女郎蜘蛛 2
晶は空を切りながら、悲鳴が聞こえたほうに突き進んでいた。
冬の夜は暗かったが、彼女の目はあふれ出る妖気をはっきりととらえている。目標を見失うことはなかった。
やがて晶の視界に、妖気を立ち上らせる少女の姿が飛び込んできた。
日由だ。彼女が鬼気迫る表情で、少年を引きずってのしのしと歩いていた。
二人の身長差は、優に二十センチはあるだろうか。もちろん身体の横幅も相当な違いがあり、小柄な日由に少年を手にして歩くなど、普通に考えれば不可能だ。少年のほうも、常識で考えれば容易に抵抗できるだろう。
にもかかわらず、少年はパニック状態で悲鳴を上げながら、ただ引きずられている。いや、必死に暴れているのだが、日由はそれをまるで気にせず、しかし手放しもせず、歩き続けているのだ。
明らかに異常事態である。そしてどうしてそうなっているのか、晶にはすぐわかる。
だから彼女は躊躇なく速度を上げ、日由の向かうほう、その前方へ進路を向けた。
「待てえぇぇーっ!」
そう叫びながら、ごうごうと風を切って。
彼女の身体はすぐに、ほとんど速度を落とさず着地する。音と共に、路面に小さなひびが走った。
その派手な登場に、さすがに日由が足を止める。
「それ以上はさせねーぞ」
日由に指を向けながら、晶は言う。だが言いながら、彼女はかすかに顔をしかめた。
正面から対峙した日由の顔は、水奈が見せてくれた写真と同じ顔だった。それはいい。だがその顔は、恐ろしいものになっていたのだ。
まるで口裂け女のように裂けて見える口。比喩でもなんでもなく、らんらんと妖しく輝く瞳。様々な感情が入り混じる、飾り物のような顔。
妖怪に取り憑かれていることは、もはや疑うべくもなかった。
「ア、ンタ……何者、ダ……?」
日由が口を開いた。しかしその声は、とぎれとぎれの片言。
その様に、彼女がもはや妖怪に魂を奪われる寸前であることを悟った晶は、歯噛みする。
だが、まだ顕現は始まっていない。ならばまだ間に合うはずだと、近づこうとしたその瞬間。
「くそっ、てめえ離せ、離しやがれ! チビのくせにっ!」
日由の手元で、少年が声を荒らげ激しく暴れ始めた。日由が動きを止めたことで、抵抗できそうだと思ったようだ。
だがそれを見た晶は、慌てて前へ飛び出した。妖怪に取り憑かれた人間に下手な抵抗をすれば、どうなるかわかったものではないからだ。
実際、日由はその細腕で少年を軽々と持ち上げると、そのまま近場の壁に向けて思いっきり投げつけた。
「ぎゃああああ!!」
ものすごい速度で虚空を横切り、壁に叩きつけられた少年の絶叫が響き渡る。
あと一歩のところで間に合わなかった晶は一度虚空をつかみながらも、なんとか崩れ落ちる少年の身体を抱きとめた。
見れば少年は既に気を失っており、その口からは血を吐き出している。相当に内蔵を痛めたようだ。
せめて、とばかりに白い火で少年の身体を包み込むと、彼をそっとその場に横たえる。この能力に劇的な治癒効果がないことは晶自身が一番知っているのだが、それでも何もしないよりはましと考えて。
「晶さん……!」
そこに、息を切らせて水奈が到着した。だが駆け寄ろうとしたところで晶に手で制され、足を止める。同時に、日由を見て目を見開いた。
日由の身体からは、先ほどにも増して妖気が噴き出していた。その勢いはもはや物理的な威力を持つに至り、見える暴風と化してごうごうと音が鳴る。巻き込まれた街灯が大いに揺れて、いくつかの光が吹き飛んだ。
水奈にもそれははっきりと見て取れた。そしてそれが何を意味するかも、彼女にはわかった。日由の体内に潜んでいる妖怪が顕現しようとしているのだ、と。
「やっぱ丁種以上になると、顕現の妖気に威力が乗るか……!」
だが晶は臆することなく、妖気をかき分けるように前へ出る。
「こうなっちまったら、もう出てくる妖怪を封印するしかねぇ! 水奈、下がっててくれよ!」
「本当にどうにもなりませんのっ? 顕現を遮ることは……」
「それができりゃあたしだってしてっけどな……顕現が始まったらもうできねーんだ! そういう風になってんだよ!」
「覆したい常識ですわね、それは……! わかりましたわ……どうかご無理なさらず!」
二人が言葉を交わした直後。遂に、日由の身体から妖怪が現れる。
それは、まさに蜘蛛だった。四対の脚は細長く、黄色と緑青色が縞模様となっている。腹部にもまた、鮮やかな紅色の縞模様。
だが何よりも、大きい。ただひたすらに、巨大であった。優に二メートルはあるだろうか。
(なるほど、これは妖怪ですわ……)
