十三 湖上の水運を握れ
1560(永禄3)年12月 近江国高島郡清水山城 浅井新九郎
先月の戦で高島郡の大半を併合し、直轄地を増やすこともできた。しばらくは内政の充実に取り組むべきだろう。
まずは商業だ。米が収穫できるのは次の秋だが、商業はその前に成果を出せる。
商業の改革では、琵琶湖水運を盛んにしたい。
そのための拠点となるのが、高島家の居城だった清水山城だ。
清水山城は琵琶湖北岸の今津港を見下ろす高台にある。城の櫓からは琵琶湖を見渡すことができ、竹生島も見える。
清水山城を誰に任せるか考えた結果、浅井郡須賀谷の国人領主であり、忠誠心の高い片桐孫右衛門直貞に任せることにした。浅井本家の直轄地であり、地理的にも重要な拠点なので城主にはできないが、二つ返事で引き受けてくれた。
片桐直貞は、歴史では小谷城落城の前日に長政から感状をもらっていることで知られる。落城間近になり、多くの家臣が見限っていく中で忠誠を尽くしてくれたことに感謝するこの書状は、長政の最後の感状であり、片桐直貞が次の主に仕えるときに信用されるようにと長政が配慮したものと考えられている。
忠誠心の非常に高い直貞は、重要な拠点を安心して任せられる。さらに直貞の長男は淀殿の重臣として有名な片桐且元であり、次男の貞隆も戦国大名になった。優秀な一家なので、活躍を期待している。
清水山城を訪問したのは、戦から一ヵ月くらい経った頃だった。
商業振興の相談をしにきたので、側近の中島直親と護衛の近習に加えて、内政担当として召し抱えた石田正継と小堀政次も連れてきた。百々内蔵助には内政全般を相談しているが、今回は三田村の爺と一緒に小谷城の留守を任せている。新たに近習に加えた増田長盛も、内政も勉強してもらうために同席させた。
「孫右衛門、高島の様子はどうだ。」
「はっ、戦で逃げていた百姓も戻ってきて、だいぶ落ち着いて参りました。」
「そうか、それは良かった。しかし、荒れてしまった田畑もあるだろう。来年の年貢は軽くしよう。浅井の直轄地は四公六民にするつもりだが、来年に限ってはもっと軽くしても構わん。」
「殿の仁徳に民もさぞ喜びましょう。」
「いや、仁徳とは褒め過ぎだ。正直に言えば人気取りだ。領主が変わって暮らしが苦しくなっては民の気持ちを掴めないだろう。一揆が起きるようでは領主失格だ。」
北近江には湖北十ヶ寺と呼ばれる浄土真宗の有力な寺院があり、蓮如上人の影響が強く残っている。北陸の一向一揆を他人事と思ってはいけない。
「年貢を軽くする代わりではないが、琵琶湖の水運を盛んにして、商業から収入を得ようと思っている。」
「水運でございますか。」
「うむ。城下の今津港を支配下に加えたことで、もともと領内にある塩津、海津とあわせて湖北三津を抑えることができた。これで若狭から運ばれる荷物は浅井領内を通ることになる。ここから対岸の朝妻港までの水運を盛んにすることで、日本海から東山道への物の流れをつくりたいと思っている。」
「大きな構想でございますな。」
「ああ、上手く行けば領内を多くの荷が通ることになり、津料も増えるし、商人からの税も増やせるだろう。商人からは戦の度に矢銭を取るのではなく定期的に税を取ることにしたいと思う。そのためにまず津料を安くしようと思う。」
皆、驚いている。関所で徴収する税金である津料の収入が増えると言ったばかりなのに津料を安くするとはどういうことか、と思っているのだろう。
「殿、お言葉ながら、津料の収入を増やすお考えでありながら津料を安くするとはどういうことでございましょうか。」
石田正継が質問してきた。疑問があったら何でも聞いてくれと事前に言ってある。新参だからと遠慮しないのは良い傾向だ。
「それは大津を通る荷を少なくし、朝妻を通るようにするためだ。若狭から京や畿内に運ばれる北国の産物は湖北三津を通り、大津に行くことが多い。しかし津料が半値なら、少し遠くても朝妻港で荷揚げする者が増えるだろう。扱う荷が増えれば朝妻港は栄え、津料以外の税も増やせるはずだ。」
皆の顔に理解の色が浮かんだところで、話を続ける。
「少しあざといが、湖北三津で取る津料は大津に運ぶ場合は従来どおり取り、朝妻に運ぶ場合は半値にしようと思う。」
「何と、殿はお若いのに武勇に優れるだけでなく、政にもお詳しいとは。恐れ入りましてございます。」
正継の発言に「まことに」と政次も頷く。
「いや、六角の人質であった頃、定頼公の政を見て学ぼうと思ったのだ。六角は浅井の敵であったが、定頼公は名君であった。楽市楽座を試みるなど商いを盛んにすることも考えておられた。」
「そうでございましたか。殿が長く人質にとられておりましたこと、悔しく思っておりましたが、殿は六角の政を学んでおられたとは。」
片桐直貞も感心してくれた。
いや、現代だと関税を引き下げて流通量を増やすことは普通に思いつくことなんだが。そんなに感心されると申し訳ないような気がして、居心地が悪い。
近江国高島郡清水山城 増田長盛
近習として召し抱えられてからまだ日が浅いが、殿には目をかけて頂いている。今日も城代の片桐様との面談に同席させて頂いた。
しかし、津料を安くすることで六角の港に流れる荷を減らそうとするとは驚いた。私は武芸を磨くだけではなく書物も読んできたつもりだが、殿の発想は斬新だ。
良い武将とは戦に強い武将だと思う者が多い中、殿は内政も重視しておられる。
しかも先月の戦では鬼神のような武勇を発揮したにも関わらず、というところが凄い。
良い殿に仕えることができた。一層精進していこう。
近江国坂田郡朝妻 浅井新九郎
数日後、今度は対岸の坂田郡の朝妻湊を訪ねた。
港を船が忙しく出入りし、人足が荷物の積み下ろしをしている。
この朝妻湊を管理するために建てられたのが朝妻城であり、水堀を巡らせ、船溜まりも備えている。
城の奥の間に案内されると、城主の新庄新三郎直頼が迎えてくれた。
23歳の少壮の国人領主だが、領主歴は長い。父親の死去に伴い、わずか12歳で家督を継ぎ、立派に新庄家を切り盛りしてきた。
新庄家は三上山のムカデ退治で有名な俵藤太の末裔といわれ、二代将軍足利義詮に仕えた藤原俊名が坂田郡新庄に居を構えて新庄氏と名乗ったとされる。浅井家よりも、よほど家柄は良い。六角家、京極家、浅井家の間で揺れ動きながら、最終的に浅井家臣になった。
歴史では浅井家の滅亡の後、秀吉の御伽衆となり、徳川幕府では文武に優れ人倫をわきまえた人物として常陸麻生藩の初代藩主となっている。関ヶ原では西軍についたのに大名になったのだから、よほど高く評価された人物だ。これからの活躍を期待している。
「なかなか賑わっているな。」
「はっ、東山道にも近く、古くから栄える港と聞いております。」
清水山城でしたのと同じ話をした。朝妻港の津料は新庄家の重要な収入源だが、さすが聡明な直頼はすぐに理解して賛成してくれた。
「それは面白うございますな。大津の連中から荷を奪ってやりましょう。」
不敵な笑みを浮かべる直頼は頼もしかった。
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