存在しないモノ
幸菜と連絡が取れなくなって、どれだけの日が過ぎただろう。
学院のほうは平穏で、大きな事件も起きていない。
それが普通で、今までがトラブル続きだったと言っていい。
午後の授業中。
もう6月の梅雨の時期。
雲行きも怪しく、気温も上がってきているから、蒸し暑い日が多くなってきた。窓の外では、中等部の子達が体力測定に精を出している。
あ、雛が俺を見つけて、手を振ってきた。
にっこりと微笑む義妹に向けて、俺も小さく手を振り返す。
うん。可愛い♪
だけど、実妹のほうはどうなんだろうか。
昨日の夜も電話を入れてはみたものの、折り返しの電話は一切ない。
お昼休憩も確認してみたけど、やっぱり返事はなかった。
「気になるよね」
いつもは寝ているなぎさだけど、今日は朝から起きっぱなし。
「そうだね」
授業のまっただ中なので、長く会話を続けられないけど、なぎさは俺の手に手を置いて
「大丈夫」
心配するあまり、授業に集中できていない俺を見かねて、安心させようとしてくれる。
大雑把な性格な割に、こういった気遣いができるのが、白峰なぎさという子。
雛もそうだ。
ある程度の距離があるのに、俺のクラスを気にしているのは、朝から落ち着きがなかったから。
ありがとう。
心で感謝の言葉を口にして、授業に集中する。
大丈夫。
そう言い聞かせるしか、今は出来ないんだ。
放課後。
授業も終わって、雛と凛ちゃんが教室にお迎えにやってきた。
「幸菜お姉さま。寮に戻りましょうなのです」
「そうね。なぎさは部活だよね?」
と、足の方も完治して、サラブレッドもびっくりなほど、練習に精を出している。
7月の全国は辞退したけど、本人は「世界取っちゃうかー」っと、冗談なのか本気なのか、わからない発言もしていた。
「今日は顧問の先生が会議だから休み」
だから、と。
「幸菜の部屋でまったりくつろぐことにするよ」
うん。毎日、くつろいでるよ!
俺のラノベ漁って、散らかすだけ散らかして、帰っていくんだけど。
お願いだからお菓子を食べながら、ラノベを読むのはだけは勘弁して下さいよ……
と、言っても聞かないので、どうするもなにもない。
「お姉さま、お休みだからと言って、平民……の部屋に居座るのはハレンチです!」
ギリッと鋭い目つきで俺を見てくる。
俺が男なのを知ってからは、特に目つきが鋭くなってきて、何かアレば「イヤラシイ」とか「孕む」などの言葉を使うようになってきた。
エッチなゲームを連想させるので、やめてほしいけど。
「雛子も、なにかされたら私に言うのよ。こいつの人生、無茶苦茶にしてあげるから」
世界に名を知らしめる東条家のひとり娘が言うと、本気と書いてマジと読む。ぐらい本気なので、注意するようにね。
教室でこのままお喋りしていると、俺の秘密が暴露されそうなので、早々と退散。
曇り空の中、雨が降る前、独特の香りがする通学路を歩いて10分ほどで、寮に到着する。
「雨、降るのかな」
寮の中も香りが漂っている。
寮の部屋に戻って、テラスに通じるガラス戸を開けると、ジメついた風が室内に充満していく。
6階ともなれば、風も強くて髪の毛が大きくなびいてしまう。
「この雲だしね。もうすぐ降り始めるんじゃない」
定位置であるベッドにダイブするなぎさ。
スプリングが軋む音がして、埃が舞うのも気にした様子はなく、我が物顔でラノベ読みふけっていく。
制服のままだから、スカート丈が膝上という標準装備の制服を恨みたくなる。露出が多すぎて目のやり場に困ってしまうからだ。
「胸は小さいけど、この脚だけは誰にも負けないよ?」
綺麗な脚を天井に向けて、高々と伸ばすから真っ赤な下着が視界の中に介入することになった。
「ちょっ! パンツ見えてる」
「みっ! 見せてるんだよ……」
なんて、言いながら手でスカートを押さえるのは、恥じらっているんじゃなかろうて?
それに赤って、汗をかくと下はともかく、上は透けないのかな。
って、なにを考えてるんだよ。
脚が下がったからって落ち込むなよ俺。
そんなことはどうでもいいんだよ!
