ネガティブ思考
手には優香ちゃんの忘れ物である筆記用具とプリントを持って、ナースステーションを横切ろうとした。18時ぐらいになったらパートを終えたお母さんがお見舞いに来てくれる。
それまでには病室に戻って「おかえりなさい」って、出迎えてあげる。それぐらいしか出来ないから。
だけど、ナースステーションは息苦しいほどのエナジーが迸っていて、俗に言う『人除けの結界』でも張り巡らせているよう。
その根源となっているのが、主治医の門脇先生だと見て解る。
なにやら書類のような物を持って、看護士の人に怒鳴っているので、先生の気に障るようなことをしたのは一目瞭然。
「先生。外にまでどす黒いオーラが飛び火してますよ」
まるで他人事のように、私は結界内へと足を踏み込む。
門脇先生は私を視界に捕らえると、少しイラついたようで、「熱があるんだから寝てろ」っと、患者に向けられた言葉とは思えないほどに冷たい。
「これを届けに行くだけですよ」
手に持っていた筆記用具とプリントを、胸元でフラフラ振り強調。
「お前は学校の先生か。それとも幼稚園の先生か。まぁどっちでもいい」
手に持っていた書類を看護士に投げつけると「わたしの机に置いておけ」と、指示を与え、私の手に握られている物を掻っ攫うと「これも届けてやってくれ」と、それは優しく机の上へと置かれた。
「病室、戻るぞ」
ただそれだけを告げ、私の肩に腕を回して、半ば強制に病室へと戻された。
ベットに寝かせられた私は、先生の診察を受けた。
いつもの定期的な物に加え、喉を見たり聴診器で心音を聞いたり。
問題のある体なので、複雑な表情をしながら診察をしていく。
先生いわくは、これ以上の薬の処方は好ましくないと言われた。だけど、熱が37度8分と、さっきよりも熱が上がっていることから、薬を処方して様子を見ることにすると診断された。
「なぜでしょうか。熱があるのにダルいとかしんどい。といった症状がないんですけど」
「ま、元々がその体だ、ダルいとかの症状は常日頃から出てるんだろうな」
先生は窓を開けて胸ポケットからタバコを取り出すけど、すぐにタバコをしまい窓を閉める。
外は陽が落ちて夜になろうとしている。もうすぐお母さんが来ると察知したのでしょう。
「そういや、今……なんでもない」
何を言いたかったのか、わからないけど追及すると機嫌を悪くするので黙っておく。患者が先生の顔色を窺うのもおかしな話だけど。
この先生をさっきみたいに不機嫌にすると、とってもメンドクサイ人なのは、2年付き合いから重々承知している。
「今日はもうベットから出るなよ」
それじゃあな。
先生は病室を後にした。
そして私はポツリとつぶやく。
「相当に悪いみたい」
医者として、特に変わった行動をしている訳ではない。だけど、それが逆に不自然な行動で、門脇恭子としての行動ではなかった。
窓の外は薄暗くなって、駐車場の光が煌々と桜を神秘な物へと変化させるよう、一途な光線を放っている。
死ぬことが怖いと思ったこともあったけど、今はそう思うことがなくなってしまって、死ぬことが当たり前なのだと最近思う。
なにが怖いのか。それは大好きな人を悲しませるのが怖い。
私って身勝手で、強気なくせに、弱い。
何が弱い? すべてが弱い。
にぃさんが此花女学院に潜入して1日目だというのに、屋上の一件で兄離れが出来ていなかった。
ずっとにぃさんやお父さんやお母さんには迷惑をかけている。病室もそうだ、大部屋で良いと言ったけど、年頃の女の子だからという理由で、お父さんは迷わずに個室を選んだ。
お母さんもパートが終わったらお見舞いに来てくれて、「病院食だけだと味気ないでしょ」って、こっそりおかずを持ってきてくれる。
そして、にぃさんは……ありすぎて、なにをあげればいいのか迷ってしまう。
幼稚園が終わったら1人で自転車に乗って、病院に来てくれた。幼稚園でお遊戯会があって……運動会のかけっこで1位になって……小学校にあがれば、柔道を始めた。
双子は基本的に一緒のクラスにはならないようになっている。授業が終わった休み時間には私の教室に来てくれていたけど、私がよく男の子にいじめられているのを見ていたらしく、それを理由に柔道を始めてくれたのは、妹としてよりも異性として嬉しいと感じた。
優しすぎる家族に囲まれて、私は「早く死ねないかな」と。
生き地獄に相応しい環境を変えようと此花を受験したのに、この様だ。
外に咲いている桜のように、見ている人を癒してあげることもできない。生きている価値なし。
ネガティブな思考は心の中でだけ呟くようにしている。体も弱いのに、言葉でも弱いことを言っているのは、がんばってくれている家族に失礼極まりない。
18時。今日もお母さんがお見舞いにやってきて、私の好物である肉団子のあんかけを作ってきてくれた。
笑って「先生には内緒よ」っと、紙袋をテーブルの上に置いて、パートでの出来事を面白おかしく聞かせてくれると、夕食の時間には帰っていった。
看護士の人が病院食を運んでくれた後、お母さんの手料理をテーブルに並べる。
