第8話 ようこそ、王城薬室へ
手を繋いで廊下を歩きながら、申し訳なさそうにマティアスが言った。
「今みんな一階の作業室に集まっているんだ。あー……先に言っておくけど、今日ちょっと大変な日で……でもいつもこんな訳ではないから、安心してね」
「大変……?」
怪訝な顔で問い返そうとした時、ちょうど目的の部屋に辿り着いたらしい。
「ここなんだけど……」
立ち止まったマティアスの前、大きな古い扉には、【作業室】と書いた板が架けられている。
だが彼はなぜか渋い顔をしたまま、扉を開けようとしない。
「あの……入らないの?」
「んー……できれば入りたくないなと思ってしまって」
「え?」
「まあ……見ればわかるんだけど……」
そう言って、マティアスが困ったような表情で扉を開けようとした時、中から、女性の叫び声と、ドサドサと大量に物が落ちたような大きな音がした。
続けて飛び交う会話が聞こえてくる。
「あ゛ー!! おい、何やってんだ、タニア!!」
「それはこっちの台詞よ! よそ見してたのはエドの方でしょ!?」
「はいはい、切り替えて切り替えて。怒っても仕方ないでしょう。グレアム君、そっちの方は大丈夫だった?」
「はい、コンラート室長。マルコの方は?」
「こっちも大丈夫。……でも、そろそろ彼が新しい子を連れて戻って来るんじゃない?」
「あーそれはまずい。はいはい、ちょっと皆! その辺だけでも片付けて」
止まらない話し声に、リリアベルは黙ったまま、目を丸くしてマティアスを見た。
マティアスは大きくため息を吐くと、嫌そうに言った。
「はあ……仕方がない。入ろうか」
広い部屋の中を見て、入り口に立つリリアベルは、目の前の光景に唖然とした。
右手の壁は、一面にたくさんの小さな引き出しが並び、どれもびっしりと小さな文字でメモが貼られている。
左には、大小様々な瓶がぎっしりと並ぶガラス扉の大きな棚が四つ。
正面奥の壁際には、広々とした流し台が三台と、机には使用後と思われる計量器や実験用の道具が洗って干されている。
大きな換気用の三つの窓は、今は全てきっちりと閉められ、風はない。
だが部屋の中には、魔法によって大量の薬草が浮遊し、それらが嵐のような速さで部屋の中をとびわ回っていた。
四台ある大きな作業机には、それぞれ山のように薬草や仕分用の紙、箱などが積まれ、各机に散らばるように、マスクと手袋をした白衣の男女が、合計五人いた。
「コンラート室長」
マティアスが声を掛けると、背中を向けていた恰幅の良い白髪の男性がビクリと肩を揺らし、こちらを振り向いた。
「わ!! 殿下、驚かさないで下さいよ。──やあ、よく来たね」
リリアベルに微笑んだのは、薬室長のコンラートだ。
白髪を後ろに撫つけた初老の男性で、金縁の丸眼鏡を掛けた人の良さそうな彼には、面接などで何度か会ったことがある。
見知った顔に会えたことで、リリアベルの緊張は幾分か和らいだ。
「はいはい、皆ちょっと手を止めて。注目ー!」
コンラートはマスクを外すと丸眼鏡を掛け直し、温和な笑顔でパンパンと両手を打った。
それを合図に皆が作業の手を止め、空中の薬草もゆっくりと近くの机に集まっていく。
全員の視線が、リリアベルに集中した。
リリアベルはごくりと喉を鳴らすと、できるだけ大きな声ではっきりと言った。
「今日からこちらに配属になりました、リリアベル・レニエです。精一杯頑張りますので、宜しくお願い致します」
その声と同時に飛び出してきたのは、一番近くの机にいた長身の、三十歳くらいの女性だった。
「きゃー! 待ってたのよ! こちらこそ宜しくね。私はタニアよ。女の子が増えて本当に嬉しい!」
マスクと手袋を脱ぎ捨て、駆け寄ってきたタニアは、物凄い勢いでリリアベルに抱きついた。
タニアはゆるく波打つ栗色のショートカットの毛先を揺らし、すっきりと出した額をリリアベルに寄せて、少し吊り気味の目を可愛らしく細めた。
リリアベルは歓迎されているらしい事はわかったが、突然の事に、目を白黒させる。
