五十一 将軍から託された刀と長政の悩み
1565(永禄8)年5月 近江国 長浜城 浅井長政
「なぜ、近江に逃げてくださらなかったのだ。」
将軍義輝が三好三人衆に殺されたと橘内から報告を受け、俺は愕然とした。
剣豪将軍の名にふさわしく多くの敵を討ち、武家の棟梁らしい最期だったと聞いたが、将軍の死を防げなかった。
俺の見通しは甘かった。
二条御所の使用人に紛れていた橘内の手の者によれば、前日には将軍は御所を出て近江に逃げようとしたが、幕臣たちが追いすがって止めたそうだ。歴史と同じだ。
幕臣たちは将軍が逃げては威厳が失われる、自分たちが決死の覚悟で守るので御所に戻ってほしいと懇願したらしい。ついこの間まで朽木谷に逃げていたことは忘れたのだろうか。
「これを。」
沈痛な表情の橘内が俺に差し出したのは短刀だった。
吉光という銘が入っている。
「これは?」
「手の者によれば、浅井新九郎に渡してほしいと義輝様から託されたそうだ。名刀の薬研藤四郎だ。」
これを義輝様が俺に。
「鉄製の薬研を貫くほど切れ味は鋭いのに、主人の腹は切れないという言い伝えのある刀だ。義輝様は大将に、この乱世を生き延びよと言っておられるんだと思う。生きて何かを為せ、あるいはご自身のできなかったことを大将に託されたのかもしれない。」
この刀にはそんな言い伝えがあるのか。俺は短刀を握りしめた。
「将軍義輝様は、せっかく知らせてくれたのに済まぬ、私は操り人形だと寂しそうに話されたそうだ。一度浅井新九郎に会ってみたかった、ともおっしゃったそうだ。」
明智十兵衛は義輝様のことを随分と褒めていた。あの方こそが武家の棟梁にふさわしいと。
俺もお会いしたかった。何とかできなかったのか。
大国近江の主になり、慢心していたのか。
それとも、変えられない歴史があるのか。
少し後で届いた三好義継からの返事には、三人衆から参陣するよう強い要請があったが、松永弾正とも相談して止めた。だが三人衆を止めることはできなかったと書いてあった。
最近、義輝の一字をもらって重存から義重に名前を改めたばかりだったが、今回の事件をきっかけに名前をさらに義継に改めたことも手紙に記されていた。
三好義継本人が将軍を殺害することは避けられたが、俺に出来たのはそれだけだった。
「すまんが、しばらく一人にしてくれるか。」
長浜城の奥には、一人で考え事をするための小部屋を作っている。
小部屋に籠り、自分の知っている歴史を書き出し、この世界で起きたことと比べて、この先どうなるのか、どうすべきか考えた。
これまで、歴史の知識を生かして、それなりに上手くやってきたと思う。
だが、将軍義輝の暗殺は止められなかった。
俺が京に救出に行けばよかったかもしれないと思ったが、橘内は、俺が行っても幕臣たちが将軍に簡単に会わせないから、結果は変わらなかっただろうと言った。
確かにそうだ。俺は何でもできるわけではない。
それに、永禄の変のような大きなイベントは、いろんな経路をたどっても結局は起きてしまう歴史の収束点のようなものかもしれない。転移前に遊んだゲームで、主人公が何度違う世界線に飛んでも、避けることが難しいイベントがあったことを覚えている。
そう考え始めると、今浜に造った城の名前が長浜城になったのも、歴史の修正力のようなものが働いたんじゃないかと思えてきた。
歴史では信長の名前にちなみ、この世界線では俺の名前にちなんでいるという違いはあるが、今浜という地名が長浜に変わる結論は同じだ。
もし、どんなに足掻いても変えられない歴史があるとするなら、浅井家の滅亡も避けられないのだろうか。近江を統一して伊賀も勢力下に収めた浅井が簡単に滅ぶとは思わないが、今後も上手く立ち回れるとは限らない。
小谷城は廃城にしたが、その代わりに長浜城が落城して炎上し、お市と娘たちが逃げ出す日が来ないという保証はない。
そうして悩んでいるうち、俺の悩みはさらに深まっていった。
そもそも、こうして悩んでいる俺は何者なんだろう。
これまで、あまり考えすぎないようにしてきた。それでも、考えずにいられない。
転移してから長政の記憶を受け継ぎ、この若い体にも馴染んできて、考え方も若くなったような気もする。転移前は普通のおじさんだったと思うが、年齢も名前も仕事も思い出せない。そのうち少しずつ思い出すかなと思ったが、時間が経っても記憶は戻ってこない。
一方で、この時代で役に立つ内政や歴史の知識は詳しく覚えているのも不自然だ。
俺は一体、何者なんだろう。
長浜城 小部屋の前 お市
殿は小部屋に長く籠られた後、黙って部屋を出られました。
将軍義輝様の危機に気づいていたのに止められなかったことを悔やんでおられるのは知っていますが、悩みはそれだけではないようにも思います。
普段は明るいのですが、時折思い詰めたような表情を見せることがあります。
赤子を抱かれたときにも、そんなことがありました。
一体何を悩んでおられるのか、話してもらえると嬉しいのですが。
私は織田の姫でもありますから、織田家の利害のために動くこともあるのではと信頼してもらっていないのでしょうか。
嫁いできてから、もうじき4年になります。
長年仕えてくれて、清州から付いてきてくれた老齢の侍女についこぼしてしまうと、決して殿が私を疑っているようには見えないと励ましてくれました。
確かに私は織田家と浅井家をつなぐために近江に来ましたし、今でも両家がずっと同盟していられることを望んでいます。ですが、万が一にも浅井と織田が戦うことになってしまったら、当主の妻として浅井のために私も戦う覚悟は固めています。
殿との間に息子も授かりました。もう私は浅井の女です。
殿はどう思っておられるのでしょう。
思い悩むうち、引き寄せられるように、殿が籠っておられた奥の小部屋の前に来ました。
いつもは鍵がかかっているのですが、今日は開いています。
ついふらふらと中に入りました。
小部屋の中には、殿の筆跡の書付けが多くありました。
そこに書かれているのは…。




