是害坊天狗 1
周囲の景色が、照妖鑑のレンズ越しに流れていく。
しかし自分が動いているわけでも、周囲が動いているわけでもない。水奈は今、そんな奇妙な感覚を味わっていた。
だが最初こそ混乱したものの、今はそんな感覚はない。むしろ精神は落ち着いていて、他者に操られるとはこういうものかと、状況を観察する余裕すらあるほどだった。
何もできないが、考えることはできるのだ。そして考えることは、水奈にとって得意分野。妖怪相手であっても、やることは変わらない。自分にできないこととできることを取捨選択して、できることを突き詰めていくのみだった。
(身体を乗っ取られてから今まで、機関用のスマホは破棄されていない……それなら、アプリで私を追跡できるはずですわ。問題はこの妖怪の飛ぶ速度ですけれど……)
考えながら、水奈は己の身体を強張らせる感覚で力を込める。
すると一瞬、ほんの一瞬だけ妖怪の支配が揺らいだ。それによって妖怪の飛行速度ががくりと落ち、高さも一気に下がる。
もちろん、それだけで妖怪を止めることはできない。それでも、追手が同じく空が飛べる晶であるなら、この妨害にはかなりの意味があると、水奈は考えていた。
「ぐうっ! おのれ小娘め……! 一体どこにそんな力が残っておるのだ!? まだ早いとは思っていたが、これほどとは……!」
妨害を受けた妖怪が、水奈の美しい顔を歪めてうめく。
そうしながらも再び支配を取り戻して速度を上げる妖怪だが、トップスピード周辺までなったところで再び、水奈が身体の中から抵抗して妨害する。
先ほどから、この繰り返しだ。おかげで、妖怪の移動は順調ではなさそうだった。
妖怪の独り言からそう判断した水奈は、さらに考える。
(これだけ私が抵抗できるということは、やはり完全には乗っ取られていないということかしら? それとも……私がこの妖怪に対して、さほど悪感情を抱いていないから?)
恐れや怒りといった悪感情が魂魄妖怪のエネルギーになることは、しっかりと覚えていた。それは裏を返せば、悪感情を抱かなければ魂魄妖怪は成長できないということでもある。
だから彼女は、できる限り冷静になるよう努め、状況把握を怠らない。知らないということはそれだけ恐怖に繋がりやすい。知れば知るほど妖怪に対する恐れは消えていく、そう考えて。
(せっかく相手の魂魄が私に宿っているのですし……この状態で、相手の考えていることを読めたりしないかしら? 確かに私は晶さんみたいな能力はないけれど……少なくとも今は妨害できていますし、あるいは)
周囲の状況から得られる情報がなくなったのを見て、水奈はふと思った。
そうして、動かせない身体を動かす要領で、違う場所に力を入れてみる。耳を澄ますように、心を動かしてみる。
すると――。
『一体なんなのだこの小娘は! これほど抵抗する人間はこの二千年見たことがない!』
耳朶を打つ声とはまた違う、頭の中に直接声が響くような形で、妖怪のしゃがれた声が聞こえた。
一発で成功したことに喜ぶと同時に驚き、そこで力を抜いてしまったので、聞けたのはその一言だけではあった。それでも確かに、水奈は妖怪の思考に介入することができた。
ならばこれを利用しない手はないと自身を叱咤して、しばらくは飛行の妨害と思考の盗聴を交互に繰り返すことにする。
『劣化していた空間――開いた穴は予想より大――気づかれ――』
『だがむしろ――囮になる雑魚どもも共に呼び込――好機やもしれ――』
『感情が揺れ動きやすい若い娘に――と思っていたが、失敗であったやも――』
『あの松田とかい――ほうがよかっ――』
様々な情報が、虫食いの状態で水奈の意識に飛び込んでくる。彼女はそれらの抜けたところを推測し、補完しながら組み合わせていく。
(恐らく、ご老人たちの突然の反旗や日由さんの事件も、全てはこの妖怪が原因。あの古井戸の穴を開けたのも、ですわね)
あの場所に開けたのはそこを選んでのことではなく、単に空間が脆くなっているところを崩したら、それがたまたま里山の中の古井戸に繋がっただけだろう。しかし、その穴が予想よりも大きなものになってしまい、大量の妖怪が殺到したようだった。
(それを嫌うのは、『蜘蛛の糸』のカンダタみたいですわね。もっとも、あれとは違って垂らされた糸は切れなかったようですけれど)
