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長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う  作者: スタジオぞうさん
第三章 京の争乱

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五十三 お市と長政

1565(永禄8)年5月 近江国 長浜城 浅井長政

 「お市が俺の正体を受け入れてくれて、本当に嬉しかった。でも、俺の意識が転移する前の浅井新九郎を知っている姉上や家臣たちには、別人の意識が宿ったなんて、とても受け入れられない話だろうな。」

 「そうでしょうか。確かに未来から意識が転移するなど、普通には考えられないことですが、殿が普通ではなくなったことは、殿に近しい人ほど気付いていると思います。」

 「えっ。」

 「実は嫁いだ直後に実宰院様から、殿は夢枕で籾の選別方法を聞いたなどおかしなことをときどき口走るが、どうか気にしないでほしいと言われました。野良田の戦のあとに人が変わったようになり、狐が憑いたという者もいるが、むしろ天からの使いが弟に宿ったような気がするともおっしゃっていました。」

 「姉上がそんなことを。」

 「ええ。それに赤尾殿や三田村殿、遠藤殿も実宰院様と同じようなことを言っておられましたよ。」

 「美作守と爺に喜右衛門もか。」

 「はい、この世には人の智恵の及ばないことはいくらでもあります。殿は心配されているようですが、殿に近しい人たちは殿の変化を気付いて、受け入れていると思いますよ。」

 「そういうものか。」

 「そういうものです。」

 そうか、現代の日本と違って、この時代の人は深く神仏を信じている。都合が良いようにも思うが、未来から意識が転移してくるなどという不思議なことも現代人より受け入れやすいのかもしれない。

 「殿が秘密を話してくださったので、私も自分のことをお話しします。私は織田の娘として嫁いできましたから、当家と織田家が戦わずに済むことを願っています。ただ、万一のときは浅井家の一員として戦う決意も固めています。

 嫁いでくるときに私が美濃で襲われたのは、兄が私を囮として、西美濃衆と斎藤龍興殿を離反させるつもりだったことは分かっています。兄は私を助ける策も用意していましたから見殺しではありませんし、危険な目に遭うのは大名の家に生まれた者の運命と思っていました。」

 自分が囮にされたことをお市は気付いていたのか。

 「ですから、実宰院様と殿が私を助けに来てくれたと知ったときは驚きました。私の経験から言えば、当主とその姉が他家から嫁ぐ娘を救うために他国に踏み込むなど考えられません。嬉しくて泣いてしまいましたが、一方で、浅井家はそんな人の良いことで大丈夫なのかとも思っていました。

 ですが、殿は戦が強いだけではなく、新しい米作りを始め、酒造りや生糸の生産で領内を豊かにされました。人が良いだけではなく、外交や謀もできることも分かりました。ですから、ああ、殿は強くて優しいのだなと安心しました。」

 お市がそんなことを考えていたのか。

 「それに浅井家は女が活躍する家です。私は、お前が男だったらと何度も父に言われて育ちました。褒めてくれたのは分かっていましたが、女だから跡取りになれず、将にもなれず、できることは限られていました。仕方ないと諦めていましたが、浅井では私も、ただあなたの帰りを待つのではなく、将として留守を守れます。清水山の従妹殿のように政に関わることもできます。それが私は嬉しいのです。ですから、生まれた家を捨てることになっても、私は浅井家のために生きると決めたのです。」

 そこまでお市が決断していたとは。おそらく浅井家が滅んでもお市と娘たちは織田家に生きて戻るという歴史を聞いたから話してくれたんだろうが、家を捨てるというのはこの時代の人間にとって容易なことじゃない。お市のためにも、織田とはうまくやっていこうと思う。

 「ところで、最近悩んでおられた理由は何ですか。まだあなたの家族として信頼されていないから話してもらえないのではないかと、私も悩んでいたのですよ。」

 「それは済まなかった。最近悩んでいたのは二つある。歴史を変えたことで俺の知識が役に立たなくなるんじゃないかというのが一つ。もう一つは、将軍の暗殺を防ごうと思っても防げなかったから、もしかすると歴史の修正力のようなものが働いて、止められない歴史があるんじゃないかってことだ。どちらにしても、俺の秘密を明かさないと相談できないから、お市にも話せなかったんだ。」

