変わる心
新しい家に馴染むのには時間が必要だった。
2階建ての家の2階の奥の部屋。そこが私の部屋で、私だけの部屋をもらってもなにをすればいのかわからない。それに、リビングで座っているだけなのに、落ち着かない。
気を使ってくれているのか、子供向け番組が映し出されていて、小さな子供達がワイワイ走り回っている。
もう、私は小学2年生。さすがにここまで小さい子達が見るようなテレビは見ないんだけど……。
ジッとしていても落ち着かないので、お、お母さんの隣に向かう。
お料理をしているのを見ているのが好き。だって、今日は何を作ってくれるのだろうって、わくわくしちゃうから。
「桜花も一緒にお料理する?」
ふんふんっと縦に振り、お古のエプロンを着せてくれたけど、さすがに大きい。
んー。指を顎に当てて、私の不格好な着こなしを眺める。
お母さんはとても行動が早い。
パチンっとお鍋の火を止め、手を洗う。
パタパタとスリッパの音。
手提げかばんを手に取り、今度は私の手を取る。
「さぁ、桜花に似合うエプロンを買いにいきましょうか」
「うん!」
笑えるのが嬉しくて、笑い合えるのは幸せ。
お母さんが教えてくれたおまじない。
狭い廊下を2人並んで歩くには肩と肩が触れ合うほど寄り添合わないといけない。私とお母さんだと肩と腰になってしまうけれど、それはそれで構わない。だって、優しい暖かい存在であるお母さんがいるから。
真新しい靴を履いて、夕暮れ色に染まる世界へ飛び出す。それは輝くダイヤモンドよりも美しくって、遊園地のメリーゴーランドよりも楽しくって……。
お父さんと抱き合ったのは、この家に来てから三ヶ月後。おトイレに行きたくなって、ベッドから這い出た夜のこと。
お母さんもお父さんも知っている私の病気。
体は健康でも心は病気。そう、男性恐怖症。
病院に行って診察を受けたわけでもないし、カウンセリングを受けたわけでもない。
2人が私を気遣ってくれているだけ。
小学校では自分から気をつけないとダメなのは、仕方のないこと。
時間はわからないけど、お父さんとお母さんがなにかお話をしていた。聞き耳を立てるつもりはなかったのだけど、お父さんの声が少し涙声になっているのを聞いて、聞き取りやすい場所で、立ち止まった。
「あの子しか助けられなかった」
ここからでは2人の様子を盗み見ることはできない。
あの子……とは、私の事だと思う。
助けられなかったっていうのはどういう意味なんだろう。
「あの子だけでも助けることができた。と、考えるべきよ」
お母さんは慰めるようなトーンで言う。
なのに、お父さんはすすり泣く。
壁に背中を預けて、静かに2人の会話を聞き入る。
「有栖川はどうしてこんなことをしてまで金を欲する! ただ幸せに生きていたいだけなのに」
「あの人は命よりもお金。お金と名声と地位はいくらあっても損はないと思っている。私達と価値観が違うのよ」
「そうであっても……」
「あなたは正義の味方でもなければスーパーマンでもないの。出来ることに限りはあるわ。誰もあなたを責めたりしない。もし、誰かが偽善だと言うのであれば、私が否定してあげる。やらぬ偽善よりやる偽善。そうでしょ?」
私は偽善でここに居させてもらっているのか。そうだよね。なんの取り柄もない私が……。
この家に来てからずっと考えていた。
どうして私はここにいるのか。いられるのか。
悲観的な答えしか出てこなかったから、おのずとおとなしく過ごすことしか出来ない。甘えたりするのが迷惑だと思われたくなかった。顔色を伺って、2人に迷惑を掛けないように生活する。それが、今の私に出来る、唯一の事だと思ったから。
「偽善なんかであの子を、僕達の娘にしたわけじゃない。その言い方は桜花に悪い」
「よかった。そう言ってくれて」
「当たり前だよ。僕は桜花が大好きだ。抱きしめてあげれないのは悲しいけれど、僕ではどうにもできない。時間が癒してくれるのを待つしかできない! それがまた悔しいんだ……」
私は2人の前に飛び出した。
「私もお……お……おと……」
なかなか言葉が出てこない。
代わりに出てきたのは涙だった。
あれだけ嫌なことをされても出てこなかった涙が、今になって溢れてきて、私の言葉を遮ってくる。
ゴシゴシ涙を拭くけど止まらない。
だけど、きちっと言わないといけないのに……。
「無理しなくていいんだよ。ゆっくりでいい」
そう言ってくれるけど、今じゃないとダメ。だって、私は2人の娘なんだからっ!
