友情は見返りを求めない
なんとか授業に間に合う時間に戻ってこれた。
瞼が重い。たぶん、自分の顔を鏡で見たら、目の下には大きな隈が出来ているに違いない。
大きな音を轟かせて消えていく瑞希を見送って、寮に戻っていく。足取りは重く、珍しく疲れているという実感がダルさを増幅させていく。
まだ6時になったばかりだと言うのに、運動部の子達は水を得た魚のように活き活きとしている。ように見えてしまう。
別に皮肉で言っているわけではなく、ただ、自分が眠たいだけ。これから部屋に戻っても眠っている暇など一切なく、朝食を取ればすぐに学院へと向かうことになる。それに……。
寮の玄関には可愛らしいハムスターのような子がお出迎えしてくれている事実。余程、俺のことが気になるらしい。
真っ赤な絨毯を踏みしめて、やっと住み慣れた学院に帰ってきたことに少しばかり安心。って、ここにいることが普通になってしまっている。
幸菜のためにここにいるのに。
「なにか言うことはないのですか」
あぁ、ご帰宅早々に、姫様がご立腹のご様子。
なにか言うことって、ちゃんと桜花さんとデートに行くって言ったし、別に俺が好きなことして、あんなことやこんなことや、あぁああああああれぇえええええええしたって問題ないじゃないか。
これはあれか「どうして私以外の女と遊びに言っているの!」って妬いている。そう受け取れば納得できる。
ダメだ。眠たすぎておかしな思考しか浮かんでこない。
「ただいま?」
やっぱりおかしな思考だった。
いや、その前にアーシェに言うことはなにもないだろう? だって、俺はアーシェの恋人でもなければ、婚約者でもないのだから。
「ごめん違ったね。今のアーシェになにも言う言葉はないよ」
きつい言い方だったのはわかっている。
「今の君はライバルなんだ。俺は花園グループ側の人間で、アーシェは有栖川の人間。敵対する人に掛ける言葉はないよ」
「そうですか……でしたら、ご自由にどうぞ」
俺は階段を上がっていく。
ご自由にするさ。だって、まずはアーシェ。君を助けるんだから。
背中に突き刺さるアーシェの視線を無視して、部屋に戻ると朝食の用意をして、待ってくれている最高の妹、雛が「おかえりなさいなのです」と、笑顔でお出迎えしてくれた。
「ただいま」
疲れきった体に雛の笑顔は格別で、疲れを忘れさせてくれる特効薬かもしれない。
学院の制服にエプロン姿。
もう見慣れたからいいけど、さすがに無防備過ぎやしないかいお嬢さん。
テーブルには魚の塩焼き、大根と豆腐のお味噌汁、そして、大好物のひじきの煮物が用意されていて、眠気も一瞬にして吹き飛んでいく。
食堂で食べるより、部屋で食べたほうが気を使わなくいいと、雛が判断してくれたのだろう。
土鍋から炊きたてのご飯をお茶碗に盛ってくれる。溢れんばかりに……。
嗅いだことのない香りが鼻孔をくすぐる。
「おかわりもございますので、ご遠慮はしないで下さい」
「私は妹に遠慮出来るほど、出来た人間ではないよ」
クスクスと笑い合う。
でも、こんな可愛い妹を俺は……。もう決めたんだ。きちんと雛には言おうって。
しっかりと朝食を食べて、予備の制服に着替える。
少し厚めのファンデーションに違和感があるけど、みんなに心配されるよりかはマシ。
鞄を手に持ち、雛と一緒に登校する、いつもの日常がここにあって、楓お姉さまの居ない日常でもある。あえて話題にしないのは、俺も雛も必ず戻ってくると信じているから。
3人でお喋りしながら、この学院に登校する姿が目の前に浮かんでくる。
「ねぇ雛、今日は私の部屋に泊まりに来て欲しいんだけどいい?」
少し驚いた様子だったけど
「はい。大丈夫なのです」
と、即答してくれた。
よかった。すべてが順調に進んでいく。でも、ここからが本番だ。
正門に着いてすぐ、用事があるからと、雛を先に行かせた。
雛も「わかりました」と、友達を見つけて、一緒に学院内へと向かっていく。ちらっと振り返るので、小さく手を振って見送ってあげると、心配そうな表情で教室へと消えていく。
スゥっと空気を吸い込み「ハァ」っと、空気を吐き出すのは気持ちを切り替えるため。
「深呼吸は背伸びを一緒にすると良いですよ」
うふふっと笑う東雲さん。
待ち人来る。の、おみくじでも引いたかのような展開だ。
まぁ、東雲さんを待っていたんだけど。
「少しお話があるんですけど、お時間いいですか?」
「えぇ、もちろんです」
さすがに目立つ場所で、この話は出来ないからと言い、人通りの少ない裏庭へ向かうことにした。
人通りは少ないけど距離感の近いカップルは多くて、鴨川のように、カップル同士が一定の距離を保ちつつお喋りを楽しんでいる。のは、数組であって、大半はお喋りで済んでいないから目のやり場に困る。
「まぁ盗み聞きする方もいませんから」
なに? 東雲さんって、ここに来るの初めてじゃないの?
