第5話 全ては君のために 1(マティアス視点)
「マティアス様! 私、早速これから試験勉強のために図書館へ行ってきますね!」
「うん、頑張ってね」
マティアスは部屋の中、扉の側に立ち、声を弾ませ出ていくリリアベルを、笑顔で見送った。
美しい黒髪が、僅かに甘い香りを残しながら、マティアスの目の前をさらりとすり抜けていく。
どんどん遠くなっていくリリアベルの後ろ姿が、角を曲がり見えなくなるまで、彼は微笑みを浮かべたまま、それを見つめていた。
やがてゆっくり扉を閉めると、マティアスは一歩も動けず、その場にしゃがみ込んだ。
「──はあ……きっついなー……」
蹲ったまま両手で顔を覆い、そのままこめかみの辺りまで手を滑らせると、グシャリと銀の髪を掴み頭を抱えた。
床を見つめるマティアスの目に、じわと涙が滲む。
思わず口を吐いて出た独り言が、マティアスの正直な気持ちだった。
「殿下」
マティアスの背後。
部屋の奥から、気遣うような低い声がした。
短く息を吐いたマティアスは、一度硬く目を閉じ、滲む涙をグッと押し戻すと、ゆっくりと立ち上がって声の方へ振り返った。
「……フーゴ。もう少し、傷心の主人をそっとしておいてくれてもいいんじゃない?」
マティアスは軽く肩を竦め、わざと明るく答えた。
視線の先にいたのは、マティアスより十歳程年上の、鍛えられた長身に短い青髪の精悍な騎士、フーゴだった。
部屋の奥にある従者用の続きの間から出てきたフーゴは、気遣うような表情のままマティアスを見た。
「……大丈夫ですか?」
そう尋ねられ、マティアスはグシャリと顔を歪めて苦しげに笑い、どさりとソファーに沈み込んだ。
「大丈夫な訳ない。リリーに、婚約を破棄したいって言われたんだよ? 正直、発狂しそうだった。彼女の口から他の女性を勧められるなんて……これ以上ない拷問だよ」
リリアベルの話を聞いている間、平静を取り繕っていたマティアスは、感情を隠すのに精一杯だった。
泣いて縋りそうになる自分を抑えるのに必死で、リリアベルの顔を見ることすらできなかったのだ。
フーゴは眉を顰めて言う。
「まだ、お気持ちを伝える事はできないのですか?」
「……私が生まれた時からの付き合いなんだから、フーゴはわかっているよね? まだ駄目だよ。今気持ちを伝えても、リリーは絶対に信じてくれない。私の気持ちなんて……彼女の負担になるだけだ」
「彼女の様子を見るに……あの話は、本当だったんですね」
「そうだよ。これまでやってきた仕事に意味があったって、やっとわかってくれた?」
辛そうに天井を見つめるマティアスに、フーゴは短く返事をした。
「……殿下が仰っていた通りになりましたね」
「そうだね。リリーの記憶が分かれたのは、正直想定外だったけど……まだ大丈夫だ。まだ、シナリオが始まるまで時間はある」
マティアスはふっと瞼を閉じ、リリアベルと初めて出会った時の事を、思い出していた。
彼──この国の第一王子マティアス・ドルトローザの一番古い記憶は、母の腹の中にいた頃のものだ。
心臓が鼓動し始めたその時から、マティアスの意識ははっきりとしていた。
何故か、自分が王子であるという事を理解しており、それと同時に、常に誰かを恋しく思う焦燥感が、彼の中に大きく渦巻いていた。
生まれてみれば魔力量が多く、凄まじい速さで成長したマティアスは、正妃に命を狙われながらも、自ら直感的に魔法でそれを防ぎ、生き延びていた。
だが攻防を続けるのも煩わしくなったマティアスは、王である父の言う通り、姿を変え隠れて暮らすことにした。
強力な隠匿の魔法を掛け、輝く銀の髪は茶色に染め、瞳は青色に、そして麗しい顔つきは、印象に残らない優しげで平凡な少年のそれに変えた。
北部の自然豊かな地で過ごしていたマティアスは平穏を手に入れたが、それでもやはり、心の中には常に穴が空いており、足りない部分を埋めてくれる誰かを、求めていた。
五歳になったマティアスは、暇を持て余し、フーゴを護衛に伴い森を散策していた。
そして、美しい湖の畔に足を踏み入れた──その時だった。
マティアスは思わず、全身からぶわりと魔力を溢れさせた。
彼の視線の先、湖の畔で太陽の日をキラキラと浴びながら、黒髪の可愛らしい少女が、夢中で水面を覗き込んでいたのだ。
その少女を瞳に捉えた瞬間、マティアスは全身の血が逆流する程熱くなるのを感じた。
彼女こそが、幼き日の──五歳のリリアベルだった。
「──あの子だ」
目を見開き、じっと彼女を見つめたまま、マティアスは呟いた。
マティアスは、一目見た瞬間に、何故かわかった。
自分がずっと求めていたのは、黒髪のあの子だと。
