第3話 父の心労(ベルナール視点)
「リリアベル……お前まさか、わかっていないのか?」
そう言って、ベルナールは頭を抱えた。
リリアベルとマティアスは、お互いが五歳の時に婚約を結んだ。
王命という建前ではあったが、ベルナールは知っている。
この婚約は、マティアス自身が望み王に頼んだという事を。
「婚約……!? リリアベルと……マティアス殿下をですか!?」
当時のベルナールには、唐突の婚約申し入れは、まさに寝耳に水だった。
王家には第一王子マティアスと、二歳年下のディートリヒ、二人の王子がいる。
事実がそれだけならば、何も問題はなかった。
だが、第一王子マティアスは、王の寵愛を受ける側妃の子どもで、第二王子ディートリヒは正妃の子どもだった。
王位継承権を巡って、貴族の派閥争いは苛烈を極めた。
特に第二王子派の貴族達は、正妃の忠実な僕であり、彼らはマティアスが生まれてからというもの、何度も何度も彼の殺害を企てていた。
国王はマティアスの身を守るため、魔法で彼の姿を変え、隠した。
正妃は躍起になってマティアスを探したが、彼を見つけることはできなかった。
そしてマティアスが五歳を迎えた時、何故か突然、彼は魔法を解き、王城に戻った。
「一体どうすれば……」
王から婚約の打診を受けた後、ベルナールは何とかして断ることがでいないか考え込んでいた。
レニエ侯爵家は中立派だ。
資金力がずば抜けている訳でも、軍備に特化している訳でもない。
婚約を結んだとしても、マティアスには何の旨味もない筈だった。
(このまま婚約を結べば、リリアベルも危険な目に合うに決まっている。何としても断りたい……)
だが、そんな心を見透かすように、ベルナールを呼び出した幼いマティアスは言った。
「煩い虫達は始末しておいたから、安心するといい。レニエ侯爵に迷惑が掛かることは、もうない筈だから。私の言うことに確信を持てたら、どうか婚約に頷いて欲しい」
にこりと笑ったその瞳は、有無を言わさぬ絶対的な支配者のそれだった。
その後、すぐに政局は大きく変わった。
正妃は病で表舞台から姿を消し、第二王子派の中でも特に苛烈だった複数の家門は、不正の露見や事業の悪化で、次々と潰れて行った。
第一王子派のと中立派が政局の中心となり、レニエ家は潰れた家門と入れ替わるように台頭し、ベルナールは大臣職に任命された。
再びベルナールを呼び出したマティアスは、優雅にお茶を飲みながら微笑んだ。
「どうかな? まだ頷くには足りない?」
ベルナールはゾッとした。
一連の出来事は、全て目の前の幼いベルナールの謀略で起きた事だと、瞬時に理解した。
普通であれば、五歳のマティアスにそんな事を思う筈はない。
だが、目の前の彼は姿こそ子どもだが、纏う空気とその中身は、完成した王そのものだった。
(彼の機嫌を損ねてはいけない……慎重に発言しなければ)
ベルナールはごくりと喉を鳴らし、言葉を絞り出した。
「……いいえ。ご厚意に感謝申し上げます。これ以上は……この身には過分かと」
マティアスは「そう」と短く返事をすると、満足そうに頷いた。
ベルナールは早く彼の前から退散したかったが、父として、これだけはどうしても確認せねばと己を叱咤し、口を開いた。
「殿下……なぜ、リリアベルなのでしょうか」
マティアスはベルナールの目をじっと見つめた。
「理解して貰えないだろうから、詳しくは話せないけれど、リリアベルは私の全てであり、半身であり、生きる意味そのものなんだ。私は絶対に、彼女との未来が欲しい」
なぜそれ程までにリリアベルを求めているのか、ベルナールにはわからなかったが、嘘偽りのない灰色の瞳に、頷くしかできなかった。
「……わかりました。婚約を受け入れます。娘を、宜しくお願い致します」
その言葉に、マティアスは心底嬉しそうに目を細めた。
だがそれはほんの一瞬で、その笑顔はすぐに掻き消えた。
「レニエ侯爵。くれぐれもお願いしたいのだけど、私の気持ちは決してリリアベルに話さないで欲しい。この婚約は、王命で結ばれた──そういうことにしておいてくれ。私自ら彼女を望んだとは、絶対に言ってはいけないよ」
仄暗い灰色の瞳を思い出しながら、ベルナールは目の前に座るリリアベルを見つめた。
(リリーは……本当にわかっていないのか)
ベルナールは約束通り、マティアスの気持ちも、婚約の経緯も、リリアベルはもちろん、誰にも伝えたことはない。
だが、マティアスの様子を見ていれば、彼がリリアベルを異常な程に愛していることは一目瞭然だ。
彼の意に背けばどうなるか、邪魔者がどうなるかは、すでに全ての家が知っている。
だからこそ、中立派であるレニエ家の娘が婚約者であっても、第一王子派や残った第二王子派の貴族達から横槍が入ることもなかった。
なのに、目の前の娘といえば、マティアスの想いに気付いてもおらず、さらには婚約を破棄し、彼に別の令嬢を勧めようとさえしている。
ベルナールは悩んだ末、問題をマティアスに丸投げすることにした。
「リリアベル……父から婚約破棄を申し出ることはできない」
そんな事をすれば、ベルナールは邪魔者として認定され、無事では済まないことがわかっているからだ。
「だが、お前がどうしても、と言うなら……まずは自分で、殿下に相談してみなさい」
少なくとも、今日まで二人の関係は上手くいっていたはずだ。
娘の突然の心境の変化は理解が追いつかなかったし、マティアスの気持ちを下手に伝えて彼の不興も買いたくない。
「お前が自分で相談して、殿下がどうお答えになったか、父に教えてくれ。私はそれに従うから」
これから、可愛い娘が婚約破棄を言い出し、他の令嬢をマティアスに勧めた時、自分は──そしてリリアベルはどうなってしまうのか。
それを想像するだけで、ベルナールの胃はキリキリと痛んだ。
項垂れるしかない父に、リリアベルは「わかりました」と返事をする。
大きなため息を吐きながら肩を落とし、ベルナールはリリアベルの部屋を後にした。