 「そんなことを悩んでおられたのですか。それでは、あなたの知る歴史をすべて私に教えてください。浅井家が滅ぶことは聞きましたし、きっと私たちが不幸になる歴史なのでしょうけど、私は大丈夫ですから、話してください。」

 俺の知っている歴史と、ここに来てから変わった部分をお市に説明した。

 お市は理解力のある良い聞き手だった。織田家に浅井家が攻め滅ぼされるくだりを聞いても、取り乱すこともなかった。

 本能寺の変までの歴史のあらましを語り終えたときには、空が白み始めていた。

 「なるほど、そんな歴史が伝わっていたのですか。殿も私も兄上も、皆が不幸になる歴史ですね。しかし、私たちの生きているこの世は、ずいぶんと違っているではありませんか。大丈夫です、もう歴史は変わっていますよ。」

 本当にお市はポジティブだ。もう何だか輝いて見える気がする。

 「ただ、確かに多くの者に話せることではありませんね。殿が未来から来られたことは、実宰院様にはお話しした方が良いと思いますし、宿老の赤尾殿と三田村殿、遠藤殿にも知っておいてもらった方が良いように思います。問題なのは、あなたが未来で知ったこの国の歴史です。只人が知ってはいけない禁断の知識のような気もします。私はあなたが一人で悩むのは嫌ですから聞かせてもらいました。もし禁断の知識を知ったことで天罰を受けても後悔しません。ですが、他の人に知らせて良いものかどうか、難しいですね。」

 その点はもう少し考えることにした。 


 姉の実宰院を訪ねて、俺が未来から来たことを打ち明けると、そんなことではないかと思っていたと言われた。新九郎の心臓が止まったのを見ていたし、何か奇跡が起きたのだろうと思っていたそうだ。

 予想していなかったのは、もとの世界に戻りたいと思うかと姉上に問われたことだ。

 長政ではない転移前の俺のことを考えてくれた、優しい実宰院らしい気遣いだ。

 戻る方法も思いつかないが、転移前の記憶も欠けているし、この世界に大切な家族も家臣もいるから戻りたいとは思わないと答えると、ありがとうと言ってくれた。

 これからも姉でいてもらえるかと聞くと、当たり前だと怒られた。

 赤尾美作守と爺、喜右衛門にも、俺が未来から来たという秘密を打ち明けた。お市の予想どおり、三人ともたいして驚かなかった。きっと浅井家を救い、乱世を平和にするために神様が俺を呼んだのだろうと言ってくれた。

 これまで黙っていて済まないと謝ると、爺と喜右衛門は、子どもの頃から新九郎を知る自分たちが変化に気づかないはずはないだろうと、淡い笑みを浮かべた。喜右衛門は、最初は殿の秘めた才能が花開いたかと思ったが、途中からさすがにおかしいと思ったものの、決して狐憑きなどではなく、浅井を導くために天から遣わされた何かが殿に宿ったのではないかと考えたと話してくれた。

 そのうえで、家族や身内に優しく、敵には雄々しく立ち向かうところは昔の新九郎と何も変わらない、変わったのは陰謀が上手くなったことくらいだと言われた。褒められているのか、けなされているのか分からないが、ともかく受け入れてもらっているのは、泣けるほど嬉しかった。

 最近の俺は自己同一性が揺らぎ、アイデンティティクライシスに陥っていたと思う。それをお市が救ってくれて、姉上や家臣たちも俺という存在を安定させてくれた。

 美濃ではお市を俺が助けたが、今回はお市が俺を助けてくれた。

 おかげで俺は、自分が何者か悩むことは、もうないだろう。

 転移前の記憶が欠けていても問題ない。浅井新九郎殿の記憶や体に影響されても構わない。俺が浅井長政だ。頼れる家臣たちを率いる当主で、信頼できる優しい姉上の弟で、そして、お市という素晴らしい女性の夫だ。これ以上望むことなどない。

 人は一人では何者なのか安定することは難しくて、信頼できる人が安定させてくれるのかもしれないと思った。

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