朝作った分なんだろう。すでに冷めていて、あんかけはトロミをすでに失っており、ゼリーのように固体化していた。
モグモグ……。
お母さんの味がする。すこしだけ薄味で、肉団子の中に玉葱を微塵切りにして入っている、ごく普通の肉団子なのに特別においしく感じる。
そして、思う。
早く死ねないかなって。
駅前にわたしはいる。
仕事が終わって、とある人とご飯食べに行く約束をしている。当然、相手も仕事をしているから時間通りにはならない。
約束の時間から2時間は過ぎているけど、わたしはこの場所から離れたりはしない。同業者ならではの遅刻なのはわかっているから。
「遅くなってしまってすまない」
わたしの待ち人である男性が改札から抜けて、声を掛けてくる。
10年ぶりに会う人は、昔とまったくと言っていいほど変わりがない。
「いえ、わたしこそ無理を言ってしまって。ご無沙汰しています」
「そこまで畏まらなくてもいいよ。それにしても僕が結婚してからだものね。ほんとご無沙汰だ」
わたしは「立ち話もなんですから」と、久しぶりの再会もほどほどに行きつけの料亭へと足を進めた。
お酒も然る事ながら、新鮮な魚介類もおいしい料亭で、ここに来たら、その日のおすすめのお造りを必ず食べることにしている。
「ホントだ。おいしい」
彼も一緒のモノを食べている。
ここに来るのは初めてらしく、君のおすすめでいい。と言うことなので、当たり障りのない料理をチョイスした。
この笑顔に何人の患者が餌食になったことだろう。いろんな意味で。
「それで、だ。別に懐かしむために呼んだわけではないんだろう? 医学会の狂犬さん。それとも魔女と呼んだほうがいいかい」
ニッコリ。
変わらない人だ。それを認識できるぐらいに、わたしは惹かれていたのか。
「えぇ。言いたいことが1つ。そして医学会の手品師さんとしての助言を1つ頂きたい」
「いいだろう。聞こうじゃないか」
笑っていた顔をまだ崩さない。
「まず1つ、あいつが診察に来ました。あなたの患者をわたしに押し付けるのはやめて欲しい」
「それは違うなぁ。彼女はもう完治している。後は気持ちの問題だよ」
その気持ちをこっち押し付けるな。
こっちの話を聞きながら、料理を口に運んで「ここいいな」と、お気に召してくれたようでなによりだが、責任感のない態度は頂けない。
「まぁ、僕が言い出したのでなく、彼女自身が言い出したことなんだけどね。僕は君に紹介状を書いただけだよ」
と真実を語っていく。
「僕と彼女が結婚して10年経つ。それを機会に仲直りしたいんだと思うよ」
仲直りねぇ。喧嘩もしてないのに仲直りもクソもないんだけど。ただ、わたしが一方的に拒絶しただけ。
親友の結婚を祝福できなかった。結婚式の招待状に欠席に○をして、わたしは彼女の前から消えたんだ。
目の前にいる人は何も知らないようで、なにがどうでこうなったのかは、またの機会にでも。
「まぁ、医者と患者として扱いますよ」
「そうしてくれると嬉しい」
おしながきを見ながら「焼き魚もおいしそうだ」と、次の料理を決めている。緊張感のないのも変わらないか。
2つ目はなにも言わないほうがいいか。
心の中に収めようと、吐き出しそうになった言葉をグっと飲み込む。
「じゃぁ僕からの質問いいかな」
わたしは「どうぞ」っと、箸を持ってお造りを口に運ぶ。
「立花幸菜さんって患者さんがいるよね? 病名とか教えてもらえると嬉しい」
あいつから「訊いてきて」とでも言われたんだろうと、容易に推測できる。
「患者の情報を口外するのはできないですよ」
「そうか。じゃあ2つ目を聞こうじゃないか」
営業スマイル全開なのが、わたしの心を読んでますよ。って無言で言っているように思えて、無性に腹が立つ。
だから「もう結構です」と、料理を食べることに集中しようと視線をテーブルへと向ける。
「もう、その口調は止めにしないか」
彼から笑顔が消えていた。
「彼女の足が動かなくなってから、君達は変わってしまったのが見ていて辛い。だからと言って、僕が2人の間に入るのは間違っていると思う」
彼は箸を置いて、見据えてくる。
「夜、何度か彼女が涙を流しているのを見たことがある。こっちがどうしたと言っても、彼女はなんでもないと言う。今日、久しぶりに彼女と会ってみてどうだった。笑っていたかい?」
笑ってたよ。なにもなかったように、2人で馬鹿していた時のように……。
だから、わたしも普通に接してしまったんだ。医者としてなら、もっと事務的に接すればよかったんだから。
「どうでしょう。わたしにはわからなかったです」
この人だけには、偽りのままでいよう。
だから、わたしの気持ちも偽ろう。
目の前にいる人に恋をしていたなんて事実はなかった。
医者を目指したのだって……。
「うん。わかったよ。この話は終わりにしよう。せっかくの料理がマズくなってしまう」
そう彼が言うと、おしながきを見ながら「追加してもいいかな」と聞いてくるので「いくらでもどうぞ」っと返事をすると、ホントに遠慮なく5品も頼んで、胃袋に押し込んでいくのを、わたしは懐かしい思い出を見ているかのように、彼の食事姿を視界に捕らえ脳裏に焼き付けるのであった。