大量の妖怪が一斉にこちらに現れれば、発覚のリスクも当然増す。しかしその大量の妖怪を、自身がこちらに来たことを欺くため隠れ蓑として利用にしたようだ……というのが、この急場で水奈が立てた仮説である。
(そして利用された妖怪たちがわかりやすく騒動を起こしている隙に、この妖怪は私に取り憑いていたわけですね。私の中からこの世界の様子を見ながら力を蓄えていたのでしょう。これが正しいかどうかはわかりませんが……)
一つ間違いないと判断できたのは、最初この妖怪の標的が水奈ではなく松田だったらしい、ということだ。
その途中で、「感情が揺れ動きやすい若い娘」のほうがいいだろうと判断されて、乗り換えたようだが……。
(思い返せば、あの日の松田は居眠りしていたのではなく、妖怪に取り憑かれて気絶していたのでしょう。そして私も。確かにあの時の眠気は睡眠とはどこか違っていましたわ。あれが『取り憑かれたら一旦気絶する』ということだったのでしょう)
そう考えて、水奈は内心でため息をつく。しかし同時に、取り憑かれたのが自分でよかったとも思った。
(私、同年代の女性の中では冷めているほうですからね。もちろん熱がないなんて言いませんけど……あまり感情の起伏が大きくない人間から餌として得られる悪感情なんて、大した量にはならないでしょうからね)
何より水奈には、頼りになる仲間がいる。だから、良くならない状況に焦りはしても、恐怖することはなかった。
(晶さん……それに石燕さん、威黒さん。信じておりますわよ……)
そう祈りながら、水奈は近い将来必要になるだろうと、自らを操る妖怪の情報を探るべく、再び意識を集中させた。
晶は、己が出しうる全力で空を駆けていた。そんな彼女の姿を認識できる人間など、ほとんどいないだろう。よしんばいたとしても、目の錯覚と思うはずだ。
……晶の心中には今、怒りが渦巻いていた。
妖怪相手にではない。あの時ためらい、妖怪の動きを止められなかった自分にだ。
(あたしはかんなぎだ! この力は、誰かを守るためのものなのに……なのに!)
心の中で、晶は叫ぶ。そして己を叱咤する。まだ間に合う、急げ、と。だから、彼女が速度を落とすことはない。
そのままどれほどの時間が経っただろうか。彼女の視界に、遂に水奈の姿が飛び込んできた。
取り憑いた妖怪はもはや妖気を隠すつもりがないようで、身体からは膨大な量が湧き続けている。その量から、相当な強敵だということは容易に想像がついた。
だがその動きはと言えば、非常にぎこちなかった。猛スピードを出したかと思うと急制動をかけて落ちそうになるなど、どうも様子がおかしい。
とはいえ、それを深く追究するだけの余裕は晶にはなかった。
「追いついた……! もう少し……ッ!」
水奈を見つけるや否や、晶は神の力をその身に降ろした。炎の竜巻に包まれ、彼女の姿が変わる。
瞬間、飛ぶ速度がぐんと上がった。あっという間に音速近くにまで達すると、そのまま突撃とも言える勢いで一直線に水奈へ突っ込んでいく。そして妖怪に気づかれるよりも早く、彼女の身体を抱き留めた。
直前に妖怪が振り返ったが、晶はそれ以上の反応は許さなかった。速度を一切落とすことなく、有無を言わさず己の軌道に乗せて近場のビルの屋上へ突っ込む。
そうしてむき出しのコンクリートに直撃する寸前に勢いを一気に殺し、両者のダメージは最小限に抑えて地面を転がった。かなり無茶な制動だったが、そこは神の力があってこそと言えよう。
それでも着地の際に、振りほどかれる程度の隙はできてしまった。水奈の身体は彼女の意思に反して、晶から距離を取る。
「ぐぬう……ッ、む、無茶なことを! 貴様この娘がどうなってもいいのか!?」
「うるせー! それよかてめー、覚悟しやがれ! 逃げられると思うなよ!」
「ぬうぅっ! 来るでないわ! 顕現したら存分に相手してやる故、それまで待てぇい!」
「お断りだッ!」
水奈の声でわめく妖怪に叫びながら晶は、即座にその距離を詰める。炎に包まれた両手を振り回し、それで水奈の身体を抑えようと試みた。
だが妖怪は、その意図を即座に見抜き避けに徹する。突き出される拳を一つ一つ丁寧にいなし、決して組み合おうとはしない。服をつかませることすら許さない徹底ぶりだ。