いらぬ妄想が妄想を呼び、妄想が創造へと変化する寸前で、現世であることを思い出した。
手慣れたように芝生にハンカチを置いて、両足を綺麗に畳み、腰を下ろすのを見て、俺もマネをする。
晴天の青空の下、女の子と二人っきり。
もし、普通の学校で、この場面に出くわしていたら、完全に青春と言えるだろうけど……。
俺の言葉を待つ東雲さん。
「あの……」
「選曲は立花さんが行われたのですよね?」
完全に言葉がぶつかってしまう。けれど、東雲さんは止まらなかった。
「はい。私が選びました」
文化祭の時のことを聞いてきているのはわかっている。
おっとりとしている割には、しっかり者。だから、クラスの中心にいつもいて、みんなからの信頼も厚い。
俺も信頼を置いている。
「お兄さんにも相談せずにですか?」
「えぇ」
「そうですか。なら」
ならいいです。そう言いかけたのを、俺が遮る。
「言葉には出来ませんが、東雲さんが思っている通りです」
本当の女の子が選曲すれば、女性ヴォーカルメインになっていたことと思う。それなのに、俺は男性ヴォーカルメインだったということ。
俺も色々と考えたけど、自分を捨てきることができなかった。
なにを思っているのか、俺にはわからないけど
「それで、私になにかお願いがあるのではないでしょうか」
と、さっきの言葉はなかったかのように振る舞ってくれる。少し安堵。
そう。俺は東雲さんにお願いがあった。
無茶なのも知っているし、断られても仕方がない。
状況が状況なだけに、なりふり構ってられないってのが本音でもある。
東雲さんがダメなら、別の人に当たらないといけない。
頭を下げ、俺はすべてを打ち明けた。
現在の状況、花園グループのこと。そして、アーシェのことも。
同情が欲しいわけではない。俺が背負えるペナルティが存在するなら、喜んで受け入れる覚悟もある。
「こんなお願いを言えるのは東雲さんしかいなくて」
やはり、いきなりの申し出に戸惑っているようだ。
東雲さんには、なんのメリットも見返りもない、一方的なお願いに
「それは構いませんけれど」
ご本人がそうお望みならば。と、付け加え
「立花さん、あなたにもメリットがあるとは思えないのですが」
「いえ、メリットはありますよ。だから、東雲さんもご了承して頂けたのだと思います」
クスクスと笑う東雲さん。
「お互い、お気持ちはご一緒。と、言うことですね」
「そうですね」
右手を差し出してきてくれたので、俺はしっかりと握り返した。
どちらにもメリットがなく、デメリットしかない。でも、救われる気持ちも存在する。彼女の本当の笑顔が見てみたい。
あの人の心の支えになってあげたい。
もし、願いが叶ったら、この魔法のような時間は終わりを告げるだろう。
わかっている。タイムリミットはもうすぐそこまで来ていることを。