水奈はひきつる顔を隠せないまま、そんな感想を抱いた。
「おいおい、監視カメラで見たのより大きいじゃねーか……成長したのか……!?」
一方晶は、さすがにひるみはしない。脱皮のように悠然と姿を見せた蜘蛛に毒づいてみせると、更に一歩、二歩と前に出た。
彼女の視線の先で、今まさに魂を奪われた日由の身体が、黒い蜘蛛糸のようなものに包まれてくずおれる。
そうして、日由の小さな身体が完全に地に伏すのと、妖怪・女郎蜘蛛が音もなく着地するのは、同時だった。
「……憑依降臨!」
それを見るや否や、晶もまたかんなぎの力をほとばしらせて臨戦態勢を取る。
湧き上がった炎をまとい、火炎の竜巻を弾かせて現れた彼女の身体は、神を宿した姿に瞬時に変わっていた。握った拳から、炎が吹き上がる。
「……水奈、倒れた二人は任せる!」
決然とした表情のまま言うと、晶は返事も待たずに女郎蜘蛛に跳びかかった。
炎を帯びた彼女の拳が空を切る。女郎蜘蛛はその巨体に見合わぬ素早さで跳び上がると同時に、手ごろな位置の家に向けて糸を放って瞬時にその場から離れていた。
だが晶には、この一発目に敵を攻撃する意思はない。女郎蜘蛛が逃げたことを確認すると、倒れ込んだ日由の身体に白い火をまとわせる。
「ちょっとちょっと、かんなぎじゃない!? 何よ、噂じゃこっちにはもういないって話だったのに! 噂は当てになんないわね!」
それを見下ろしながら、恨めしそうに女郎蜘蛛が言う。甲高い女の声だ。
蜘蛛そのものの顔に表情らしい表情はなく、その心境は到底人間にはわからない。しかしその声音は、余裕があるような色ではなかった。実際そいつは、言った直後に糸を放ってこの場を離れていく。
「逃がすかよ!」
その背に向けて、晶が地面を蹴った。再び空の人となった彼女は、そのまま空中という地の利を生かして、女郎蜘蛛との距離を詰めていく。
そんな晶を見送りながら、水奈は任された二人を助けるためにとりあえず石燕と連絡を取る。
「……あれの直撃は受けたくないですわね……」
先ほどの顕現で放たれた妖気により、柱が歪んだ街灯たちを眺めながらつぶやく水奈。
顕現という行為自体が問題だと言うのに、その際に発生する妖気が周囲に物理的な被害をもたらすとなれば、危険の一言では済まない。妖怪とはどうやら、想像以上に厄介らしいと彼女は思った。
それから石燕に宛てたコール音を聞きながら、彼女はふと二人の被害者に目を向ける。
二人とも症状は重く、意識はない。放置すれば死は免れないだろう。
「……これが悪党妖怪の所業、ですか……」
血を吐いたまま意識が戻らない少年と、魂を抜かれた少女。あまりにも理不尽な仕打ちだと、水奈は思った。
だが彼女は、見せられた残酷な現実を前に、興味本位で首を突っ込んだことを後悔するよりも、義憤を覚える。
「おーい、水奈ー!」
不意に、上空から聞き覚えのある声が落ちてきた。
予想もしていなかった方向からの声に、水奈は思わず夜空を見上げる。コール音は相変わらず、耳元で続いている。
そこでは、某アニメ映画のバスみたいな姿の威黒が、空中を駆けてきているところであった。夜闇にまぎれたその姿はほとんど視認できなかったが、ヘッドライトよろしく瞳から光が放たれている。
そして本物のバスであれば昇降口に当たる位置には石燕がいて、スマホを持った手を振っていた。
「……石燕さん、それに威黒さん」
スマホを下ろしながら、水奈は降りてくる猫又バスを目で追う。
ある程度地面が近くなったところで、彼女の前に石燕が飛び降りてきた。その肩には、いつかとはまた異なるデザインのショルダーバッグ。
「最悪の事態になっちまいやがったから、威黒についてきたんだが……残念ながらまあこうなるわな」
着地した彼はいつになく真面目な顔で、被害者二人に目を向けながら言った。
そして、緊急を要すると判断したのだろう。即座にしゃがみこみながら、二人に対して応急処置を始めた。
「助かります、医療行為は私ほとんどわからなくて……」
「そうだな、スマホに入ってるマニュアルは妖怪関係のことだけだもんな。まあ任せておけよ、だから俺も来たんだ」
任せろと言うだけあって、石燕の処置は手早く的確で、まるで本職の医者のようであった。
水奈にとって意外だったのは、石燕が日由の処置を後回しにしたことだ。性癖が性癖だけに、彼女を優先すると思っていたのだが……。
「いくら俺でもそれくらいの分別はあるっての。魂を抜かれても数日は死なないから、この場合は少年が優先だ。トリアージは基本だよ」
