追憶B
特に気の利いた音楽がかかっているわけでもなく、テレビが搭載されてもいない。
ムードもヘッタクレもないけれど、ラジオを流すことにした。
アイドルと進行役の男性がケラケラ笑いながら談笑している。
こちらは無言だというのに。
また彼女は無言になってしまい。座っている位置が後ろから隣に変わっているから、盗み見ることが容易になったのは、僕にとっては嬉しい。
さて、限られた時間の中で、僕は彼女、紅葉を殺してあげないといけない。
物理的にではなく、ね。
彼女が閉ざしてしまった感情を復活させてあげること。
簡単に言えば喜怒哀楽を取り戻すこと。
頭の中では簡単だけど、女生とあまり付き合ったりしたことがなく、大学のサークルで知り合った子。高校の時に後輩の子と。たったそれだけなので、女の子の趣味趣向がまったく掴めない。
殺してみせると大見得を切っておきながら、このざまでは。
無難に湖でボートでもどうだろう。
さすがにここからでは時間が足りない。
ゲームセンターは大きな音がするので体に差し支えるだろう。そうなるとカラオケもダメ。
ダメダメ過ぎる。
このまま走り続けても埒が明かない。
同じ所をグルグル回り、やっと僕は目的地を決めることが出来た。
ここからなら10分ほどで行けるので、時間的にも申し分ない。
左折しかしていなかったが、今度は右折。そして左折。と、軽快にコーナーを曲がっていく。
不慣れな車だけど、なんだか思い通りに曲がってくれるから、自然と楽しくなっていく。やはり高級車は作りが違う。
心地よさに予定よりも早く着きそうだ。
高層ビル群から離れれば、2階建ての小さな家々ばかりになり、都内とは思えない。
そんなところが好きだったりもする。
「さぁ着きました」
なんの変哲もない公園。
車から降りた紅葉はいつもの無言というよりも唖然呆然と言ったほうが的確なほどの驚きようだ。
僕は手を掴み、少し駆け足ぎみに進む。
「まずはブランコだ」
そう言って、紅葉を小学生ぐらいの子が座れる程度の椅子型のブランコに座らせる。
これのなにが楽しいの? って疑問だろう。けれど、僕は背もたれに足を乗せ、振り子のようにブランコに勢いをつけた。
大きく揺れるブランコ。
前へ進んだと思ったら、後ろに戻って、後ろに戻ったら前に進む。
どんどん振り幅が大きくなっていくに連れて「きゃっ」とか「ふきゅ」と言った声が聞こえてきて、僕は笑ってしまった。
顔を覗くと彼女の顔に笑顔があった。
嬉しい。そう思うよりも愛おしい。そう思えてしまう。
恋とは時間が育むモノだと思っていた。だから、一目惚れなどんて都市伝説のような曖昧なモノだと……。
だからだろうか。
出会ってまだ1時間しか経っていないというのに僕は
「逃げないか」
紅葉にそう言っていた。
笑っているのに、瞳からは涙が溢れだしていて、残された時間を飼い猫のように決められた場所から出られないんじゃ悲しすぎる。
猫は言語を喋れない。だから、それが苦痛かどうかはわからない。しかし、紅葉は自分の思いを伝えられる。動物でもなければぬいぐるみでもない。
「無理よ」
「それはどうして?」
ブランコは推進力を無くし、大きな揺れは次第に小さくなっていく。
「有栖川から逃げられない」
「僕は無理という言葉が嫌いだ。やってみないとわからない。それが僕の人生を潰そうとも構わない。僕は紅葉。幸せにしたい。その代わり、君の幸せを僕にほしい。幸せというのは、僕だけが幸せにしても感じても意味がないんだ。同じ幸せを分かち合えないと意味が無い。大好きだ。死ぬほど、死んでもいいほど大好きだ。だから、逃げよう」
ブランコから飛び降りて、紅葉の前へと移動する。
そして、手を差し出す。
ここからは紅葉が決めることだ。
今日出会った男に逃げようと言われて、はい。そうですか。なんて行けるほど、切羽も詰まっていないだろうし。
それでも、僕の手を握ってくれたら全力で逃げよう。
右手が動き、躊躇しながらも、紅葉の手は僕の手を握ってくれた。
「ありがとう。さぁ行こう」
すぐにブランコから引っ張り上げ、車に戻る。
やると決めたからには覚悟は必要だ。そのためにとある場所へと向かった。
この近くにあるから、車で3分ほどの距離にある建物の中に入っていく。
平日のお昼時とあって人が少ない。
僕達は手を握りながら、受付へと向かう。
「すみません。婚姻届が欲しいんだけど」
そういうと「おめでとうございます」とにこやかに受付の女性が婚姻届を渡してくれて、記入する欄は後ろの机に貼り付けていると教えてくれた。
胸ポケットからコンビニで売られている安物のノック式ボールペンを取り出して、記入していく。
僕が終われば、紅葉の番。
女の子らしい字を書くのかと思えば、結構な達筆で迷いなく書き上げた。
僕よりも早く、潔さが垣間見れた瞬間。
もっと知りたい。知っていきたい。そんな気持ちが沸き上がってくる。
書き終わった紙切れを受付に返せば……。
「これで僕達は結婚をした」
「そうね。後悔」
「しないし、させない。これからどうしようか」
もう会社には戻れないな。
車を置いて、どこに行こう。
アパートも今月で解約して、金は大学時代に少しばかり貯金をしていたから数ヶ月はどうにかなるが、先のことを考えると心許ない。
いきなり恋人というステップをすっ飛ばして出来た妻。
なんの心構えもないという恐怖が今になって襲ってきた。
それでも、彼女を。紅葉を手放す気はさらさらない。
ふと、僕の腕を掴まれた。
女性特有の柔らかな肌触り。とても爽やかな香り。そして、世界最高の微笑みが僕の隣にある。
なにを恐れることがあるの?
そう言ってきているように思えて、僕も笑顔で答えた。
ポケットから携帯電話を取り出して、電話をかける。
「はい。水沢商事です」
いつものおばちゃんが電話に出る。
「あ、営業部の花園です。言伝をお願いしたいんですけど」
会社の辞め方なんて知らない。
退職願なんて書く時間もなければ、渡す時間もない。
僕はすぐに会社を辞めます。そう言うと、何を言い出すのかと言ってきたけど、すぐに電話を切った。
次に友人に電話を入れる。
部屋の荷物を全部捨ててくれ。
いきなりのことになにがあった? っと聞いてきたけど、迷惑は掛けられないから「ちょっとヘマを踏んだ」とだけいい、任せることにした。
これでいい。携帯電話をへし折って、ゴミ箱に捨てていく。
「さて、どっちにいこうか。東・西・南・北があるけど」
「寒いのは苦手。でも暑いのも苦手」
「だったらどっちにも行けないじゃないか」
わがままなお姫様だ。
「どっちにも行かないのもいいかもしれないわ」
「君がそう言うならそうしよう。でも、裕福な生活は出来ないよ。六畳一間のワンルームが僕には精一杯だ」
「それでいい。冷たい壁ばかりはもう懲り懲り」
クスクスっと笑う紅葉の背中に手を回し
「それじゃあ行こうか」
「えぇ」
これから暑くなる季節。
前代未聞。
衝撃的な恋をした僕達には、一般の人には想像を絶する苦労が待ち受けていたのは言うまでもないこと。




