第13話 花を狙う獣
「早く話が終わってよかったね」
学園の廊下を歩きながら、リリアベルの隣でマティアスが言った。
ニコニコと上機嫌の彼を横目で見ながら、リリアベルは苦笑してしまう。
「マティーったら……。あんな笑顔で王子がずっと部屋にいたら、誰でも萎縮するわよ」
学園長室にリリアベルを送り届けたマティアスは、てっきりそこでお別れだと思っていたリリアベルの予想に反し、まるで彼女の保護者かのように隣に座ると、特に口を挟む訳でもなく、ただただ終始笑顔で話を聞いていた。
だが、マティアスは王族であり、この国の第一王子だ。
彼の無言の笑顔には華やかさと同時に、得体の知れない圧があり、生粋の貴族であればある程、その笑顔の裏の言葉を慮ってしまう。
案の定、裏を読みすぎて萎縮した可哀想な学園長は、冷や汗をかきながら笑顔を貼り付け、早々にリリアベルを解放したのだった。
「いいんだよ。リリーは知らないかも知れないけど、学生以外と話す時の学園長の話は本当に長いんだ。向こうが勝手に切り上げてくれるなら、それに越したことはないよ」
「そんな事言って、マティーは自分の用事に私を付き合わせたかっただけなんだから。結局早くは帰れないんじゃない」
リリアベルはまだ彼と一緒に過ごせる事が嬉しかったが、それを隠すため、まるで駄々を捏ねる子どもを見るように、マティアスに向かってわざと眉を下げてみせた。
学園長室を出てすぐ、マティアスは帰ろうとしたリリアベルを引き止め言ったのだ。
「まだ帰らないで欲しいんだ。ついて来て欲しい所があって」
「ついて来て欲しい所?」
「うん、一緒に森へ行って欲しいんだ」
王立学園の東側には、広大な森が広がっている。
野生の動物や魔獣も生息しているが、学園の敷地内ということもあってしっかりと管理され、動物達は森からは出られないように結界も張られている。
学生達も自由に入れる訳ではなく、薬草学や生物学、魔法訓練の演習などでしか入ることはない。
リリアベルも授業でしか入った事はなく、森の奥に咲く幻の薔薇ガーシャロを探し出すことはできていなかった。
マティアスは困ったように言った。
「次の魔法演習のために、森の中を確認しておきたくて。この前、入学してすぐの演習で一年生が迷って怪我をしてしまったから、次に向けて問題がないか一緒に見て欲しいんだ。女生徒の演習は道順が違うから、協力してくれると助かるんだけど」
王立学園の運営は国──つまりは王族が担っている。
森の管理は教師達が行なっているが、迷って怪我をした生徒がいる以上、マティアスは自分の目でも確認をしたいと言う。
真面目なマティアスらしい、とリリアベルはついて行く事を快諾した。
「演習用の服装じゃないし、危ないから」
森の入り口で、隣に立つマティアスにそう言って手を差し出され、リリアベルは納得し彼にエスコートしてもらいながら歩く事にした。
王城薬室からそのまま転移してきたリリアベルは、白衣と研究員のジャケットは着ていない。
大きなリボンが首を飾る白いブラウスに、すっきりとしたシルエットで落ち着いたワインレッドの裾が長めのワンピース。それから少しヒールの高いショートブーツを合わせていた。
「確かに、一角兎でも飛び出してきたら、この靴じゃ驚いて転びそうね」
リリアベルは笑いながら、エスコートを受け入れ自分の手を重ねる。
だがマティアスは彼女の手が触れる瞬間、差し出していた手を僅かに開き、そのまま彼女の指にするりと自分の指を絡めギュッと握ると、繋がれたままの手を引き下ろし、リリアベルを自分の方へグッと引き寄せた。
「きゃあ!」
突然のことでバランスを崩したリリアベルは、マティアスの胸に優しく抱き止められた。
爽やかなレモングラスの香りが、ふわりと彼女を包む。
一瞬で顔に熱が集まり固まるリリアベルの耳元で、マティアスの優しい声が囁いた。
「急に転んでも、こんなふうに私が支えるから、大丈夫だよ」
甘く、だが揶揄うような声音が耳に響き、リリアベルの心臓がドッと鳴った。
(ドキドキしちゃ駄目!! マティアス様と結ばれる未来なんてない! これ以上好きになんてなっちゃ駄目!)
