夜による、夜のための、夜
深夜2時を回ると外は静かで、外灯の電気が申し訳なさそうに、光を放っている。
隣で寝ている雛子を起こさないように、静かに布団から這い出る。
刹那も毛布に包まって、部屋の隅で寝息も立てずにピンクのパジャマを着こんで、どこからどう見ても女の子にしか見えない。
それを知ったら、ほとんどの人間が驚き、ほとんどの女の子が嫉妬するだろう。
さて、私はやらないといけないことがある。だから起きていたのに、これでは本末転倒だ。
テラスに向かい、カーテンの隙間から漏れる光が、2人を起こさないように、注意しながらカーテンの裏に回りこむ。
テラスに出て、深呼吸をする。
5月のちょうどいい夜風が身体の中に溶け込んで、少し眠気が飛んでいく感じがした。
隣の部屋を見ても、こっちの部屋、同様に真っ暗。
白峰なぎさも眠っているに違いない。
刹那が作ったおにぎりは食べたのだろうか。食べていなくても気持ちは伝わっていると思う。
ポケットからスマホを取り出して、電話帳を開ける。
224件の電話番号の中から、お目当ての名前を見つけ出し、コールする。
1コールが終わる寸前で、スマホをタップしたようで、ワンテンポ遅れて、声が聞こえてくる。
「もしもし」
彼女も寝ていなかったのか、透き通る声がスマホのノイズさえも凌駕している。
今に思ったことではないけど、この兄妹はなにかとレベルが高い、そして容姿端麗と来たもんだ。
電話の相手は言わなくても、わかると思うけど『本物の幸菜』である。
「お兄さんがどこぞの女に取られていないか、心配で眠れもしなかったかしら?」
少しイタズラっぽい口調で言っても、幸菜は動じることもなく
「にぃさんにそんな度胸も根性も甲斐性もありません」
と、長年連れ添った妻のような物言いで、まったく心配していない。
兄妹で、しかも双子ときたら、目では見えないなにかで、繋がっていても不思議ではないのかもしれない。
「たしかに、出会って数日だけど、度胸はなさそうね」
花園生徒会長の義妹をしていると聞いていたから、もっと堅苦しい感じか、頭が良く聡明なのかと思った。だけど理想とは180度違って、女の子の尻に敷かれていて、周りには色とりどりの美少女が集まっている。というのに、据え膳食わぬは男の恥というが、刹那はまったく気にする素振りもなかった。
「にぃさんは昔っから……そうな……」
幸菜の声が途切れて、スマホの向こうから咳き込む音が聞こえてくる。
幸菜が落ち着くのを待つけど、一向に咳き込む音が止むことがない。
「幸菜、聞こえてる? 大丈夫なの?」
大きく深呼吸する声が、弱弱しく、トントン胸を叩く音だろうか、ノイズ交じりに聞こえてくる。
「ごめんなさい。もう大丈夫だから」
大丈夫だからと言われて、「はい、そうですか」と言える人間に育てられた覚えはない。
「体調が優れないなら電話切るわよ」
「これ以上、良くならないから大丈夫」
これ以上、あれこれ詮索するのは止めておいたほうがいい。
自分にとっても、幸菜にとっても。
「そう。なら本題に入るけどいいかしら」
幸菜は「どうぞ」と落ち着いた声で、私の言葉を待っている。
「じゃぁ……、幸菜の言うとおりで、やっぱり此花に来ていたわ」
陸上部の顧問だった男が、獲物を変えて、この学院にいた。
私の次は、昨年の県大会2位の白峰なぎさを潰すつもりなのである。
「それも、次の標的は白峰なぎさだった」
幸菜の推理は完璧だった。
「次は2位の子を狙いにくる」
この子はどうして、自信を持って言えるのだろう。
スマホのスピーカーが壊れていて、発音されている言葉が間違って、聞こえてきているのではないか。
それとも自分の耳がおかしくなったのかの、2つを疑ってはみたが、どちらも正常で特に異常はなかった。
「それで、にぃさんはどうしているのですか?」
「そうね。あまりいい状況ではないわ」
私は、今日の出来事を知っているかぎりを幸菜に教えてあげた。
脳をフル活動させているため、数秒の沈黙が続き、私は催促することはせず、幸菜の言葉を待つ。
コホン……コホン……。
彼女を蝕む病が身体の中を支配していって、刹那には言っていないが、幸菜はもっとひどい状態にある。
「やっぱり、刹那に伝えたほう」
「言わないで!」
叫ぶ勢いで私の鼓膜を震わせ、電話の向こうでは、さらに状態が悪化させてしまった。
「もし……なにかあれ……ば…………花園楓……に……すべてをはな……して」
「幸菜大丈夫!?」
電話越しに伝わってくる異常が異変へと変わっていく。
いますぐ電話を切って、病院に電話をしたほうがいい。通話を切ろうとスマホを耳から離したときだった。
「リーサ、どうしたの?」
ベランダから生ぬるい風が、頬を撫でてきて、睡眠妨害をしてくる。
部屋の隅っこで毛布に包まって、丸くなり壁に背中を当て、膝を枕に寝ていた。
数時間しか寝ていないのに、身体を動かすと身体がパキパキと音を響かせるように重い。
若いと言っても、座って寝るのは身体には堪えるようで、少し立ち上がってストレッチでも
「……大丈夫!?」
リーサの大きめな叫び声が聞こえてくる。
ベットを確認すると雛だけが眠っていて、隣で寝ていたリーサの姿が見当たらない。
さっきの声はやっぱりリーサだったのか。
ベランダから聞こえてきたってことは誰かとお喋りでもしているのだろうか。いや、こんな深夜にお喋りしてたら、此花警備隊がぞろぞろとやってくる。
