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其の捌:野戦病院ガダルカナル

ある晩1942年のガダルカナル島と、とあるコンビニエンスストア前の洞窟が繋がってしまった……。

この洞窟は通称「門」と呼ばれ、そこを通過するにはいくつかの条件があった。

・過去から現代には移動できるが、現代から過去には、来た者以外は移動できない。

・同時に「門」を通って現代にいられるのは生死を問わず最大3人まで。

・1人が持ち帰る事の出来る物資は、現代の金額で2000円程度までで、3人分まで。

・武器は基本的に移動させられない。

・歴史を変えかねない「情報」は記録媒体ごと移動させられない。

・この「門」は人為的に開けられたようで、上記制限は探せば抜け道が存在する。

「門」が開通し、未来の日本から様々な物資が得られるガダルカナル島。

そこにあっても、まだ疫病対策は足りていなかった。

「仏舎利」という「門」の抜け穴を使う輸送法が確立されて改善されたが、

以前は「2000円までしか一回で持ち込めない」という謎制限の為に、

高価な医薬品は補給出来ずにいた。

そこで、ガ島で最も厄介な病気であるマラリア対策は、予防策が主だった。

殺虫剤、殺虫剤を埋め込んだ蚊帳、予防薬で新規感染を食い止めていた。

発症した者への治療は、薬が高額な為、治療出来る人数は限られていた。


「そういえばアメリカ軍は、水たまりに石油を撒く方法を採ってますよ」

未来の医官が、訪問して来た過去の衛生兵に語った。

「我が軍では出来ない贅沢なやり方ですな。それはどんな効果があるのですか?」

「マラリアは蚊によって媒介されますが、蚊は幼虫時代を水中で過ごす為、

 水たまりに油膜があると幼虫であるボウフラが窒息し、それで成虫になる前に殺し、

 成虫による病気の媒介を防ぐってことです」

「なるほど。ですが、やはり我々では無理ですな」

「あげましょうか?」

「はあ?」

「戦車や車両の燃料になる軽油の他に、石油にも種類がありますから、

 それをお渡ししましょう。まあ、殺虫剤もケロシン、航空燃料と同じような

 石油を使ってるんですけどね」

これは後に実現され、日本軍陣地付近でも蚊を激減させた。

マラリアのみならず、同じ蚊によって媒介されるデング熱の予防にもなった。


「便所の事なんですがね……」

また別の衛生兵が相談、というより対策物資を貰いに来た。

ガ島の戦いで、多くの兵士は下痢を罹患していた。

その下痢を上手く処理しないと、他の健康な兵士にも感染したりする。

穴を掘って、そこに垂れるものの、それだけでは効果が無い。

下痢の兵士用の便所穴は別にしているが、ガ島の場合多過ぎてあまり効果がない。

便所は壕や陣屋内にも作られるが、その臭気は士気を下げる。

自衛官からは以下の指示がなされた。

・消石灰を撒いて消毒すること(消石灰は支給する)