「どうでもいいの?」
上目遣いで聞いてこないで。
気持ちがブレるから。
「どうでもいいの」
雲行きも悪いので、換気だけしてテラスのガラス戸を閉める。
なぎさのいる前で着替えをするのは、さすがにデリカシーが無さ過ぎるから、ベッドに腰を下ろした。
俺もなにか読もうかと、ベッドの下からラノベを取り出してみたけど、読みかけのモノでさえ、読む気になれない。
雛が来る前に、ケトルの水でも沸かしておこうか。
部屋に備え付けの小さなキッチンの前に行って、コンロに火を付ける。
カチッチッチ……。
火の勢いは、そのままにしておいても、問題ないだろう。
青い炎と赤い炎が混ざり合うのを、ジッと見てみる。
ノイローゼになりそう。
熱気がムンムンと室内を暑くしていくから、換気扇も回しておく。
「少しは落ち着こうよ」
「なぎさはもう少し、緊張しようよ」
ツッコミにツッコミで返していく。
スマホにメールも着信もない。
「お姉さま、お待たせしましたなのです」
雛も登場していつも通りの時間が始まろうとしている。
でも、幸菜。
笑顔が可愛くて、とても友達思いな雛子。
おちゃらけでムードメーカー、だけど、負けず嫌いで努力家のなぎさ。
俺をおもちゃにして遊んでくるけど、朝が苦手で、ピンチには駆けつけてきてくれる楓お姉さま。
俺はみんなと仲良く、学院に向かう幸菜の姿を見てみたいんだ。
だから、早く元気になって欲しい。
手術の時はどうなるかと思った。
いきなり現れた広瀬。
そして金髪の女。
花園桜花とは……。
「先生、立花さんの意識、今日も戻らないですね」
もう2日も目を覚まさない。
麻酔なんて、とっくの昔に効果は無くなっている。
それなのに、目覚めない。
ICUに入って、24時間体制で見守っているのに、なにかに取り憑かれたかのように、目を覚ます気配すらない。
「そうだな」
目の下の隈を擦り、睡魔と戦うために眠眠打破を、グィっと1口で胃の中に流し込む。
飲んですぐに、胃がムカムカしてきて、眠気は飛んでいくけど、吐き気が襲ってくる。
睡眠の大切さを実感する瞬間だが、今は四の五の言っていられない。
医者って言うのは、奇跡を信じるな。と、叩き込まれる。
自分の手で患者を救わないといけないからだ。言わば、医者は神様であれ。
そう教えられる。
神が奇跡を信じるなど、あってはならない。
「それじゃあ、わたしは回診に向かう。なにかあったらすぐに連絡してくれ」
「わかりました」
そうして、ICUを後にした。
「あまり調子がいいようではないようだな」
金髪の女。
花園桜花が待ち構えていた。
両手を組んで、壁に寄りかかって立っている様は、漫画の世界の貴族でも見ているようだ。
「これがわたしの仕事だ。ちゃんと病人を診察できるぐらいはできる」
それだけを言い残して、去ろうと歩みを進めた。
「今日の夜、兄をここに呼ぶ」
別に呼び止められたワケでもない。
ただの独り言のように呟いただけ。
寝不足でストレスが溜まっていたんだろうか、花園桜花の前にまで戻ると、胸ぐらを掴んで壁に押し付けていた。
香水の匂いがして、それが余計に癇に障る。
「医学的には、尽くせる手は打ったのであろう? だったら、後は医学の問題ではない」
開いていた手を固く握りしめる。
平日ということもあって、ICUの前には、ほとんど人の行き来はない。
「その拳を振りかざすならば、医師などやめてしまえ」
わたしよりも身長が高くて、美しく、それでいて冷静。
「別に私は、あなたの力を疑っているわけではない。あの子の手術を成功させることができたのは、あなただからだ」
だが、と
「医学ではどうにもならないことはあると思っている。あなたは奇跡などを信じなくていい」
そして、彼女が笑う。
「そんな存在しないモノを信じられても困るが」
「あんた信じるのか」
「あぁ、信じるさ」
わたしの手を払いのけて、今度は花園桜花が歩みを進めた。
「お父様とお母様に出会えたのも奇跡だ。だから、私は彼女が意識を取り戻すことも信じている」
日差しが彼女を迎え入れているかのように輝いていて、逆光になっているから、私には天使が舞い降りたように見えた。
「奇跡は起こるモノではない。起こすモノだ」
行動を起こさなければ、なにも得られないのだ。っと彼女は言い残して、去っていった。




