第7話 新たな出発
記憶を思い出してから一年が経った、春。
無事に飛び級試験に合格し、学園を卒業したリリアベルは、真新しい研究員用の制服に身を包み、父ベルナールと共に城の回廊を歩いていた。
「はあ……緊張する」
新しい環境を前に、リリアベルの胸は不安と期待が混じり、ドキドキと高鳴っていた。
王城薬室研究員の制服として指定されているのは、白地に濃い緑の縁取りと金ボタンが眩しい上品なジャケットだけで、どんな服と合わせるかは自由だ。
リリアベルは淡いグレーのミモレ丈のワンピースと合わせ、髪は上半分だけを後ろへ編み込み、ハーフアップにして下ろした毛先は緩く巻いた。
華やかさも残しつつ印象良く見えるかと選んだ髪型だったが、黒髪が風に靡いてフワと揺れる度、自分の心もそわそわと揺らぎ緊張が増した。
思わず息を漏らしたリリアベルを見て、ベルナールは娘の成長した姿に目尻を下げた。
「大丈夫だよ、リリー。そんなに緊張しなくても。──ほら、そこを曲がって真っ直ぐ行けば、すぐ着く。難しい道じゃなかっただろう?」
ベルナールが指差した方を見れば、回廊の先に、緑に囲まれた開けた場所が見えた。
王城の敷地には、国の顔としてそびえる大きな宮殿の他に、騎士団本部棟、魔術塔、政務棟、管理棟などがあり、初めて訪れる者は案内課に頼らなければ目的地に辿り着けない。
「初日に遅れてはいけないからね」
そう言って、城に勤めるベルナールが、愛娘の初出仕の案内役を買って出てくれた。
王城薬室は、それらの建物の一番奥にある、複数の研究棟の中の一つ。
こんもりと茂った植物が覗く屋上が特徴の、第三号棟が割り当てられている。
石造りの高い壁には青々とした蔦が上へ上へと伸び絡まり、建物の横には、薬室所属の大きな温室と薬草園が広がる。
そしてさらに奥には、個人に割り当てられた小さな区画に、各々が自作の細やかな温室や畑を作っており、様々な植物や木々に囲まれている──そんな場所だった。
「それじゃあ、行っておいで」
「はい! 頑張ります」
リリアベルは優しく見送ってくれた父と別れ、言われた曲がり角を曲がる。
長く続いていた回廊は植物の蔓が絡まるアーチに変わり、連続するそれは、緑のトンネルのようになっていた。
アーチの隙間からは、広がる薬草園と大きなガラスの温室が見え、ワクワクとした高揚感で、リリアベルは無意識に歩みが速くなっていた。
その道も終わりを迎え、いよいよ目的地に辿り着くというその時。
リリアベルは、建物の目の前で思わず足を止めた。
研究棟の入り口。
金の蔓草の装飾がされた重厚な木の扉の横で、石壁に背をもたれさせ、マティアスが立っていたのだ。
「おはよう、リリー」
優しく目を細めた彼を、植えられた木々から差し込む光が照らし、銀の髪がキラキラと輝いた。
白いシャツの第一ボタンは外され、タイのない襟元は緩く開いている。
袖を捲り、上品で軽やかなベージュのスラックスに揃いのベストを合わせただけの、マティアスにしてはラフな着こなしが新鮮だった。
きっちりとした普段との差に、リリアベルは思わず見惚れてしまった。
マティアスは背を起こし、ほんのり頬を赤くして動かないリリアベルの前まで歩み寄ると、にっこりと微笑んだ。
「おめでとう。今日から薬室研究員だね。制服、凄く似合ってるよ」
マティアスはそのままリリアベルの髪を一房掬い取ると、彼女を見つめたまま、髪先にそっと口付けを落とした。
リリアベルはボッと顔を真っ赤に染め上げ、思わず目を伏せ、誤魔化すように早口で言った。
