もう1度、あなたの名前を呼んでいいですか?
真っ暗な世界が広がっている。
目を開けているか閉じているのかもわからない。
それに、地面の上に立っている感覚がしない。
ただ思考は正常に機能している。
死後の世界はどうなっているんだろう。
未だに、解明させることのない死後の世界に、今、私は存在している。
1歩、前に進んでみる。
しっかりとした地面が存在しているかのような、確かな感触が伝わってきた。
もしかしたら、死後の世界ではなく、光の届かない場所に連れてこられた可能性も考えられる。
なにせ、花園楓から命を奪われそうになった身。
拉致されても、不思議ではない。
「ここはどこなんだろう」
ちょっとした違和感はあるにしろ、歩けるのは好都合。
どっちが東なのか、西なのかもわからない中で、ただ真っ直ぐに歩いてみた。
だけど、いくら進んでも周りの景色は一向に変わることがなく、漆黒の闇に覆われたまま、なにも変わらない。
視線の先に光が溢れだしている場所もない。
砂漠の真ん中で遭難したかのような、疲労感がこみ上げてくる。
それでも、前を向いて歩いて行く。
代わり映えしない景色は、普段の2倍以上の疲労感が襲ってくる。
「まだ、君は歩くのかい」
どこからか、まだ幼さの残る声で問いかけてくる。
歩みを止め、辺りを見回してみるけど誰もいない。
「君は死にたいんだろう? だったら、僕が君を地獄に送ってあげるよ」
また、どこかから問いかけてくる。
暗闇を見回したところで、なにかが見えるはずもない。
「そうか。僕の姿が見えないのか」
今更、気がつくとか幼稚園児よりも知能レベルは低いと思う。
「僕はここにいるよ」
真っ暗な視界の片隅で、人のような輪郭が浮かび上がってくる。
小学校低学年ぐらいの容姿をしているのに、尻尾のようなモノがニョキっと、お尻の辺りから生えていた。
だけど、Tシャツにジーパンはさすがにラフ過ぎる気もするけど……。
「私になにがしたいのですか?」
悪魔と自負する……悪魔というのは、どうなのかと疑問だけど、気にするだけ無駄なのかもしれない。
「僕は君の魂が欲しいだけだよ。ただ、悪魔にも掟があってさ、そう簡単に君の魂を、僕の物にできないのさ」
悪魔は残念そうにため息をつく。
「掟は掟さ、それを済ませてしまえば、君の魂は僕の物になるんだ。早く進めてしまおう」
喜怒哀楽の切り替えが早い悪魔。
それに付き合わされる私には、拒否権は存在しないらしく、悪魔はそそくさと説明をしていく。
「今から、君に選定をしてもらうよ」
パチンっと指を鳴らすと、闇の中から無数の腕がニョキニョキと生えてくる。
上、右、左、下。
どこを見ても、人間の腕だけが生を受けているかのように蠢いている。
「君には大切な人の腕を選定してもうらうよ」
悪魔の話はこうだった。
無数の腕は地獄に落ちた者達の腕。その中に私に携わる腕を選定し、その腕を握れば、生か死かを導き出される。
「君は死に憧れていたよね。とてもおいしい味がすると思うんだ! さぁ早く選定してくれないか」
口の端からヨダレが溢れ、私を視姦するかのように、瞼は大きく開かれた。
「ここまでになったら、体型なんて関係ないのね」
変態は容姿関係なく、年齢も関係はない。
犯罪者も同様だと思う。
見た目が太っていて、メガネを掛けて、部屋に美少女ポスターがあれば犯罪者予備軍だ! なんて、ただの偏見に過ぎない。
イケメンと呼ばれる人間だって、犯罪を起こす人間は起こすのだ。
目の前の悪魔の子が証明している。
あ……。悪魔だから犯罪者というのは間違いなのか。
とりあえず、私はなにをするにも現状を打破するしかないので、周りの腕を見ていく。
血が垂れ流れている手。
小指がない手。
幼い手。
シワシワの手。
綺麗な指輪が嵌められている手。
色々な手が、我を選べと言わんばかりに蠢いている。
「なにを戸惑っているんだい? わざと違う手を握れば、すぐにでも死ねるんだよ?」
悪魔の言う通りだ。
死ぬのであれば、どれでも好きな手を握れば済む。だけど、なぜか私の気持ちは許さない。
生と死の間の世界にも、気持ちは存在するようで、現実世界ではないかという錯覚を覚える。
「人間には死に様と言うのがあるんです」
武士道は持っていないけど、無様な死だけはしたくない。
1つずつ見ていくけど、どれも見覚えがなく、ここにある手は他人の手しかなかった。
「ここに、君の探している大切な手がないんだったら進めばいいよ。その代わり、後戻りは出来ないから気をつけてね」
悪魔の忠告通り、私が前に進むと、私より後ろの手がスゥっと消えていった。
「いいね! いいね! 大抵の人間はさ、もっと慎重になるんだけど、君は違うね。見ていて清々しいよ」
それが作戦なのか。
悪魔は私の動揺を誘っている。
「あなたの思う壺にはなりませんよ」
私はどうしてここまでがんばっているのか。
ちさとさんに言われたから?