もちろん追う晶だが、相手はアクロバティックに跳躍してあちらへこちらへと動き回り、なかなかつかまらない。更に逃げ回りながら、設備部品やそこらに転がっていたゴミなどを飛ばしてくる始末。
「ああもうっ、厄介だなくそっ!」
飛んでくるものは炎の翼で受け流して食らわずに済んでいるが、そもそもの目的は水奈の奪還だ。なのにまるで上手くいかないことに、晶は思わず声を荒らげた。
一方その様子を身体の中から見つめていた水奈は、ここで妖怪への抵抗を一旦止めていた。その状態で、妖怪の動き、晶の動きをよく観察していたのだ。
(戦闘に入ってから、抵抗しづらくなった……恐らく、それだけ妖怪が力を発揮しているということなのでしょう。この状態で小さな抵抗を重ねても無駄ですわ。ここはつけ入る隙を見計らって、そこにすべてを注ぐほうが得策でしょう)
それが彼女が至った結論だった。
しかし、何もできずただ眺めているだけというのは、水奈が思っているよりもなかなかにもどかしいことだった。
第三者の立場から見ていると、晶の戦い方があまりにも感情的になりすぎていることがわかるのだ。
水奈は、格闘技には詳しくない。護身術を知らないとは言わないが、荒事は専門外だ。それでも、今の晶が冷静ではないことはわかった。
何せ、高確率でフェイントに引っかかる。防御もおろそかになっていて、少し気を付けていれば防げるだろう位置からの攻撃も、食らってしまっているのだ。その身を覆う神の火も勢いは強いのに、まるで生かせていない。
動きも俊敏だし、重心の乗せ方もしっかりしている。その分攻撃は鋭い。それだけに、水奈にはもったいないと思えて仕方がなかった。
『むむ――ままでは顕現のための力が目減りし――消耗は抑え――……! なんとか距離を――火となると特に相――』
(うう、今声を出せるなら、この妖怪が力を出し惜しみしていると伝えられますのに!)
ある程度妖怪の思考がわかる水奈には漠然とだが、相手が全力を出していないことは理解できた。それを伝えられれば晶も優位に立てるだろうが、今の水奈には許されない。
それ以外にも、水奈には叫びたくてしょうがないことがあった。
(違いますわ晶さん……! 変に私に遠慮するから、相手に決定打を浴びせられないのですわ! 女郎蜘蛛にやったような全力の攻撃をしてくださいまし!)
相手が顕現するための力を温存しようと出し惜しみしている今なら、それで倒せるはずだと、声を大にして伝えたかった。
だが、やはりそれはかなわない。その後も戦況に動きは現れず、人知れずやきもきしている水奈をよそに、晶と妖怪の戦いは続く。
晶が猛然と攻めかかれば、妖怪は巧みに引いて攻撃を寄せ付けない。妖怪が逃亡を試みれば、晶はここぞとばかりに激しい攻撃を放つ。そんな攻防がしばらく続いた。
一向に決着がつく気配はなく、そのまま状況が泥仕合の様相を呈し始めたその時。業を煮やした晶が、遂に打って出た。彼女の両拳から、大量の炎が吹き上がる。
さながら火山の噴火を思わせる膨大な熱と光の奔流は、今までとは比べ物にならない規模だ。それを見た水奈は、意識だけで喝采を上げた。
(そう! それでいいのです!)
「水奈……先に謝っとく! 怪我残ったらごめんな!」
「ちぃっ! しつこい小娘だ! この上さらに特攻を仕掛けてくるとは、阿呆なのか!? この身体がどうなってもいいのか!? おい!!」
「アホで悪かったなああぁぁー!!」
妖怪が制止の声を上げるが、晶はそれを遮って叫んだ。石燕に言われていた通り、考えるのをやめたのだ。そして己の心に従った。
それは石燕のもう一つの指示であった「無茶はするな」に、反していたが……晶の中では、無茶をしないよりも水奈を一刻も早く取り戻したい気持ちのほうが強かった。
その想いを乗せて、晶は全力で前へ飛ぶ。己の身体がきしむのも厭わぬ全力でだ。
無論、その速度は今までの比ではない。枷をかなぐり捨てた晶の身体は、瞬時に音速の世界に迫る。
あまりの速さに、妖怪は反撃しようなどとは思いもしなかった。それまでと同様逃げることを選び、空へ飛び上がろうとする。
しかしその直後、彼の身体が出し抜けに硬直した。
「なッ、なんだと!?」
(この時を待っていましたわ!)