・消臭剤を支給する

・石鹸の他、ウィルスや細菌を消毒するアルコールを支給する

・定期的に便所は場所を移し、過去の穴は石灰を撒いてから埋める

・室内の場合、小型扇風機を使い、脱臭孔を開けてそこに換気する


この話の一方で、戦術的な話もされた。

「どうやら我々日本人は、欧米人に比べて排泄物の量が多いようです」

「はあ?? それが何か?」

「ガ島の米軍は、日本人の排泄物を調べて、日本軍が何人いるか想定していたようです」

「ふむ、なるほど……。では、我々は実数より多く数えられているという事ですか?」

「そうです。米軍は貴方たち日本軍の総数を見誤り、7倍以上の兵力で攻撃して来ます」

「では、先ほど聞いた方法で穴を埋め、排泄物を隠せば良いのですな?」

「そこはそれ、上官と相談していただきたいとこです。

 もしも陽動などで数を多く見せたいのであれば、利用できます」

「一衛生兵の判断でなく、上官の判断で行えということですね」

「左様です。その際、もしも汚物の運搬等が命令され、

 それによって疫病になると困りますので…」

とゴム手袋や塩素系トイレ洗剤、医療用石鹸も支給された。

米軍は、排泄物の状態で日本兵が健康か、どのような病気になっているかも調べていた為、

欺瞞工作をする上では「病人の排泄物」も必要かもしれない。


「この抗生物質(ペニシリン)というのは、どのように使うのでしょう?」

ペニシリンは、このガ島戦の後に陸軍軍医学校がその存在をドイツの医学雑誌から知り、

量産を始めるのは昭和19年からであった為、ガ島の軍医・衛生兵は使用法を知らなかった。

もっとも昭和19年以降であっても、ペニシリンの生産量はごく少数、臨床試験は数人で、

結果良好と言えども大量生産が出来ず、戦地の軍医・衛生兵はやはり知らなかったかもしれない。

未来の医官は、用法の説明に慎重だった。

まず、この薬は万能ではない。

衛生面で便所由来の下痢、具体的にはガダルカナル島の「アメーバ赤痢」には効果が薄い。

ペニシリンは、戦傷から破傷風になる前に、それを阻止する事は出来る。

しかし、これは1942年当時使用している米軍も知らないことだが、使い切らず、

菌を中途半端に残した状態で投薬を打ち切ると「耐性菌」が出来てしまう。

歴史改変の是非は今後考えるにしても、耐性菌を1942年に作ってしまうのは、

悪い方への歴史改変であり、止めねばならない。

なので、用法、用量を懇切丁寧に説明し、ガ島の軍医にも納得して貰い、

分からなければ何度でも説明するということになった。


このガ島でのペニシリンの先行使用は、この世界の日本の医療をわずかに変えた。

その存在を生還者が伝えた為、陸軍軍医学校はわずかだが早くペニシリンの存在を知る。

やはり生産には難航したが、少量のガ島から持ち帰った現物があり、

臨床試験は「日本本国で生産出来たもの」の薬効確認となった。

わずかだが生産量は多くなり、本土空襲の怪我人の治療に使われた。

戦後も、用法・用量の注意を既に知っていた為、生還者の中で医療に携わった者は

正しい使用をしつつ、未来の世界から聞いた「耐性菌」についての研究をした。

もっとも、より多くの日本の病院は「使えば使う程良い」使い方をするから、

後に欧米が「日本では既に抗生物質に菌が対抗する事を知っていた」と驚く

先進性はごくごくわずかな病院・大学だけのものとなり、全国には広がっていなかった。


抗生物質はペニシリンだけではない。

スプレプトマイシンやその他のものもある。

2番目の抗生物質スプレプトマイシンは、1943年10月に生成される。

この発見者が「antibiotics」という「抗生物質」の命名主なのだが、

その命名自体は1942年の事なので、「抗生物質」の名がついた薬剤がもたらされても

何とか後出し歴史が、本来の貢献者を出し抜くことはない。

だが、スプレプトマイシンはガ島戦後のものなので、これが1942年12月のガ島にあったら

歴史の順番的におかしいことになる。

スプレプトマイシンは、当面ガ島で発生している疫病に対しては必要ない為、

送らない事に未来側で決めた。

その為、軍で「抗生物質」と呼ぶ薬剤は全てペニシリンの事となった。


医療用品で、薬品以外に重宝されたのは、ゴーグルとLEDライトであった。

医療ゴーグルにライトをつけると、夜間や壕の中でも手術が可能であった。

また、ゴーグルに拡大鏡をつけることも出来て、手術の精度が上がった。

最初は「やりたい事は分かるが、この湿気の多い島だと曇って役に立たないだろう」

と言っていた軍医たちも、曇らない加工になっていた為、納得して使用し始めた。

メスも替え刃式となり、手術時の手袋も使い捨て、と

「治すというより直す」と言われる野戦病院としては、衛生面で随分進歩した。

注射の針、点滴用の針も使い捨てである。

(静脈点滴は史実に先駆けて、ガ島では未来の知識によって行われていた)


