第4話 思わぬ提案
リリアベルが「話があるから会いたい」と魔法で飛ばした手紙には、すぐに返事が返ってきた。
学園での授業や王子としての勉強、王族としての公務もあるマティアスは、なかなかに忙しい。
一週間後くらいで少し時間を貰えればと思っていたリリアベルだったが、手紙を出した次の日の午後には、学園内の王族専用の自習室に呼び出されていた。
「それで、リリー。話っていうのは?」
白と深いグリーンを基調にした品のある室内。
マティアスは、ふかふかのソファに身を沈めるリリアベルの隣に腰掛けると、灰色の瞳で彼女の顔を覗き込みながら尋ねた。
続きを促すような優しげなその視線が、リリアベルは幼い頃から大好きだ。
婚約者として引き合わされた五歳の頃から、その表情は変わっていない。
(ああ……やっぱり好きだなあ)
リリアベルは泣きそうになるのをグッと堪え、平静を装ってマティアスに言った。
「マティアス様──突然の事で驚かれるでしょうけど……あなたとの婚約を、破棄させて欲しいんです」
その言葉に、マティアスは僅かに眉を歪ませ目を見開いた。
だがそれは一瞬の事で、その瞳はゆっくりと細められ、仄暗い影がよぎる。
彼を見つめていたリリアベルは、全身がゾクリと粟立った。
「──へえ?」
表情は確かに笑顔だ。
だがその声は、底冷えがする程に恐ろしい、リリアベルが初めて聞く低さだった。
リリアベルが思わずごくりと喉を鳴らすと、マティアスはふっと肩の力を抜いた。
彼が纏っていた不穏な空気はパッと霧散して、普段通りの柔和な笑顔に戻ると言った。
「マティー」
「え?」
リリアベルは何のことかわからず、咄嗟に聞き返していた。
微笑みを浮かべたままのマティアスが、さらに言葉を重ねる。
「昨日も言ったけど、マティアス様じゃない。マティーだよ。君には、そう呼ばれたい」
「あ……そ、うだったわ。ごめんなさい、マティー」
梨々香の記憶があるせいでまた間違えてしまったリリアベルは、動揺で瞳を揺らしてしまう。
マティアスはその様子を観察するようにじっと見つめると、自ら視線を外して長い足を組み直した。
「それで……婚約、破棄だっけ? ……どうして急にそんな話に?」
穏やかに尋ねられ、リリアベルはホッと小さく息を吐いた。
(マティアス様は、やっぱり冷静で優しい。破棄する利点を話せば、きっと理解して下さるわ。そうすれば、彼を救うことに一歩近付ける)
感情を波立たせる事もなく、まずは彼女の話を聞こうとしてくれているマティアスの様子に、リリアベルは安堵した。
「考えてみたんですが……私ではマティーの隣は相応しくないと思うんです。例えば公爵家の令嬢なら──」
リリアベルは必死に説明した。
いかに自分が婚約者に相応しくないか。
いかに他の令嬢との婚約の方が国のため、マティアスのためになるのかを。
リリアベルは、マティアスと距離をとるために、どうしても彼に、婚約破棄の提案に頷いてもうら必要があった。
それはもう丁寧に、言葉を重ね、真剣に、必死に説明した。
だから、リリアベルは気付かなかった。
普段なら必ず彼女の目を見て話を聞いてくれるマティアスが、膝の上で組む自分の手をじっと見つめたまま、一度もリリアベルに視線を向けていないという事に。
一通り説明を終えたリリアベルに、マティアスは言った。
「……話は、それで終わり?」
「は……はい」
マティアスが何と答えるのか、リリアベルは緊張で顔を強張らせた。
「リリーが言いたいことは、わかった」
ゆっくりと顔を向けた彼の灰色の瞳と、視線がぶつかる。
マティアスは、ふわりと申し訳なさそうに微笑み、眉を下げた。
「でも、婚約破棄には、頷いてあげられない」
「え? どうしてですか!?」
驚くリリアベルをじっと見つめて、マティアスは丁寧に説明してくれた。
「まず……リリーは自分を過小評価しすぎだよ。君は学園での成績も優秀だし、友人も多くて周囲から慕われている。すでに王太子妃になる勉強も大体終わっているし、私との付き合いも長いよね」
リリアベルは、マティアスの隣に相応しくあれるように、今までずっと努力を続けてきた。
学園での成績はマティアスが常に一位だが、リリアベルも常に五位以内には入っている。
もともと温和な性格のリリアベルは、周囲との人間関係も良好だった。
「リリーが名前を挙げた令嬢達は、確かに突出した強みは持っているよ。でも、それだけだ。学業の成績や、性格や、派閥や、何かしらに問題があってはいけないんだ。総合的なバランスが凄く大事なんだよ」
リリアベルは思わず睫毛を伏せた。
確かに、どの令嬢にも思う所があり、リリアベルのようなバランスの良いタイプの令嬢は、すでに婚約者がいる者も多かった。
