文哉:マナーモード
二酸化炭素だらけのフラスコ。不快な期待が蠢いていたあの部屋を僕は知らぬうちに出ていた。実は目を開けていないのではないかという暗がりに包まれている。ひょっとしたら本当に目を開けていないのかもしれない。逆夢を見ているということにして、シャボン玉みたいに現実を潰そうとしているんだ。そんな簡単に壊れる筈がないのに。意識を失う前に聴いた、聞き覚えのある名前。頭に何回も反芻されている。深層に沈むような心地。感情の底値にタッチする。澄香。その名前は、おそらく僕の同級生の名だ。似合うメガネを外した人。磨りガラス越しに見られてた僕を救おうとした人。そしてその色メガネを外せなかった人。いつの間にか傍観者になっていた人。心をマナーモードにした人。
そう。僕は、虐められていたときにプラシーボ的に澄香に恋をしたんだ。排出的恋愛。少なからず自分を求めてくれた人に全てを貰って貰いたいという多欲の渦巻き。しかし、思いを込めた言葉は届くことはなく、空中を漂うことすらしないで落ちた。空気が支えるには重かったらしい。
***
『文哉君は、いつも教室の隅で何をしているの?』
放課後の夕暮れに人影が遮られ、人が殆どいない教室。僕は、隅の自席でぼうっとしているのが好きだった。その声に平穏を破られて、不機嫌になる素振りを見せる。こうすれば、みんな勝手にどっか行く。
『無視しないでよ。私は君の敵じゃない。』
空気の成分を調べるみたいに、辺りを見回して、ひそひそ囁く。耳がこそばゆい。鼻腔をくすぐるシャンプーの花の匂い。
「ただ、ぼーっと何かを考えてるだけだ。」
気不味くなって、ぶっきらぼうに答える。彼女はそれを聴いて不思議そうな顔をする。ほら見ろ。
『へぇ。素敵だね。黄昏時に一人で考えごとなんて。』
彼女は、今まで見たどの人の反応とも違った。打てば汚く響くドラム缶とも、すぐひしゃげるアルミ缶とも、大きく非難の声を鳴らす鐘とも。彼女は、グラスハープだった。身勝手に心を水浸しにする色々な感情を秘めながらも、美しい音を鳴らす。
「そうかな。」
憂鬱という友達に冷や飯を食わせていただけだ。素敵とは到底思えない。現実と折り合いをつける為に、彼女は言葉を舌で転がす。この憂鬱すらもドロップのように解してしまったのだろうか。
『なら、私は邪魔?』
「別に。」
わざと帰り支度をしながら返答する。栞を挟む。終わりだと言うみたいに。
***
『乾 文哉君ですよね?』
揺蕩う意識を引き寄せられる。ぶれた焦点が眼鏡を掛けたみたいに合わさる。乾いた朝顔。名刺の男。意識の船着場。夢混じりの現に酔う頭で答える。
「はい。久しぶりですね。」
何を言いに来たのか。挨拶だけの為にこの男は絶対に声を掛けない。無意識に自分を呼びかける声にも行間を探ってしまう。ほろ酔いは頭を冷やして消えた。
『幾つかお伝えすることがあります。』
予想通りだ。性急すぎる本題がやってきた。終わりが近づいているかのように慌ただしい。
***
『この話は基本的に無修正かつオフレコです。』
遊佐木のパッケージの提示に頷く。あの暈しだらけの資料と発言のモザイクを外してくれるらしい。実はマネキンにモザイクを掛けてただけとか言うのは、辞めて欲しいところだ。
『寓話の比喩を外しましょうか。』