「あ、ありがとう。マティーにそう言って貰えて、凄く嬉しい。緊張が和らぐようにって思って、あなたの瞳の色のワンピースにしたの。一緒にいるみたいで……その、勇気が貰えたらって」
「……そう、なんだ。本当に、凄く似合ってる」
マティアスは短く答えながら、視線を下げたまま恥じらうリリアベルを見つめて、ぎりと奥ばを噛み締める。
リリアベルから突然いじらしい事を言われ、抱きしめて愛を叫びたい衝動に駆られたが、理性を総動員して何とか耐えた。
一年間、マティアスが根気強く言い続けた成果で、リリアベルは彼の事をマティアス様と呼ばなくなっていた。
分かれていたリリアベルの記憶と梨々香の記憶は馴染み、記憶を思い出す前の、ただのリリアベルだった頃の親密な口調に戻っていた。
「そういえば、どうしてマティーはここに? 学校は明日からなのよね?」
リリアベルは飛び級で卒業したが、マティアスはそのまま学園に在籍している。
シナリオ期間が無事に終わるまで学園内の様子を監視するためだったが、リリアベルの知るところではない。
尋ねられたマティアスは自身の首元に手をやり、シャツの中から細い金の鎖を引き出すと、その先に架けられた小さな丸い金のプレードを見せた。
そこには、王城薬室を表す印──絡まる蔓が円を描き、その中心に二本の薬瓶が交差している図が彫られていた。
「王城薬室の最終的な運営管理は、王族では私が担当しているんだよ。薬室長もよく知った仲だし。リリーの研究室の手配も手伝ったから、今日は私も一緒にここを案内したいな、と思って。先に中で挨拶したら、仕事を手伝わされてね。暑くて上着は置いてきたんだ」
「そうだったの? 初めて知ったわ」
リリアベルは目を丸くした。
驚きと同時に、彼女の心には僅かな焦りが広がる。
(それなら……マティアス様は、ここによくいらっしゃるって事よね?)
リリアベルは、マティアスを救うために、婚約を白紙にし、距離を置きたいのだ。
王城薬室が彼の管理下にあるならば、例え婚約者でなくなたったとしても、関わる機会が残ってしまう。
(ゲームのシナリオが始まるまで、あと一年しかないわ。それまでに、解毒薬を完成させて、ここを辞めて遠くへ行こう。できるだけ早く……マティアス様から離れなくちゃ)
ほんの少し、彼女の美しい赤い瞳に怯えが映ったのを、マティアスは見逃さなかった。
リリアベルが何を考えているのか、自分から離れようとしていることが手に取るように理解でき、マティアスの胸は締め付けられた。
だがマティアスは苦しさを無視して笑ってみせると、彼女にできるだけ優しく手を差し出した。
「……リリー。そんな顔しないで。大丈夫だよ。私は上手くやれてるはずだから」
「ふふ。マティーの仕事ぶりは、何も心配していないわ。ただ……ちょっと驚いただけ。マティーが手伝ってくれたのなら、きっと素敵な部屋になっているんでしょうね。楽しみ!」
リリアベルも、マティアスと離れなければならない事に心が痛んだが、それを隠し、そっと大きな彼の手を取った。
(あと一年……。あと一年経ったら、絶対に離れるから……だから、いいよね? 今だけは、優しさに甘えても。マティアス様に触れても。一年後には……この手を絶対に離すから)
リリアベルがそう思った瞬間、マティアスが彼女の小さな手を握る力が、グッと強くなる。
まるで、絶対に離さないとでも言うように、その手は熱かった。
手を繋いだまま扉を開けたマティアスは、リリアベルに振り返り、明るい声で言った。
「さあ、行こうか」
マティアスの顔は、後ろから差し込んだ強い光の影になり、リリアベルには見えなかった。
彼の強い力に誘われ、リリアベルは扉の中へと、一歩踏み出した。