目の前に広がる無数の手を見ながら、これでもない。あれでもない。と、ハズレしか出てこない。
そして、また1歩、進んでは同じようにハズレしか見当たらない。
「君はどうしたいのさ」
死にたい。気持ちはそっちに向いているのに、どうしても死にきれない自分がいて……。
『ゆきな。おれはずっとそばにいていいよね』
小学校の頃、学校で緊急搬送されたときに、刹那が自転車で急いでやってきて、私に言った言葉。
『今度は、お前が刹那を支えてやれるようにしてやるからな』
手術の前に門脇先生が言った言葉。
『叶わない願いでもいいじゃん。周りから批判されてもいいじゃん。それが力に変わるならがんばってみよ』
偽装結婚まで強要されて、親友を奪われたちさとさんが言った言葉。
「恋人同士は名前で呼び合うの」
「なにを言っているんだい?」
「あなたには名前がありますか?」
「僕は悪魔だよ? 名前なんてあるわけないじゃないか」
「だったら、わからないです。死にたいのに生きようと藻掻く矛盾を」
私の中で何かが吹っ切れて、進むスピードが上がっていく。
だって、見ていなくてもわかるもの。
太陽のように心地よい体温。
私よりも少しだけ大きな掌。
ワンカラットのダイヤモンドにも負けない輝きを持っている、刹那の手を忘れるわけがない。
時間の経過を示す物がないのは、この世界に時間軸が存在しないから。
だからと言って、無限に時間は存在していないから。
「悪魔さんに質問していいですか?」
退屈そうに足を組んで「なんでも質問していいよー」と、私を見ている。
「この手は地獄からの手。そうなんですよね」
うんうん。と頷く。
そうか。これだけ進んでも刹那の手が出てこないわけだ。
それに、死霊の手とあらば、年代問わず無数に出てくるに違いない。
縄文時代。いや、それ以前の年代の手が出てくる可能性もあるのか。
私は進むのを止めた。
これ以上、無駄な時間は過ごせない。
この世界は時間軸が存在しなくても、あっちの世界の肉体は時間を経過していく。だから
「この中には、私の求める手は存在しない」
悪魔は笑みを浮かべながら言う。
「本当にそれが答えかい?」
「えぇ。だって、刹那は生きている」
私が戻ってくるのを待っているはず。
「そうか……君には失望したよ」
それじゃぁね。
悪魔は私に手を振った。
それも、満面の笑みを浮かべて。
足場の闇にヒビが入り砕け散った。
下へ。下へと落ちていく。
捕まる物がないかと探してみるけど、なにもなかった。
ただ、重力に導かれるかのような落下に、目を閉じるしかできない。
刹那……ごめんなさい。
わがままばっかり言って。
迷惑ばかりかけて。
そして、またわがままを聞いてもらうために、あなたのいる世界へ戻るからね……。
1番最初に聴覚が反応した。
ピィ……。ピィ……。
規則正しい電子音が聞こえる。
そして、次は視覚が戻ってきた。
真っ白の世界しか存在していない視覚。だけど、それは私がどれだけ長い間、眠っていたのかを示しているに違いない。
「幸菜っ!」
懐かしい匂い。
ポプリの匂いとは違う。少し汗の匂いがして、ほのかに香水の匂いもする人が近くにいる。
手を伸ばして探してみようにも、体の自由が利かない。
ジワジワ、視界が戻ってきて、私の顔を覗きこむ人影が見える。
女性? 髪の毛のシルエットからして門脇先生じゃないかと予想した。
目に物凄い光を浴びて「眩しい」と、声をあげた。
「もう1度、言えるか?」
聞き返してくるほどのか細い声だった。
もう1度、言い返そうにも、声が出てこない。
ただ、規則正しい電子音は継続して聞こえてくる。
声を出せっ! と、指令を出しても、それを体が反応してくれない。
完全に壊れて、動かなくなったロボットになった気分。
「幸菜……よかった……」
掌が暖かい。
聞き慣れた声の正体はにぃさん。
私の初恋の相手で、今でも恋をし続けている人。
「大好き!?」なんて、死んでも言えないけど、言わなきゃいけない言葉はある。
「にぃさん」
視界も完全に戻って、目の前で先生が耳を傾けている。
私の言葉を聞いて、先生がにぃさんを手招きして呼んでくれた。
「どうしたの?」
横からにぃさんの顔が飛び出してきて、瞳に涙を溜めている。
こんな人を好きになれてよかった。
私のために涙を流してくれるなんて……。
「名前、呼んでいいですか」
にぃさんは何回も大きく首を縦に振る。
笑えるかな。
自信はないけど、がんばってみよう。
「刹那……ありがとう」
妹は満面の笑みで俺の名前を告げる。
小学校の頃から『にぃさん』に変わったけど、俺だけは止めないと誓い、今もその誓いを続けて、また名前を呼んでくれた。
「恋人同士は名前で呼び合うんだって」
そう言ってくる幼い時の幸菜の笑顔が忘れられなくて、ずっと名前で呼び続けた結果がこれだ。
だから、もう1度、呼んであげよう。
「よくがんばったね。幸菜」