「お父さんが大好き!」
お父さんの胸に飛び込んだ。
寒気がして、鳥肌も立ってくるのがわかる。だけど、私は逃げない。お父さんは私が大好きと言ってくれた。私のために、いつも距離を開けて歩いてくれて、寂しい思いをしていた。このままの関係では、家族なんて言えない。体が震えてきた。吐き気もする。おぞましい過去がフラッシュバックしてくる。けど! 私は逃げない。ここで逃げたくない! お父さんから逃げたくない!!
「あり。ありが……とう。お父さん」
優しく背中を包み込むように抱きしめてくれた。それが、絵本で見た天使が自分の翼で大切な人を包み込むシーンと似ていて、愛されることって、こんなに暖かいんだって実感した。
お母さんも暖かいけれど、お父さんはもっと暖かった。
「辛い思いをさせてごめん。馬鹿な大人達ばかりでごめん。そして、ありがとう……」
今度はお母さんが私の背中から抱きしめてくれる。
「あなたは花園桜花。花園紅葉の娘であって、花園和馬の娘。紙切れ1枚で家族になれないわ。だから、いっぱいお話しましょう。いっぱい楽しみましょう。いっぱい悲しみましょう。いっぱい……思い出をつくりましょう」
私は目一杯に顔を縦に振る。
お父さんの匂いがして、これがお父さんの匂いなんだと体に教え込む。
私の手では、やっと背中の肩甲骨を触れるぐらい大きいのがお父さんの体。
ありがとうお父さん。お母さん。私は2人の娘になれて嬉しい。
初めて、生きていてよかったと思えた瞬間だった。
それから、私達は絵に描いたような家族を築き上げた。
お父さんの仕事が休みの日は、みんなで出かけたり、家でのんびり過ごしたり。運動会や発表会には絶対にカメラを持ってきては、誰よりも良い写真を撮ろうと、ジャングルジムに脚立を置こうとして、先生に止められているのを見て
「桜花ちゃんのお父さんって面白いね」
なんて、お友達に言われて恥ずかしかった。けど、嬉しくもあった。だから
「うん! 最高に面白いお父さんだよ」
って、自慢した。
お母さんは恥ずかしそうにしていて、顔を真赤にしていたけど、やっぱり嬉しそう。
この時はどうしてかわからなかったけど、中学生になって、2人の生い立ちを聞くことがあって、お父さんとお母さんの苦労を知ることになった。
中学3年の冬。
もうすぐクリスマス。部活動も引退して、私達は受験という、初めて自分の人生を決める選択を強いられる。 どこの高校にいこうか。どの科を受けるか。など、決めなくてはいけない。
友達と図書館で勉強をしてから帰るのが日課になっていた。もちろん、私は商業科。お父さんの経営している会社に入って、お父さんのお手伝いをしたい。そうすれば、毎日、忙しくしているお父さんが、少しでもお休みが取れるかもしれないから。そしたら、またお出かけ……できないけど、一緒に居られる時間が増えるのは純粋に嬉しい。
「桜花は商業だっけ。なんか夢あっていいね」
「お父さんの会社を手伝うんでしょ。そういうのもいいけど、自分の未来の事も考えなよ」
いつも3人で勉強していて、2人とは小学校からの友人でもある。みんな進路は違い、高校は3人共、別々になることが決まっている。
2人は普通科に行くのは決定。ただ、別々の学校に進学を考えている。
「お父さんを少しでも楽させてあげたいから、自分は後回しだね」
なんか桜花っぽいね。
そう言って2人が笑い出す。それに釣られて私も笑う。高校生になったらお互い、別の友人が出来たりとかで疎遠になってしまうのかも。そう思うと悲しくなってくる。
「お姉ちゃん」
赤いランドセルを背負った女の子が目の前に現れた。
友達の妹。小学校3年生だったと思う。
「こんな時間にあぶないでしょ」
コツンと軽くデコピンをすると、テヘヘっと可愛らしく笑う。
姉妹……。もし、お父さんとお母さんの間に子供が出来たら、こんなに可愛い子が出来るのかな?