後の話になるが、米軍がこの野戦病院に攻め込んだり、

「吾輩はこの島の実情を知っておる」という旧日本軍の参謀に案内されて

様々な物品を掘り起こして押収したりしたが、

その直後辺りでは価値に全く気付かなかった。

『注射針は一回使ったら捨てること。替えはいくらでもある』

『血のついた手袋は使用後、そうでない手袋も即日廃棄すること』

『薬は飲み残しをさせないこと。薬用の水は必ず未開封のものを使用すること』

という病院に残された注意書きと合わせ、

(変なとこでジャップは潔癖なんだな)

と、そう思っただけであった。

1970年代になって院内感染が知られ、注射針の使い回しや院内の衛生管理が見直され、

やっと1942年のガダルカナル島の日本軍野戦病院の先進性に気付くも、

当の日本本国では、ごく一部を除いて欧米よりもさらに知識が無かった為、

1942年の先進性については疑問に思われた。

(一部は陸軍の資料から謎の補給基地の存在に辿り着き、さらに悩む事になる)


『ガ島で一番贅沢なのは病人だ』

と言われたように、病人食も改善された。

正確には病人食ではなく、栄養失調で嚥下も出来ないような衰弱した兵士を

救済する栄養補給である。

衰弱が酷い者に対しては点滴をした。

喉が動き、飲み物は飲めるようになると、栄養剤やスムージーが飲まされた。

顎を動かせるようになると、薄い粥や、未来のゼリーが食事に出された。

甘い物も出され、汁物も多く、その上でスポーツドリンクやサプリメントも出された。

「門」付近の陣地の兵士は、満腹の食事を得られてはいたが、

基本「栄養重視」で、「他の兵士も待っているから食事に時間をかけない」、

そして「本国の記念日とかでない限り、甘い物は無し」

特例が無い限り栄養ドリンクは士官のみ、と贅沢は出来なかった。


日本軍としては、栄養失調で死にかけていた自軍兵士を、戦えるまでに戻せたのが

何より満足できる「門」のありがたさだった。

一度米軍と交戦し、敗れ、密林を彷徨い、飢えて死にかけ、そして復活した。

こうなったら「折角甦った兵士たちを、決して無駄遣いしてはいけない」と

現地部隊では考えるようになった。

退却するにしても、どこかで一度戦う必要はあるかもしれない。

だが、無用無益な戦いをして、大本営の立てた現場を無視した作戦などに従事させ、

折角の兵士たちを死なせたくなかった。


……だが、あの男がやって来て、台無しにしてしまう……。


台無しにはなったが、無駄にはならなかった。

ガ島からの生還者の報告は、陸軍軍医学校に反映される。

遅いながらも「熱帯性疾病対策室」が作られ、上記ペニシリンの他、

栄養失調時の回復マニュアル、蚊に対する根本的な対策、

主に便所の衛生管理について研究し、資料にまとめられた。

太平洋方面はともかく、ビルマやインドシナ戦線で一部が役立った他、

戦後に進駐軍が資料を押収し、その後のベトナム戦争での疫病対策に利用したり、

日本の南洋諸国への国際支援活動において役に立った。


こちらの世界の日本は、一部の医療において「門」の向こう側の日本よりも進歩した国となった。

法的に無理してでも救援を行った者たちが知れば、わずかに胸を張れたかもしれない。

コンビニ飯や、既に概念の存在した兵器に比べ、

「餓死・病死よりも戦って死んでもらう」為の最大の支援・医療。

これは本編で書いた高血圧と脳出血の関係とか、衛生意識の差とかで、

少しでもその知識を生きて日本に持ち帰ったなら、与える影響も大きいかと思ってました。

エンディングの一個で考えていた

「この世界の医療は、支援をした世界より進歩することになった」

というものを、一部こちらで書いてみました。

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