「それに、王命でレニエ侯爵家と婚約を結んだのは、君の家が中立派だというのも大きいんだ。第一王子派と第二王子派の争いが激しかった時期があるのは、知っているよね? どちらの派閥から婚約者を選び直しても、勢力図がまた大きく変わってしまう。中立派の中で、私と年が近くて、婚約者が決まっていない令嬢はいる?」
「……いません」
「だよね。だから、君の希望だとしても、婚約破棄に頷くことはできない」
優しく諭すように言われ、リリアベルは肩を落とし、美しい赤い瞳には、ジワリと涙が浮かんだ。
(マティアス様の言う通りだ……でも、婚約者のままじゃ、彼を守れない……)
目を伏せギュッと手を握り込んだリリアベルを、マティアスは苦しげな表情で見つめたが、さっと笑顔を貼り付けると言った。
「……リリー、そんな顔をしないで。私はリリーが隣にいてくれれば心強いけど……君がそんなに婚約を白紙にしたいなら、いい方法があるよ」
その言葉に、リリアベルはパッと顔を上げた。
「いい方法?」
「そう。学園を辞めるのはどうかな」
「学園を……辞める?」
真面目なリリアベルには、思いもしない提案だった。
マティアスは続けた。
「王立学園には、飛び級制度があるよね? 今が第四学年だから、最終学年の第六学年までの内容全てを勉強するのは少し大変だけど、今年の秋の飛び級試験までは半年もある。その試験で合格して、卒業認定を受けて学園を辞めるんだ。辞めるというか……卒業だね。君なら、できるだろう?」
リリアベルが通う王立学園は、十三歳から十八歳まで六年間通うのが一般的だ。
だが、成績優秀者には特例があり、特別試験を受け合格すれば、飛び級ができ、さらには先に卒業することもできる。
王太子妃教育の内容で、語学や歴史はかなり先まで勉強が終わっている。
確かに、試験勉強期間が半年あれば、卒業認定を受けることは何とかできるだろう。
「でも、どうしてそれがいい方法なのですか?」
「王命を覆すには、君が婚約者に相応しくないと、対外的に証明しなくちゃいけない。王族と、その婚約者である準王族は、学園在籍中に生徒会を運営して、実績を作る必要がある。国を引っ張っていく資質があるのかを試す、言わば試験だね。君は飛び級で卒業することによって、それを放棄するんだ」
「……国を率いる意志がないと、アピールするということですか?」
「そういう事。まあ、そんな事しなくても、わざと試験の手を抜いて成績を落としたり、問題を起こして人間関係を悪くする事も手ではあるけど……リリーはそんな事、したくないでしょう?」
マティアスに微笑まれ、リリアベルは大きく頷いた。
シナリオから離れるため、学園に行かず引き籠る事も考えた。
だがそうなれば、家族にも心配を掛けてしまうため、その案は無しにしていたのだ。
マティアスの提案は、リリアベルの学歴にも評判にも傷をつけず、シナリオの舞台である学園からも離れることができ、婚約破棄の材料にもなるという、とても良いものに聞こえた。
「それに、飛び級で卒業した者には、希望する仕事に就けるよう学園から推薦書が貰える。王城薬室に欠員が出ているから、そこに研究員として入るのはどうかな」
「王城薬室ですか?」
王城薬室は、超難関の研究部署で、その名の通り、薬──主に薬草の研究を行っている。
なかなかの変わり者が揃う部署だと、もっぱらの噂だった。
「リリー、植物好きだよね? 王城薬室に所属すれば、卒業した後もやる事ができるし、王太子妃にならないなら、そのまま働けばいい。それで、研究を理由に──そうだな、三年くらい社交の場にも一切出ないでくれ。そこまですれば、婚約を白紙にする提案を、父にもしやすいと思うよ」
マティアスの提案に、リリアベルの心は弾んだ。
卒業すれば、シナリオの舞台である学園からも離れる事ができる。
そうすれば、マティアスとも自然と距離ができ、婚約も白紙にできるかもしれない。
しかも、マティアスが勧めてくれたのは王城薬室。
薬草の専門家が揃い、実験器具や薬草園もある。
提案通りにすれば、社交の場にも出ず研究に時間を使えるなんて、最高としか言いようがない。
リリアベルには、願ってもない話だった。
(王城薬室の研究員になれば、解毒薬も早く完成させられるかもしれない……!)
希望を見出したリリアベルは、涙を浮かべマティアスの手をギュッと握ると、まるで花が咲くように微笑んだ。
「本当にいい方法ですね! 何て素敵な提案なの! マティアス様、私、頑張ります! マティアス様のために、婚約を白紙にできるよう頑張ります!」
声を弾ませるリリアベルは、気づかない。
マティアスが胸の痛みを抑えるため、貼り付けた笑顔の裏で、ぎりと奥歯を噛み締めていた事に。
苦しみを隠した灰色の瞳を細め、マティアスは言った。
「君が喜んでくれて嬉しいよ。君の幸せのために……私も頑張るからね」
次回、マティアスの思惑が明らかに……。