全身が感動に打ち震え、喉が張り付いて声が掠れる。
マティアスは思うより先に、彼女に向かって駆け出していた。
「ねえ、何してるの?」
震える声で恐る恐る話しかけると、黒髪の少女が顔を上げ、大きなガラス玉のように澄んだ赤い瞳が、マティアスを見た。
その瞳を見た瞬間、どうしてかマティアスは泣きそうになった。
自分でも理由がわからず、困惑したまま少女の答えを待つ。
少女は少しの間何かを考え、言った。
「私ね、お花を探しているの」
「お花? 水の中に?」
予想外の少女の言葉に、マティアスは目を丸くした。
「そうよ。……本当は秘密なんだけど、あなたはシナリオに関係なさそうだから、特別に教えてあげる。この世界にはね、お水の中に咲く、特別な透明のお花があるのよ」
「シナリオ……? そんな花、本当にあるの?」
訝しげなマティアスに、少女は真剣な顔で言った。
「あるわよ。ないと困るの。でも、この湖じゃなかったみたい」
「どうして困るの?」
「私ね……マティアス様の命を助けたいの」
「──え?」
マティアスは動揺した。
初めて会うはずの少女から、自分の名前が出て、しかも「助けたい」と言われるなんて、思いもしなかったのだ。
少女はマティアスの動揺に気づかず、そのまま話を続ける。
「マティアス様はね、この国の王子様で、私が考えたキャラクターなの。私の大好きな大好きな人で、でもこのままだと、毒で死んじゃうかもしれないの。だから特別なお花を集めて、マティアス様を助けるために、お薬を作るのよ」
「キャラクター? 君が作ったって、どういうこと?」
「ここはゲームの世界なのよ。マティアス王子は、リリアベルを愛しているの。でも、悪い大人のせいで引き裂かれて、マティアス様はヒロインを好きになって、リリアベルが悪役令嬢にされちゃったの。リリアベルもマティアス様が大好きなのに……酷すぎるよ。それでね、そのゲームのお話っていうのが──」
少女はそれからマティアスに、自分が考えたマティアスとリリアベルの話も、作り替えられたゲームの話も、事細かに話した。
王立学園にヒロインが転入すること。
マティアスが攻略対象の一人であること。
婚約者であるリリアベルが悪役令嬢になること。
五種類の花を集めること。
バッドエンドではマティアスが毒を飲むこと。
イベントの内容や、他の攻略対象のことも、そして──【愛の花と恋の毒】のシナリオさえなければ、本当は、幼い頃に出会ったマティアスとリリアベルこそが、お互いを心から愛し合うストーリーだったことも。
話を聞き終わった時、マティアスは泣いていた。
「本当に、泣きたくなる程、ひどいよね」
そう言った少女も、泣いていた。
「……君の名前を教えて」
涙を溢すマティアスに、少女は困ったように微笑んだ。
「私は、朝倉梨々香よ。でも今の名前は、リリアベルなの」
その瞬間、マティアスはこの出会いに心から感謝した。
(間違いない……僕がずっと求めていたのは、やっぱりこの子なんだ。僕を生み出し、僕の命を救おうとしている、僕の半身。それが……梨々香……リリアベルだったんだ)
マティアスは思った。
(彼女が話している内容が真実だと、僕にはわかる)
リリアベルは梨々香が作った、彼女の魂の欠片だ。
リリアベルも、梨々香も、そして彼女に生み出されたマティアスも、同じ魂からできている。
マティアスの魂が、彼の内で叫んでいた。
彼女だ、と。
彼女こそが、求めて止まなかった、自分の半身だと。
自分が生まれ、今日まで存在していたのは、目の前の彼女──リリーを愛するためだったのだと、マティアスは理解した。
(今なら、物語を変えられる。梨々香と……リリアベルと愛し合う物語に変えられる!)
マティアスは頬を伝う涙を、ぐいと拭った。
「リリー……君を悪役になんて絶対させない。シナリオなんて、僕が全部、壊してあげる」
強い炎を宿すマティアスの瞳が、青色からジワリと美しい灰色に変わる。
リリアベルは困惑を滲ませた。
「あなたは……?」
マティアスは涙を滲ませ、グシャリと顔を歪ませて笑った。
「僕は……マティーだよ」
そう答えた瞬間、マティアスはリリアベルに魔法を掛けた。
彼女の記憶を消す魔法を。
銀色の光がリリアベルの周りを漂い、その体に吸い込まれると、リリアベルはそのまま深い眠りに落ちた。
マティアスは眠るリリアベルを、そっと抱きしめた。
「……リリー。君は何も心配しなくていい。全部忘れて、ただ僕を愛してくれればいい。僕が全部引き受けるから。だから安心して。絶対に君を、救ってみせるから」
それが、マティアスとリリアベルの出会いだった。




