第1話 思い出した記憶
「最悪だわ」
美しい調度品に囲まれた、午後の柔らかい光が差し込む、侯爵邸の応接室。
侯爵令嬢リリアベルは、甘い香りを漂わせる、淹れたばかりの紅茶を呆然と眺めながら、思わずそう呟いていた。
琥珀色に透き通った紅茶に映っているは、さらりとした長い黒髪に、長いまつ毛に縁取られた大きな赤い瞳が印象的な美少女。
誰もが見惚れてしまうような、十六歳の若き社交界の華、リリアベル・レニエだった。
「どうしたの?」
低く穏やかな声に、リリアベルはハッとして停止していた思考を何とか元に戻した。
声の主は、正面で優雅に長い足を組んで座る第一王子、マティアスだった。
美しい銀髪が窓から入る日差しで煌めき、優しげな灰色の瞳がじっと彼女を見つめていた。
リリアベルは動揺を悟られないよう、サッと笑顔を作ってみせる。
「何でもありません、マティアス様」
完璧な笑顔を作った筈だった。
だが、マティアスはすっと目を細めると、笑顔のまま不機嫌さを滲ませた声で言った。
「ねえ、リリー。何故マティアス様だなんて呼ぶの? 婚約してから今日までずっと、私のことはマティーって呼んでいるのに」
リリアベルは微笑みを浮かべたまま、その服の下にはドッと冷や汗が吹き出した。
(ああああああ、どうしよう、どうしよう、間違えた! 何て答えるのが正解なの!? 記憶がぐちゃぐちゃで、頭が回らない!)
側から見れば、微笑みあう美しい二人は、仲睦まじい理想の男女だろう。
実際、つい先程まではリリアベル自身も、自分達のことをそう思っていた。
だが、リリアベルは突然気付いたのだ。
自分が、リリアベルではない記憶を持っていると言う事に。
ここが乙女ゲームの物語の中で、自分がゲームの登場人物である、悪役令嬢リリアベル・レニエに転生してしまっているという事に。
困惑しながらも、リリアベルは何とかマティアスに言葉を返そうとした。
だがその時、マティアスが紅茶のカップに手を伸ばしたのを見て、リリアベルは全身から血の気が引いた。
(──駄目!!)
そう思った瞬間、リリアベルはガタンと大きく机を揺らし、勢い良く立ち上がっていた。
紅茶は波のようにその水面を揺らし、僅かにカップから溢れた。
マティアスはカップに伸ばしかけていた手を下ろし、心配気にリリアベルを見上げた。
「リリー、大丈夫?」
「あ……あの……」
真っ青な顔で瞳を揺らしながら、震える声を何とか絞り出す。
「なんだか、気分が優れなくて……ごめんなさい」
「そのようだね。気付かなくてごめん。今日はもう帰るよ。見送りはいいから、ゆっくり休んで。次は城の庭でも散歩しよう」
マティアスはリリアベルを気遣いつつ、優しく微笑んで応接室を後にした。
残されたリリアベルは、どさりとソファに崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「……どうして、よりにもよって、リリアベルなの?」
リリアベルは、美しい顔を歪ませた。
リリアベルは、自分ではない、もう一つの記憶を思い出していた。
それはリリアベルになる前──朝倉梨々香として生きていた頃の記憶だった。
断片的にしか思い出せないが、この世界がゲームの世界であることははっきりわかった。
何故なら、リリアベルとマティアスは、梨々香が生み出したキャラクターだったからだ。
ゲーム会社に入社して数年。
初めて企画やデザインを任せて貰えた梨々香は、幼い頃から二人が愛し合う純愛のシナリオを何日もかけて考え抜き、上司に案を提出した。
「あの案、採用されたよ」
そう言われて梨々香は喜んだが、蓋を開けてみれば、採用されたのはデザインだけで、マティアスと愛し合う筈のリリアベルは、悪役令嬢にされていた。
ゲームのタイトルは『愛の花と恋の毒』。
十八歳の最終学年時に、王立学園に転入してきたヒロインが、第一王子マティアスや、他の登場人物達と恋をしながら、成長していく王道恋愛ゲームだった。
ヒロインが誰のルートを選んでも、リリアベルがマティアスと結ばれることはない。
だが梨々香を一番傷つけたのは、第一王子マティアスのシナリオだった。