スマホで通話でもしているんだろう。
最近はレインとかいう、無料で通話が出来るアプリがあるらしいから、それで電話でもしているんだろうか。
だけど、さっきの叫び声は気になる。
ベランダに足を向けて、ピンクのカーテンの向こう側を覗き込んだ。
「リーサどうしたの?」
ベランダの手すりに肘を置いて、外を見ていたので、小さな声で呼びかけた。
瞬時にこっちを振り向いて、コソコソっとスマホに話し掛け、通話を終了させたのか、画面をタップする。
「ごめん。電話中だった?」
「まぁ……どこから聞いてたの?」
なにかバツが悪かったのか、目が真剣で今までにない雰囲気を醸し出している。
「なにも聞いてないよ」
ホントになにも聞いていない。
そういえば、最近は幸菜からメールや電話が来なくなったけど、近いうちにこっちから電話してみよう。
「そう。それならいいんだけど」
くるりともう一度、手すりに肘を置いて、外を眺め始めたので、俺も隣に行って手すりに手を置く。
深夜になると寮の敷地内に取り付けられている、外灯は機能を失い、明かりを灯すこともせず立ち尽くしているだけのオブジェと化している。
「足の調子はどう?」
不躾だったかもしれない。
だけど、リーサは驚いた様子も見せず、空を見る。
俺も釣られて空を見上げる。
黒い空間に星の輝きが無数の個となって、天の川というには時期は早いのだが、田舎の夜空は星の川が常に出来上がっているかのようで、見ていて飽きがこない。
「失礼なことを聞いてくるんだね。まぁいいけど」
月明かりがスポットライトのように、スタイル抜群のボディラインを浮かび上がらせ、これまでにはない魅力を醸し出している。
「歩いている分には、大きな痛みはないよ。走ったり重い物をもったりって、膝に負荷がかかると一瞬で悲鳴をあげるの」
彼女はもう走ることの出来ないサラブレッド。
サラブレッドは足を骨折したら、安楽死が一般的である。
それを見てファンや動物好きの人は、みんなこう言うのである。
「かわいそう」
だが、競馬関係者は安楽死を選ぶのである。
『苦しませないように』
サラブレッドは4本の足を動かして、酸素を体内に巡らせる生き物で、1本の足が動かなくなってしまったら、足が腐っていく。それが足から身体に……内臓に……そして全身を腐らせて死んで行く。
今のリーサは骨折して放置されているサラブレッドと同じで、生き地獄を味わわされている。
「私ってバカだよね! 最初はさ、針で突かれたぐらいの痛みだったから、「そのうち治る」って思ってたし、あいつに相談しても……」
怒りをどこにぶつければいいのか迷っているのか、小さな手をグッと握って、怒りを静める。
「ここで、「リーサの気持ちがわかる」って言えば嘘になるから言わない。でも諦めるな。少しでも治る可能性があるなら、しがみついてでも無様な姿を晒してでも、掴み取るしかないよ」
リーサは上を向いて目を瞑って「そうだね」と返事をしてくる。
「俺に出来ることがあれば力になるよ」
わずかな時間しか共にしていないけど、友情に時間は必要ではなく、必要なのは出会い。
出会いというスタートがなければ、友情というゴールは存在することはないのである。
ゴールが近いか遠いか。
ただそれだけ。
「ありがと」
隣に立っている少女の顔に笑顔はなく、悔しみの顔をしていた。
「笑いなよ」
無責任だと思った。
「泣きなよ」
無責任だった。
「あなたに私の思いをぶつけたら、なにか変わるの?」
「変わるよ。嬉しい気持ちが2人分になる。悲しい気持ちを2人で分かち合うことができる」
小学校の頃に「人って漢字は人と人が支えあっているから人は1人でいけないの」と教えられたことがある。
はっきり言えば嘘で、人は1人でも生きていける生き物だ。そんなに弱い生き物ではない。
だけど、そこに意味が存在するだろうか。
存在する意味もないのに、生きているのは無意味で、もしかしたら死んでいるのと同じかもしれない。
1人で笑ってなにが楽しい? 1人で泣いてなにを求めている? 1人で喜んで虚しくない? だから1人では人間らしい生き方はできない。
「人間の心って限界があると思うんだ。でも、それは人それぞれ限界値が違って、それを超えると壊れてしまう。だから壊れないように2人で分かち合うんだよ」
「ただの理想論。自己満足。私の気持ちを分かち合えるはずないじゃない」
声のトーンが少し大きくなってしまったので、ここで一呼吸、間をおいて気持ちを落ち着けさせる。
「もう分かち合えたよ? さっきリーサの気持ちをぶつけて来たでしょ。それが分かち合うってことじゃないかな」
星を見ていたリーサがクスッと笑う。そこから縛り付けられていた鎖が千切れていったのか、お腹を押さえながら笑い出す。
「刹那って臭い! とっても臭い!?」
「そ、そんなことない!」
「あるよ」
「ない」
「ある」か「ない」でどれぐらいの時間を費やしただろうか。
リーサも笑い疲れたのか、少し肩を揺らし吐息をもらす。
「ホントだ。少し心が軽くなったね」
月明かりも最後の出番だ、と言わんばかりに隣で笑っている少女の後ろに回り込んで、存在感をアピールしてくる。
「ねぇ刹那、あなたはどうして柔道をやめたの?」
「それはね……」
俺が柔道をやめた理由。
今まで誰にも言ったことのない、やめた訳……。
「それはね……」
今更なので、正直に言っておこう。
「柔道が嫌いだからだよ」