水奈の心情を察したのか、単に普段から言われ慣れているのか。それは水奈にはわからなかった。
けれども石燕の言うことはもっともで、水奈は彼に対する評価を上げた。
「あちらは石燕はんに任せておけば大丈夫ですやろ。水奈はん、こっち手伝ってくれますか?」
「わかりましたわ。不慣れですが、精一杯努力します」
「ほな、早速道具出していただけますか? 行きがけに石燕はんから受け取ってますやろ?」
「これですわね? ……って、いつの間に!?」
水奈が預かっていたバッグから道具を取り出した時には、威黒の身体はいつぞやの人間の姿に変わっていた。
突然のことに思わず上ずった声が出たが、威黒は知らぬとばかりに水奈の手から道具を取ると、くるりと背を向けた。
「さ、始めますに。こういうのはスピード勝負ですよってな」
「あ……は、はい、わかりましたわ」
そうして日由の応急処置が始まった。
処置自体は基本威黒が行い、水奈はその補佐をする形になる。と同時に、わからない点や疑問点が出た時は、作業を邪魔しない範囲で質問し、メモを取る。
手元にはスマホを置き、処置の手順を確認しながらだ。その姿はさながら、研修医のようであった。
それがしばらく続き、二人の作業が一段落した頃合い。タブレット端末を操作しながら、石燕が改めて二人の後ろに立った。
「ようお疲れさん。こっちも今終わったところだ。まだ行けるよな?」
「もちろんですわ。次は何をすればよろしいですか?」
「次の仕事はな、結界を張ることだ」
「結界……確か、先日の山で威黒さんがやっていたことですか?」
「はいな。各所に鑚心釘を打ち込んで、敵さんの逃げ道を減らしていきます。丁種女郎蜘蛛ごときじゃ、この結界は絶対破れやしまへん。それは過去の様々なデータが証明しとりますわ」
「……なるほど、結界を利用して袋小路を作り、そこに追い詰めるのですね」
「中に閉じ込めるのが一番ですけどな。いやあそれにしても、水奈はんは説明が楽でええどすなあ」
威黒はそう言うと頷きながら、目を細めて微笑んだ。その姿は、いつの間にか猫の姿に戻っていた。
「この二人は俺に任せとけ。機関の医療施設はちょっと特殊だからな、他の雑務と一緒でいきなり水奈には任せられない」
「わかりましたわ」
「鑚心釘は合計三百本がそっちのバッグに入ってるから、適宜取り出して使用してくれ。……あ、でもこれは常に出しておいたほうがいいな」
水奈が頷くのをよそに、石燕は貸していたバッグから黒い直方体状のものを取り出した。
それを見て動きを止めた水奈だったが、差し出されたので思わず受け取る。
まじまじと眺めてみると、それは一見刀身のない剣の柄のようだった。上部には左右対称の位置取りと形状の突起物が二つ。
さらに握りの部分、ちょうど親指が当たるくらいの場所には、小さなスイッチらしきものもある……。
「え……あの、石燕さん? これ、スタンガンでは?」
「ザッツライ。これは対妖怪用スタンガン、雷公鞭だ。人間には弱い静電気程度にしか効かないが、妖怪への攻撃力は抜群って代物さ。小鬼程度なら即戦闘不能に追い込めるくらいには威力が出るから、女郎蜘蛛でも効くはずだ。護身用に持っておくといい」
言われて水奈は、なるほどと大きく頷いた。
「ありがとうございます。出番が来ないことを祈りますが」
「そりゃそうだ。……よし、それじゃあそっちは任せたぞ」
「了解ですわ」
「はいな、任しといてくんなはれ」
かくして、水奈は石燕とは別方向へと足を向けた。その隣に並んだ威黒の身体が、かすかな妖気と共に徐々に大きくなっていく。
「そしたら水奈はん、乗っておくれやす」
明らかに物理法則を無視した現象である。
本当に自在に身体が変えられるんだなと目を見張りながらも、水奈は彼の言葉に従いその背にまたがった。
彼の身体はとても暖かく、とてもしなやかだった。おまけに毛並も柔らかく、見た目よりも乗り心地がよく、一瞬緊張が緩みかける水奈。
しかしゆっくりと威黒の身体が宙に浮かぶのを見て、改めて気を引き締めた。
空を走る。そんな、普通ならばありえない状況に驚きと感動が水奈の心に去来するが、それは長くは続かなかった。住宅街の一角から、炎が上がったのだ。十中八九、晶が何かをしているはずである。
息つく間もない展開の連続に、水奈は思わず苦笑した。けれどもその表情とは裏腹に、彼女の瞳は今までになかった使命感で煌めいていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
戦闘開始。
石燕はやる時はやる男です。