そこに、不機嫌そうな低い男性の声が降ってきた。
「おい、タニアやめろ。マティアスがめちゃくちゃ機嫌悪くなってるだろ」
ぐいと強い力が、リリアベルからタニアを引き剥がす。
目の前に立っていたのは、ボサボサの濃紺の髪に垂れ目、無精髭を生やし疲れた顔をした四十代くらいの男性だった。
「あら、本当ね。もーマティアス殿下ってば、相変わらず婚約者ちゃんの事になると心が狭いわよね」
マティアスに向かって不敬な発言を堂々とするタニアと、王子を呼び捨てにする男性に、リリアベルはギョッとした。
ちらと横に立つマティアスの顔を見るが、特段気にした様子はない。
「タニア、君は相変わらずはっきり言ってくるね」
にっこりと笑っているマティアスを見て、タニアが再び口を開こうとしたので、先程の男性がサッと顔を青くしてタニアを羽交締めにすると、後ろから彼女の口を手で塞いだ。
「バカ、ちょっと黙れタニア。火に油を注ぐな!」
もがもがと抗議しているタニアを押さえたまま、男性は面倒臭そうにげんなりした表情でリリアベルを見た。
「俺はエドモントだ。ここの副所長。呼ぶ時はエドでいい。君のことは──」
エドモントは、何故かそこでちらとマティアスを見た。
その視線を受け、マティアスは笑顔のまま言う。
「名前を呼んでもいいけど、略すのは駄目。愛称は不可」
エドモントは面倒臭そうにため息を吐いて、再びリリアベルを見た。
「ここでは、毎日うんざりする程、世界中の薬草の種類や、薬の名前や、効能や注意点なんかを覚えなくちゃいけない。各々が君をバラバラの呼び方で呼んでいたら、それも一々覚えなきゃいけなくなって脳みその無駄使いだ。ここでは全員が、呼び方を統一している。研究に身分なんて必要ないから、敬称もなし。面倒なら敬語もなしでいい。君の事は、リリアベルと呼ばせてもらう。いいな?」
「はい。宜しくお願いします」
リリアベルが頷いたのを受けて、エドモントは奥にいる男性二人に視線を向けた。
「あっちの髪が長い方がグレアムで、眠そうな奴がマルコだ。年齢では彼らが一番君に近い。困ったことがあれば相談するといい」
薄茶色の長髪を一つに編んだ、中性的な顔に眼鏡を掛けた若い男性と、机に頬杖をついている深緑の重めな髪の少年と目が合った。
「グレアムです。宜しく、リリアベル」
柔らかく挨拶するグレアムの横で、マルコは言葉の代わりに、あくびをしながらヒラヒラと手を振った。
エドモントはそれを見てまた溜め息を吐くと、リリアベルに尋ねた。
「早速で悪いんだが、君、すぐに荷物を置いて、部屋に支給されている白衣を着て戻って来てくれないか? 手が足りなくてどうにもならん」
「あの……これは何をしているところなんですか?」
リリアベルが尋ねると、エドモントの拘束から抜け出したタニアが答えた。
「騎士団の馬鹿が、明後日の遠征に持っていく薬の発注を間違えてたのよ! それを昨日の夜に知らせてきて、明日の昼には準備しろって言うのよ! 大量に! 無理! どうやっても無理!」
目を見開いてタニアは叫んだ。
見かねたコンラートが笑顔で止めに入る。
「はいはい、さっきも言ったでしょ。怒っても仕方ないから。さ、じゃあ君達は作業に戻って。マティアス殿下、彼女を部屋に案内して頂いても? 私もちょっと本気で作業しますから」
「構わないよ。今日は時間があるから、戻ったら私もまた続きを手伝うよ。──さ、行こうか、リリー」
リリアベルは頷いて、マティアスと一緒に部屋を出ようとすると、何かを思い出したにコンラートに制止された。
「あ、そうだ。ちょっと待って」
どうしたのかと彼を見ると、コンラートはにっこりと笑って、リリアベルに片手を差し出した。
「まだ言っていませんでしたね。──ようこそ、王城薬室へ。今日から君も、ここの一員だよ」
リリアベルはその手を見て、瞳を輝かせ胸いっぱいに息を吸い込む。
「はい! 宜しくお願いします!」
大きな声で返事をすると、リリアベルはコンラートの手を強く握り返し、にっこり笑って握手を交わした。