素直で元気な子がいいな。
なんて、お母さんは持病があって、体に負担をかけることはできない。だからスポーツもダメだし、あまり外に出歩くのもダメ。だけど、お買い物だけはお母さんが行くのが決まり。
お母さんが譲らなかったみたいで、無理な日は私だったり、お父さんが帰りに買ってきたりとフォローは必ずするようにしている。
「今日、おばあちゃんの家に行くから、こっちなんだ」
それじゃあね。
姉妹揃って、手を繋ぐ。
いいなぁ。
私も妹か弟が欲しいなぁ。なんて無理な考え。もしかしたら初めてかもしれない。夕食はなにが食べたい。とかは言ったことはあるけど、なにかが欲しいと思ったことがなかった。
「そんなに良いってもんでもないよ。私の家は弟だけど生意気なだけだもん」
「でも、妹も弟もいないから憧れちゃうよ」
一緒にお風呂に入ったり、髪を乾かしてあげたり、枕を抱えてやってたりしたら、もだえ苦しむに違いない。
男の子だったら……そうだなぁ。
ご飯を作ってあげたり、食べさせてあげたりしたい。
そんな話をしながら帰宅すると、お母さんがリビングで椅子に座りながら雑誌を読んでいた。
「おかえりなさい」
笑顔でお出迎えしてくれるお母さんに
「ただいま」
って、笑顔を返す。
鞄を部屋の隅に置いて、手を洗う。
「どんな雑誌見てるの?」
いつも私が見ているファッションとかだったら、パラパラ流し読みで終わるのに、今日はなんだか見入っていたように思う。
お母さんは隠す様子もなく、クリスマスの特集だと教えてくれた。
私がここに来た時からサンタクロースは信じておらず、お父さんがなんだかガックシと肩を落としていた。でも、私が眠っているのにプレゼントを置いて、なにが嬉しいんだろう。
それだったら、直接渡してくれたほうが嬉しい。
「桜花ぐらいの年頃だと、どんなのが欲しいのかなって」
手を洗い終えて、お母さんの背中から雑誌を見てみる。
ブランドモノの財布がやっぱり人気で、意外なモノで言えば、大好きな人の苗字……。
答えた人が幸せが続いていること願うばかり。
「桜花はなにか欲しいモノはある?」
そう言われて、冗談混じりに私は「妹が欲しい」と言ってしまった。本気にしていなかったし、お父さんが許すはずもない。
お母さんはキョトンっとした目で私を見てくる。
「今日ね、友達の妹が友達を迎えにきてね、可愛いなぁって思ったんだ」
さっきの出来事を話すと納得したように
「桜花の隣の部屋が空いてるものね」
と呟いたのを私は忘れたことがない。
どうして、こんなこと言ってしまったのだろうか。そうでなければ、お母さんはもう少し長く生きていけたのに。
2年後、お母さんは楓を産み、瑞希が家にやってきた。
無事に出産は終えたけれど、お母さんはみるみるうちに衰弱していく。それでも5年という歳月を生きることができたのは、私にとっても、嬉しいことだった。なのに、この出来事がキッカケで楓との関係が悪化していく。
必死になって帰ってきたら、お母さんはすでに灰と化していて、妹は私達を赤の他人のような視線を向けてくる。
泣くこともせず、ただ1人、お母さんの遺影に向かって、正座をしている。
この10日間で妹は豹変した。私達がこの子の。楓の心を閉ざしてしまった。正座なんてしたこともなかったし、1人でいるのが怖いとまで言っていた。お母さんのように、いつも笑っていて、覚えたての言葉を楽しそうに喋っていたというのに。
「かえ」
「おまえたちをわたしはゆるさない」
私の妹の口から出てきた言葉とは思えなかった。
それ以上、私はなにも言えないでいた。なんて言葉をかければいいのかわからないから。
涙が溢れてきた。それと一緒に憎しみも溢れてきた。
私の気持ちを気遣って、隣にいたお父さんが私の肩に手を置き、抱き寄せてくれる。
お父さんの匂いが鼻を介入して染みこんでいく。
無邪気に泣く私を見下ろしているのか、豹変してしまった娘を見ているのかはわからないけれど、落ち着いた声が頭の上から聞こえてきて、こう言った。
「楓、明日から此花女学院に入学してもらうよ。嫌だと言っても行ってもらう。用意は瑞希がしてくれている。楽しい学院生活になるといいね」
お父さんは私の顔を見ると微笑んでくれて、少しだけ胸の中から溢れていたモノが弱まった気がする。
それでも私は有栖川を許さない。あらゆる手段を用いてでも。私の人生を差し出してでも、有栖川を潰してみせよう。