第一王子ルートを選ぶと、婚約者であるリリアベルが嫉妬に狂い、悪役令嬢としてヒロインの邪魔をしてくる。
ハッピーエンドなら、ヒロインとマティアスは結ばれ、リリアベルは隣国の貴族と結婚していなくなる。
バッドエンドなら、嫉妬に狂った悪役令嬢はマティアスに毒を盛り、マティアスは死亡。リリアベルはその罪で処刑されてしまうのだ。
「なんで……なんで私のリリアベルとマティアスが……」
梨々香は泣いた。
梨々香の両親は幼馴染同士で結婚したが、父は梨々香が幼い頃に事故で亡くなってしまった。
母は父のことが大好きで、数年前に病気で亡くなるまで、毎日のように父の話をしていた。
梨々香はそんな両親の事が大好きだった。
父と母のような、幼い頃から愛し合うキャラクターを作りたくて、そしていつまでも幸せに暮らして欲しくて、一生懸命に生み出したのが、リリアベルとマティアスだったのだ。
それからの梨々香は、どうやって暮らしていたのか思い出せない。
ただ悲しみの中、ある日、眠るように意識が薄れていった事しかわからなかった。
リリアベルは重たい頭を何とか動かし考えた。
(これが夢とは思えない。だって、リリアベルとして生きてきた記憶も、確かに私の中にあるもの。きっと、私はあのまま死んで、転生してリリアベルとして生きていたって事よね?)
目の前のテーブルには、冷めた紅茶のカップが二つ。
恐る恐る自分のカップを手に取り、口に近付けた。
キャラメルのような甘い香りが、ふわりと鼻に届く。
コクリとほんの少しだけ口に含んでみたが、何も起こらない。
リリアベルは思わず安堵のため息を吐いた。
「よかった……毒じゃなかった」
彼女が前世の記憶を思い出し、ゲームの世界にいると気付いたきっかけは、この紅茶の甘い香りだった。
マティアスとのお茶会中、新しく淹れられた紅茶の香りを嗅いだ瞬間、バッドエンドのシーンで、リリアベルが言い放つセリフが脳裏によぎった。
『マティアスに毒を飲ませたのは私よ。私が作ったの。マティーが大好きな、キャラメルの香りがする毒をね』
その言葉と共に、苦しみ倒れるゲームの中のマティアスの顔が、目の前にいたマティアスと重なり、キャラメルの香りがする紅茶を飲もうとした彼を、リリアベルは咄嗟に止めていた。
「……どうすればいいの?」
リリアベルはじわりと涙を滲ませ俯くと、ドレスをギュッと握った。
ゲームのシナリオが始まるのは二年後。
ヒロインがマティアスを攻略対象に選ぶかは、まだわからない。
ハッピーエンドを迎えるのか、バッドエンドを迎えるのかも不明だ。
だが、ヒロインがマティアスを選ばなかったとしても、リリアベルとマティアスが結ばれるシナリオは存在しない。
リリアベルの胸は軋んだ。
「ずっと……ずっと好きだったのに」
呟きと共に、涙がぽたりとこぼれ落ちた。
リリアベルと梨々香。
二人の記憶が混ざってしまった今、それがどちらの感情なのかは、もはやわからない。
だが、リリアベルとして幼い頃に婚約してから今日までの間も、梨々香としてマティアスを生み出してから死ぬまでの間も、マティアスの事が心の底から大好きだった。
張り裂けそうな胸の痛みと同時に、リリアベルは恐怖に襲われた。
(もし……もしバッドエンドになって、私がシナリオ通りにマティアスに毒を飲ませてしまったら……?)
想像しただけで、震えが止まらない。
だがそれは、処刑される未来への恐怖ではなかった。
自分が死にたくないという気持ちより、マティアスを殺してしまうかもしれないという恐怖の方が、何倍も強かった。
どれだけシナリオを避けようとしても、万が一ゲームの強制力が働いてしまえば、どうしようもない。
例え、自分と結ばれる未来がないとしても、マティアスを死なせたくない。
彼を助けたい。
バッドエンドは、絶対に回避したい。
それが、混乱した頭で何とかリリアベルの掲げた、これからの目標だった。
そして彼女は閃いた。
「そうだわ。解毒薬を作ればいいのよ!!」
リリアベルは涙を拭うと、すぐに行動を起こすべく、勢いよく立ち上がった。
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