戦いが始まって今の今まで、意図的に観察に徹していた水奈が、ここにきて遂に抵抗を再開したのだ。
しばらく抵抗がなかったからか、妖怪の身体はこれまでで一番長く制止する。それでもすぐに水奈の抵抗を押し込めたのだから、彼の実力は間違なく高いだろう。しかし今の状況では、そのわずかなタイムロスは致命的だった。
「っしゃおらあぁぁぁぁー!!」
「ぬおおおぉぉーっ!?」
晶の拳が妖怪の……いや、水奈の下腹部に刺さ――らなかった。大量の火炎と共に突っ込んだ晶は妖怪の硬直を見て、寸前に攻撃をやめていたのだ。しかし勢いはほとんど衰えることなく、水奈の身体を押し倒すほどの勢いで、壁に組み伏せる。
「やっと捕まえたぞこの野郎!」
「ぐぬう……! おのれェッ、力の使いどころを誤ったか……!」
「はっ、みてーだな! あたしとしちゃ、ありがたいけどよ!」
「よりにもよってこんな阿呆のような小娘に……! 屈辱だッ!」
「うるせーな、そのアホにとっ捕まったやつが抜かしてんじゃねーぞ!」
「ぬううぅぅー!!」
妖怪が絶叫した。よほど失敗したことが悔しかったようだ。
彼とは逆に、水奈は我慢できずに笑う。笑いながら、再び妖怪に抗い始めた。全力で、これまでの鬱憤を晴らすかのように激しくでだ。
「ぬぐ……くッ、く、こ、こんな……ところで……あ、ああ、……あき、ら、さん……」
「水奈!? 意識あるんだな!?」
「う……は、はい……中から、見ておりました、わ……少し手間取った、ようです、けれど……」
「う、し、しゃーなしだろ!? あたしだって、友達相手には遠慮するっての!」
「わかって、います、わ……! ぐ、うう……っ! ふう、はあ……晶、さん……どうやら、こうして動き、を、止めているので精一杯、のようです……早く、この妖怪、を……」
「わ、わかった、任せろ!」
かろうじて意識を表面に出し、苦しみながら晶と言葉を交わす水奈。
彼女の申し出を受け容れて、晶はすぐさま妖怪を追い出すべく、自身が宿す神の力を練り上げる。
「ふぐ……ッ、う、ぐう……か、早く、はや……ぐ、う、ぐぬうううう、小娘、どもがあぁぁ……ッ!」
だが、さすがに危機感を覚えた妖怪が水奈の抵抗を抑え込み、再び身体の主導権が逆転する。
「か……ッ、かくなる上はアアァァッ!」
同時にその全身から、今まで以上の大量の妖気が噴き出し始めた。
ただの妖気ではない。物理的な威力を持つ、顕現特有の妖気。それが周囲を激しく打ち据えたのだ。
その威力はもはや並大抵の攻撃を上回るものであり、地面に妖怪を中心地点とした同心円状のヒビが入る。
と同時に、女郎蜘蛛の時とは比べ物にならないほどの衝撃が晶の身体を襲った。抵抗できたのは一瞬。彼女は吹き飛ばされて、地面に激しくたたきつけられた。
「ぐあぁッ!」
その衝撃で一瞬意識が飛びかけ、併せて憑依降臨も解けてしまう。途端に猛烈な痛みが、身体を駆け巡る。
けれども、その痛みのおかげで意識が戻ってくる。歯を食いしばって痛みに耐えながら、身体を起こす。そこで彼女が見たものは。
黒い蜘蛛糸のようなものに身体をからめ捕られ、ゆっくりと倒れ始めた水奈と……妖気を纏いながら夜闇の空に浮かび上がり行く、鳥顔の妖怪――天狗の姿だった。
天狗が笑う。いや、嗤う。高らかに、これ見よがしに。
「水奈アァァーッ!」
その光景に耐えかねて、晶が叫ぶ。しかしその声に応えるものなどなく、空しく空に消える――。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ラストバトル開始です。




