を守っていることは周辺諸国でも評判になっている。
戦となれば、住民たちは巻き添えや略奪を恐れて近くの森などに避難する。
避難した住民たちに早く安心して戻ってもらい、占領後の統治を早く安定させるために、占領地は警備兵に任せようということになった。
1565(永禄8)年6月下旬 近江国今津港 浅井長政
浅井軍は、水路や西近江路を通って今津に集結しつつある。
本拠地の長浜からも大型の輸送船を連ねて今津に向かった。陸路よりもかなり速い。
今津港では、清水山城代の従妹殿と、その夫の浅井政高が出迎えてくれた。
他家と交渉するときなどに浅井の一族だと明確にした方が都合が良いので、田屋の伯父上には浅井姓に戻してもらった。従妹殿の名前は浅井松千代になった。
領地が大きくなって、浅井の一族に頼みたい仕事も増えたので、田屋の伯父上に浅井姓に戻ってもらったことに加えて、遠縁の浅井政澄にも長浜城に出仕してもらうようにした。
今津からは九里半街道を通り、小浜まで向かう。
途中で京につながる若狭街道と合流した。
こちらの兵力が大きいせいか、目立った抵抗もなく後瀬山城に着いた。
後瀬山城を包囲すると、若狭武田家の重臣の逸見昌孝が参陣を願い出てきた。
最近は主君と対立して丹波の内藤宗勝の援助を受けていたはずだが、三好家とは縁を切ると言ってきた。内藤宗勝は元の名前は松永長頼で、あの松永久秀の弟だ。
歴史でも織田の勢力が伸びると、逸見は三好から織田に乗り換えている。よく言えば機を見るに敏なのだろう。
若狭は早く安定化させたいので、逸見の仕官を認め、高浜の領地を安堵した。
後瀬山城は守りやすい山城だが、籠城は小田原城のような例外を除けば、援軍が来るときにしか上手くいかない。
一万の兵で包囲していると、ほどなく降伏した。
経験を積ませるために政元に二千の兵の指揮を任せたが、無難にこなしていたな。これで政元を侮る者も減ってくれるといいんだが。
若狭を攻めた目的は、日本海に面する小浜湊と、そこから京や近江につながる若狭街道、九里半街道を手に入れることだ。
だから浅井は後瀬山城をはじめ若狭の中心部を支配し、小浜湊に代官を置くが、形式的な若狭国主には武田信方を立てることにした。これで悪評をある程度防げるだろう。
そして守護の武田義統は助命して、若狭国外に追放することにした。
さあ近江に帰ろうと思ったら、国吉城の粟屋から早馬で知らせがあった。
朝倉が攻めてきたようだ。
武田義統は朝倉を頼りにしていたので兵を出したのだろうが、遅い。
丹後街道を通り、国吉城に援軍に向かった。
国吉城は天王山と御岳山の間の椿峠に築かれた山城である。
永禄3年から毎年攻めてくる朝倉軍を食い止めてきた堅城だ。
平地で大会戦をするわけではなく、朝倉の兵は三千と聞いたので、半分の兵は政元と一緒に近江に帰し、三千五百の兵で向かった。
浅井軍が国吉城に布陣すると、しばらく睨み合った後で朝倉軍は退いて行った。
朝倉軍の大将は敦賀郡司の朝倉景恒のようだ。
攻めかかってくれれば鉄砲隊で損害を与えられると思ったが、相手は無理をしなかった。
歴史では、朝倉家中で臆病者のレッテルを貼られる景恒だが、勝てない戦をしない良将なんじゃないかとも思う。
1565(永禄8)年7月 近江国 長浜城 浅井長政
長浜に戻り、若狭の人事を決めた。
後瀬山城の城主には、磯野員昌を抜擢した。
また領地替えになるが、小国とはいえ一国の本城だから昇格だ。これで磯野は他の家臣から頭一つ抜け出すことになるが、浅井軍きっての勇将であり、内政も手堅く、人柄も信頼できる。赤尾や三田村の爺も、員昌に若狭を任せることに賛成してくれた。
員昌が城主をつとめていた佐和山城は野村直隆に任せることにした。
直隆は鉄砲を生産する集団を率いるだけではなく、戦上手でもある。歴史では織田に寝返って国友村を攻めた宮部善祥坊を寄せ付けず、逆に宮部に重傷を負わせたとも伝わる。当主になった頃からの忠臣でもあるし、そろそろ大きな城を任せたいと思っていた。
小浜湊の代官には近習の増田長盛を抜擢した。
浅井の内政の評定に初期から参加していた長盛は、浅井の商業をよく理解している。それに青母衣衆の隊長として戦の経験も積んだし、重要拠点である日本海の港を任せるにふさわしい武将に育ったと思う。
増田長盛は出自のはっきりしない武将だが、浅井の能力主義を諸国に示すためにも活躍を期待している。
増田の後任となる青母衣衆の隊長は田中吉政にした。
外交では三好義継に書状を出し、若狭は朝倉が手を出していたので獲ったが、丹波には何の野心もないと伝えた。
義継からは返事が来て、丹波に手を出さないのなら三好家は動かないよう家中を抑えると言ってくれた。義継と会ったことは意味があったなと思う。
ただ返事の中で「将軍を助けようとしながら、助けられなかったとなったらすぐに若狭に侵攻したのは、浅井殿も一皮剥けたようだと松永弾正が褒めていた」と書いてあったのは微妙だが、褒められたと思うことにしよう。




