三十五 観音寺騒動①
1563(永禄6)年10月上旬 近江国観音寺城 後藤賢豊
殿がお呼びだと聞いて城に参った。
しかし、殿はなかなか現れない。
このところ、殿は儂のことが疎ましいようだった。言うことを聞かぬと周囲にこぼしていたようだが、儂は六角家のためを思い、あえて憎まれ役を買って出ているのだ。
そのあたりのことを義賢様なら分かってくださるのだが、殿はどうなのであろう。
そろそろいったん屋敷に引き上げようと思ったら、周囲の襖が開き、武装した者どもがわらわらと現れた。
儂は息子とわずかな供の者と応戦したが、多勢に無勢だ。
何と愚かな。儂は謀反を企てたわけではない。
気に食わないというだけで家臣を討つとは。
これでは六角家は滅びかねぬ。
近江国小谷城 浅井長政
「殿、大変でございます。橘内殿から知らせがあり、六角義治が家臣の後藤賢豊を討ったようでございます。」
近習の増田長盛が飛び込んできた。
ついに来たか、観音寺騒動だ。この機を待っていたのだ。
「そうか、氏種と橘内と善祥坊を呼んでくれ。それから出兵の準備をするよう、領内に触れを出してくれ。」
そして、やってきた氏種たちにいくつかの指示をした。
氏種は少し驚いていたが、橘内と善祥坊は悪い笑みを浮かべた。
数日のうちに後藤家、目賀田家、平井家からそれぞれ使者が来た。
理不尽に忠臣を討った主君の義治と戦うので加勢してほしいという依頼だった。
当主とその息子を殺された後藤家の怒りは大きい。残された次男を中心に仇討ちだと士気は高いようだった。
目賀田家は後藤家と縁続きであり、その領地は浅井領に近い。歴史でも浅井家に支援を依頼したと伝わっている。
平井家はさらに、義治を討った後には俺に南近江を治めてほしいとまで書いてきた。
それぞれの使者を労い、浅井は必ず加勢すると伝えた。
主な家臣たちから出陣の準備ができたと連絡が来た。
城内が慌ただしくなる。
お市が勝ち栗など縁起物を持ってきてくれた。大名の普通の妻ならそれで終わりだが、うちは違う。
「それでは留守は頼んだぞ。」
「お任せください。」
俺の不在の間、小谷城の留守はお市に預けることにした。今回は宿老の赤尾にも出陣してもらう。お市の補佐は三田村の爺に頼んだ。
甲冑を着込んだお市に見送られて、城を発つ。
「出陣だ!六角義治は忠実だった家臣を手にかけた。そのような非道は天道が許すまい。我らを長年苦しめた六角を討つ好機だ!」
兵たちがおおっと応える。長年の敵との戦であり、正義の戦でもある。皆の士気は高い。
数日前に触れを出しておいたので、浅井領の城から続々と兵が出てくる。
小谷城から琵琶湖に向かい、赤尾や安養寺の軍が合流する。そして北国街道に出るあたりで丸に井桁の旗が見えた。田屋の伯父上の軍勢だな。宮部と浅見の軍もいるようだ。
浅見対馬守は阿閉と樋口の誘いに乗らず、宮部に少し遅れて俺に状況を知らせてきた。この世界線では信用して良さそうだ。
北国街道の拠点である山本山城の姉上には、念のため朝倉の動きに備えてもらっている。
朝倉は浅井を助け続けたと思われがちだが、祖父の亮政の代に近江に攻めてきたことがある。
油断して良い相手ではない。山本山城の城兵と女性部隊に加え、浅井本家の軍の一部を姉上に預けた。
北国街道を南下し、東山道と合流する箇所に来ると、遠藤直経と新庄直頼の軍勢が待っていた。
中島宗佐は城主になったばかりということもあり、今回は美濃に備えて留守番だ。
だいぶ空も暗くなってきた。
今日は佐和山城で一泊する。六角領に攻め込むのは明日だ。
近江国六角領 浅井長政
翌日、佐和山城の磯野軍も加わり、六角領に向かう。
小谷城と山本山城、横山城に守備兵を置き、常備兵は別動隊にしたので全軍ではないが、それでも7千5百名ほどの軍勢になった。
道を埋め尽くす大軍は、まるで蟻の群れのようだ。
地面を踏みしめる行軍の足音は地鳴りのように響く。
やがて、遠くに観音寺城が見えてきた。
多くの曲輪を備え、家臣たちがそれぞれの曲輪を守る壮大な城だ。
ほぼ百年前の応仁の乱の頃には存在していたという、六角家の歴史を象徴する城でもある。
その観音寺城が燃えていた。
橘内の報告によれば、当主と嫡男を殺された後藤家をはじめ、後藤家の親戚の目賀田家、平井家、進藤家もそれぞれの領地で兵を集めて観音寺城を包囲している。
六角六人衆と呼ばれる重臣のうち四人が六角家に反旗を翻したことになる。
さらに三上家、池田家なども同調し、観音寺城の三上丸や池田丸などの曲輪に火を放ち、領地に戻ったようだ。
六角義治は、わずかな手勢を連れて観音寺城から逃げ出したようだ。
歴史では蒲生家を頼り、日野城に向かったとされる。だが浅井家から蒲生家に宛てた偽の密書を作り、義治の手に渡るようにした。義治は疑心暗鬼の状態のはずだから日野城に行くのはためらうだろう。そうなると箕作城にいる父の義賢と共に甲賀の石部城に逃げようとするはずだ。
ちょうど蒲生定秀が六角親子の側に立って日野城に兵を集めたという知らせが入り、観音寺城を囲む六角家臣軍は日野城に向かうことになった。うちは磯野員昌に3千の兵を付けて日野に向かわせた。
蒲生家は所領6万石と言われ、国人領主としては破格の広大な領地を持つが、動員できる兵は普段は2千程度、無理をして3千程度だ。名将の磯野に3千の兵があれば、万一、単独で当たることになっても、後れを取ることはないだろう。
さらに遠藤直経に2千の兵を預けて石部城に向かわせた。観音寺城の義治の手勢は3百程度のようで、義賢の手勢も数百のはずだ。さらに事前に講じた策もあるので、これで十分だ。
俺は2千5百の兵とともに観音寺城を抑え、状況に応じて日野か甲賀の援軍に行けるようにした。兵力の分散は一般論としては良くないが、今回はこれで良いはずだ。
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