リリアベルは自分に言い聞かせるように、心の中で必死に叫んだ。
彼に抱き止められた事への喜びと、この温もりから離れなければいけない未来への苦痛とで、リリアベルの心はぐちゃぐちゃになった。
騒ぐ心を落ち着かせるため、硬く目を閉じ深呼吸をする。
ジワリと涙を滲ませながらも、恋心を隠すため、リリアベルはキッとマティアスを睨みつけた。
「もう! びっくりするじゃない。ふざけないでよ、マティー」
まだ赤い顔のまま瞳を潤ませたリリアベルに叱られ、マティアスは嬉しそうににっこりと笑った。
睨んで見せてはいるが、彼女の表情は、どう見てもマティアスを好きだと言っている。
それを確認できた事で、マティアスの心は喜びで一杯だったが、リリアベルに彼の胸中を察する余裕などなかった。
「ごめん、ごめん。でも危ないのは本当だから、このまま手を繋いで行こうね」
そう言われ、リリアベルは熱の引かない頬を隠すように俯くと、手を繋いだままマティアスと森の中へ入った。
女生徒用の演習の道順もしっかり把握しているようで、マティアスは迷うこともなくどんどんと森の奥へと進んで行く。
(魔法演習の道を進むってことは、もしかしたら、ガーシャロを見つけられるかも)
そんな打算もあったリリアベルだが、彼女には気になっていた事があった。
(でも……タニアが、ガーシャロは『運命で結ばれた男女』が一緒に探さないと見つからないと言っていたわ。マティアス様と私では、森に入っても見つけられないのかしら……。ヒロインと一緒だったから、見つけられた花だったとしたら……?)
もしそうなら、リリアベルはガーシャロを手に入れるため、ヒロインとマティアスが二人で花を見つける所について行かなくてはならなくなる。
だがそれでは、シナリオと同じ未来を進んでしまう。
(もしそうなら、解毒薬を作る事自体をやめて、今すぐに隣国へでも逃げて、マティアス様から離れる……?)
どうしようかと考え込み、深く沈み始めていたリリアベルの意識は、マティアスの声で呼び戻された。
「──ねえ、リリー……あれ見て」
声を掛けるのと同時に、マティアスがピタリと足を止める。
「──え?」
意識を浮上させ顔を上げたリリアベルは、目の前の光景に目を見張った。
森の木々が並ぶ中。
道順から外れた少し先には、背の高い草に隠れるように、少し開けた空間が広がり、そこに光が差し込んでいるのが見える。
そこだけがキラキラと煌めいているが、それは単に日差しのせいではない。
「あれは──!」
リリアベルは繋いだままのマティアスの手を引っ張り、そのままそこへ駆け出した。
「リリー、待って!」
突然走り出した彼女にマティアスは声を掛けたが、リリアベルの耳には全く届いていない。
無心で草をかき分けて茂みを抜け、開けた空間に立ったリリアベルは震えた。
呆然と目を見開き、柔らかな草を踏み締め、円形になった小さな場所の中央へと、吸い寄せられるようにふらりと進む。
そして、ピタリと足を止めたリリアベルは、中央に生えていた、自分の腰ほどの高さの植物の前で呟いた。
「……ガーシャロだわ」
ぽっかりと開いた空間の真ん中に生えていたのは、初めて目にする植物──黄金の葉を太陽に反射させて輝く、真っ赤な花弁が重なる大輪の薔薇、ガーシャロだった。
リリアベルはマティアスとその前に並び、恐る恐る、その葉に触れようとした。
──その時。
「危ない!!」
マティアスが叫び、リリアベルを隠すように、グッと自身の方へ引き寄せ抱き込んだ。
それと同時に何かが空中で爆発したような破裂音が響く。
突然、殺気だったマティアスの胸に抱き寄せられ、守るように肩を抱かれたリリアベルは、困惑と驚きのまま、彼の視線の先を見た。
マティアスはリリアベルを片手で抱きしめたまま、ガーシャロとは反対側──自分達が来た道の方を射抜くようにじっと見据えている。
マティアスの目の前には、二人を守るように銀に輝く半透明の防御魔法の盾が大きく広がっており、その一部がジジジと音を立てて揺らいでいることから、彼が何かの攻撃を咄嗟に防いでくれた事が理解できた。
ざっと急に風が吹き、木々がざわざわと揺れる。
その風に乗って、微かに《《木を燃やしたような苦い香り》》がした。
暫くの静寂の後。
緊張状態の二人がじっと見据える視線の先、十五メートル程離れた所にある大きな木の影から、《《それ》》は現れた。
「──角鹿だ」
視線を外す事なく、マティアスが焦りを滲ませ呟いた。
ホーンディアは、馬よりも大きな体を持ち、鹿とは言えど、太い足と何股にも分かれた鋭く固い角を持つ魔獣だ。
学園の森に僅かに生息している大型の魔獣だが、非常に温厚で害はない。
臆病な性格のため、普段は人の前に姿を現すことも滅多にないのだ。
だが、目の前に現れたホーンディアは、低く嘶きながら角を二人に向け、その瞳は瞳孔が完全に開いている。
明らかに怒りに包まれ臨戦体勢になっており、リリアベルは思わずマティアスの腕の中、ギュッと彼の服を握り締め、強張る体を寄せた。
マティアスはゆっくりと近寄ってくるホーンディアを瞳に映したまま、リリアベルを抱く腕の力を強める。
マティアスはゴクリと喉を鳴らし、攻撃魔法を発動するため、空いている方の手に魔力を集めた。
魔法陣の構築が完成し、僅かに陣が光った瞬間、目の前のホーンディアが地響きのするような咆哮を上げながら、二人に向かって大きく跳躍した。
リリアベルは全身から血の気が引いた。
飛び上がったホーンディアの後ろ──影になっていた場所からもう一頭、さらに大きな角を持つホーンディアが姿を現し、リリアベルと目が合った。




