四 浅井家を取り巻く状況
1560（永禄３）年９月 近江国小谷城 浅井新九郎
家督継承の根回しの合間に、浅井家の状況について考えを巡らせた。
家督も早く継いだほうが良いが、織田家との同盟も早く結びたい。歴史を思い起こせば、時期が遅くなるほど織田の国力は上がり、対等の同盟から遠くなってしまう。
織田信長は寺社との対立から逃げずに政教分離を果たしたこと、関所をなくすなど商業を振興したこと、略奪を禁じた軍紀など素晴らしい実績があり、尊敬していた。
しかし、いざこの時代に来てみると、とても恐ろしい。織田家は圧倒的なスピードで領土を広げ、いつの間にか浅井を家臣のように扱えるほど力の差が広がってしまう。
信長が美濃で苦労しているうちに同盟し、できれば信長の美濃制圧に手を貸して恩を売りながら、こちらはこちらで早く六角を倒したい。
史実では1568年に信長は六角家をなぎ倒しながら上京する。そうなってしまうと、浅井家は南に領地を広げられなくなり、織田との力の差は開く一方になる。そして織田家の属国となるか、反信長包囲網に加わるかという二者択一に追い込まれてしまう。
信長に置いていかれないように力をつけなければ、織田家の同盟者として生き残れない。後ろから常に信長に追われているようなものだ。恐怖というほかない。
まだ家中の把握もできていないのに、随分と難しい課題を負わされたものだ。
それでも、歴史を知っているのは強みだろう。次に何が起こるか分かっていれば、事前に手を打てる。
それに、誰が有能で、誰が信頼できるのか分かるのは大きい。幸い北近江は人材も豊富だ。家督を継いだら人材登用だ。
転移する前はサラリーマンだったので、人に使われるだけだった。
状況は厳しくても、自分で道を開けることは嬉しい。
九月中に、できるだけ多くの家臣と面談した。家督継承の支持を取り付けつつ、信頼できない家臣には借りをつくらないようにするのは綱渡りで、精神的に消耗した。
月末になり、家督継承に向けた根回しの仕上げとして、赤尾美作守清綱を訪ねることにした。美作守といっても、正式な官位を得ているわけではない。戦国武将が勝手に官位を名乗るのは、よくあることだ。
浅井家の家臣は、山城の小谷城の中では低地の清水谷に屋敷がある。標高の高い場所にある本丸の近くに屋敷があるのは宿老の赤尾家だけだ。
清綱に会うと、どうしても久政に気付かれる。それに長政の記憶によれば、清綱は六角の姫を離縁する動きの中心にいて、直経とも気脈を通じている。無理に根回しをしなくても大丈夫なはずだ。だから会わないようにしていた。老練な清綱のことだから、俺が家督継承の根回しをしていることに気づいているだろう。
直経と数人の近習だけを連れて、先触れをしてから赤尾屋敷に行く。
「美作守、急に押しかけて済まぬ。」
「いえ、若様にお越し頂き、恐れ入ります。お呼び頂ければ参りましたものを。」
ひとしきり挨拶をした後、清綱の方から話を切り出してきた。
「ところで、若様は随分精力的に家中の者にお会いになっているようですな。」
「ああ、お陰で傷の治りも早かった。野良田の戦いでは皆に働いてもらったからな。その礼をして回らねばと思っている。」
「そうでしたか。若様は律儀でいらっしゃる。」
腹芸を互いに続けるのは疲れるな。そろそろ本音で話すか。
「実は美作守に折り入って相談したいことがある。人払いを頼めるか。」
「承知致しました。では、こちらへ。」
奥の座敷に案内され、俺と清綱と直経の三人だけで話す。
「相談したいのは今度の評定のことだ。浅井家のこれからを美作守はどう考えている。」
「やはりそのことでしたか。新九郎様も根回しをなさっているようですが、私もいろいろ声をかけました。家中の多くの者は新九郎様を新しい当主にしたいと思っております。」
「ありがとう。俺も皆の考えを聞いて回り、腹を括った。父が望まなくても家督を継ぐつもりだ。」
「頼もしいお覚悟です。戦国の世ですから、そうでなくては。」
「うむ。だが問題になるのは父上の扱いだ。美作守に本当に相談したいのは、そのことだ。もちろん父上に貧しい暮らしをさせるつもりはないが、中途半端に城に残ってもらうと、家臣たちも俺と父のどちらに相談して良いか迷うだろう。だから竹生島に館を作って移ってもらおうかと思っているのだが、どうだろう。」
「なるほど、竹生島ですか。某も賛成致します。いずれ家督の継承が落ち着いた頃に城にお戻り頂けば良いかと。」
「いや、それはまずいと思う。将来、俺と考えのあわない家臣が父上を担ぎ出してはお家騒動になりかねんし、他国が当家の混乱を狙うときの調略の標的にもなりかねん。父上には島で余生を過ごしてもらう。」
「お厳しいですな。しかし、確かにその方が問題は起きないでしょう。それにしても新九郎様は変わられましな。失礼ながら、こうした謀をそこまで深くお考えになるとは思っておりませんでした。」
中身がおじさんに入れ替わったことがばれないか冷や汗が出る。
「はは、六角の大軍に突撃するとき、命は無いものと覚悟を決めたのだ。幸い生き残ったが、死ぬかもしれなかった。戦国の世は食うか食われるかだと悟った。甘いことを言っていては、浅井は他の家に飲み込まれるだろう。父上に遠慮をしているような余裕はない。」
「立派なお覚悟です。分かり申した。もとより、六角の姫を離縁して送り返すとき、新九郎様を推し立てる覚悟は固めております。殿のお考えどおりに運ぶよう、某も力を尽くしましょう。」
「ありがとう。苦労をかけるが、頼む。」
赤尾屋敷からの帰り道、直経が声をかけてきた。
「本当に若様は立派になられた。いや、若様ではなくもう殿ですな。この直経も微力を尽くしますぞ。」
直経は勇猛さで有名だが、内政も外交もできる。この一月、俺に同行する他にも深夜まで文をしたためるなど、頑張ってくれていたのを知っている。
「喜右衛門が力を尽くしてくれているのは知っている。あまり寝ないでいると倒れないか心配だ。むしろ少し休んでほしいんだが。」
「何をおっしゃいますか。今がお家の肝心なとき。この直経、寝ないくらいで倒れたりはしませぬ。」
やれやれ、心配したら怒られてしまった。本当に俺には過ぎた忠臣だ。史実のような壮絶な最期を遂げさせないためにも頑張らなければ。
