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コンビニ・ガダルカナル  作者: ほうこうおんち
終章:「門」の向こう側とこちら側と
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あちら側の世界:大日本帝国1943~1946年

1943年2月2日 「門」のあちら側の世界より5日早くケ号作戦は終了した。

数千人、運命が変わった日本人が生きてガダルカナル島を脱出した。

しかし、それが太平洋戦争の終了では無かった。

ガダルカナル島撤退を巡る海戦で米軍は不利になった。

それがゆえに、ニューギニア戦線が長引く羽目になった。

アメリカ海軍の作戦計画見直しもあって史実より3ヶ月半長引き、その分日本軍の死者が増えた。

……まるでガ島で助かった分を埋め合わせるかのように……。


トータルで同じ戦死者数とは言え、内訳が異なれば歴史は異なる。

歴史とは人が築くものであり、数字が築くものではない。

だが、かつて「門」の向こうからもたらされた「物」は、

歴史改変によって史実より長引いてしまった南方での戦いにおいて

「歴史の修正作用」か何かに飲み込まれていった。


日本軍の補給能力の低さは、かえって酷いものになった。

ガ島からの生還者と、疫病克服した者の多さが、ニューギニア戦線での

補給について鈍感さに繋がってしまった。

彼等は「また『門』が現れて、同じ日本を救ってくれる」と甘く考えてはいなかった。

しかし、どこかにその油断があったのかもしれない。

米軍の圧力が一時的に弱まったこともあって、

甘い補給計画で、より深入りする作戦を立ててしまった。

アメリカ軍はガ島で苦戦をした経験から、より準備と装備を充実させた。

侵攻速度こそ遅くなったが、新型戦車、新型戦闘機を配備し、重厚な攻めを行った。

暗視装置を配備された爆撃機隊のうち、第705航空隊は1944年まで戦い続けた。

ここは無理やり陸攻から九七式艦上攻撃機に機種変更されたりしたが、

「夜戦の名人集団」として重宝された。

彼等は徐々に消耗していき、1944年7月25日に米艦隊に夜間空襲を仕掛けるが、

最早戦果が上がらず、同年10月1日をもって解隊した。

新型暗視装置は、この時期には全てが失われていたか、機能停止していた。

第701航空隊は九六陸攻が今次大戦では既に旧式化していて、ケ号作戦から2ヶ月後に

解隊されて乗組員は他の航空隊に転属となり、歴史の中に消えていった。

また第751航空隊もこの海域で戦い続け、激しい消耗の挙句、基地に空襲を受けて壊滅した。

「日本軍は夜間でも強力な空襲を行う」という評価は、アメリカ軍のレーダーをより発達させ、

近接信管付き対空砲との連携射撃、夜間戦闘力をより強化させる結果となった。



1943年3月2日 ビスマルク海:

駆逐艦「荒潮」「時津風」「白雪」は、かつて「門」から得たソナーと魚群探知機、

水上レーダーを帰国後にしっかりした装備として設置しようとしていた。

短艇に設置し、それを着水させて索敵するというまだるっこしい方法を嫌っただけで、

視覚的に分かりやすいソナーと魚群探知機については必要と感じていた。

だが、その設置はかなわなかった。

ダンピール海峡にさしかった輸送船8隻を護衛する第三水雷戦隊は、

アメリカ陸軍航空隊の猛爆撃を受ける。

この日使用された反跳爆撃(スキップボム)に、輸送船も駆逐艦も大損害を受けた。

「白雪」には第三水雷戦隊司令官木村昌福少将が座乗していたが、

木村少将も反跳爆撃を受けて負傷、「敷波」に旗艦を変更後に沈没した。

「荒潮」は航行不能となり、3月4日にとどめの一撃を受けて沈没した。

「時津風」は被弾し、放棄された。

だが沈没していないことが分かると、中の暗号書と「門」から得た新型装備を取り戻そうと

伊17潜水艦が奮闘したが果たせず、暗号書も新装備も3月3日に米軍の爆撃で沈没した。


駆逐艦「長波」はビスマルク海の戦いに参加しなかった。

この艦は1943年3月17日に舞鶴に入港し、「門」から得た装備をあるべき場所、艦底部に設置した。

もう短艇を着水させ、停止して索敵する必要は無くなった。

この艦はもう一つの「ケ号作戦」、即ちキスカ島撤退作戦にも参加し、成功させる。

水上レーダーは、濃霧の多い北の海域で大いに役立った。

「長波」は水上レーダーと水中のソーナー、魚群探知機を使いこなし、日本海軍では有数の

潜水艦狩(ハンターキラー)り」を成功させた。

しかし、「門」からの装備は「対空」のみ欠けていた。

わずか半月の補給ではどうにもならなかった。

「長波」はトラック諸島空襲で損傷した他、1944年の「多号作戦」即ちレイテ島救援作戦で、

米艦載機の攻撃を受けて撃沈された。


1月に「妙法丸」を沈めなかった功労艦「時雨」は1943年2月20日に佐世保へ帰投し、

レーダー、水平ソナー、垂直ソナー(魚群探知機)の取り付けを行った。

「時雨」は未来世界の装備を活かし切った。

1943年いっぱいのソロモン海での一連の活躍は見事なものだった。

(サラトガ被雷等で米軍の攻勢が控えめになってしまったこともある)

ただし、対空レーダーがもたらされなかったこと、水上レーダーは射撃管制は出来なかったこと、

それは「未知の力を有した奇跡の艦」たる「時雨」を戦勝の立役者にはさせなかった。

対空・対水上でレーダー連動出来ていたならば、せめて「長波」「雪風」とデータ連携出来たら、

この海域での勝利を引き寄せられたのかもしれない。

「時雨」は1945年1月まで戦い続けた。

ヒ87船団を護衛し、1945年1月24日にたった1隻でアメリカ潜水艦隊の群狼戦術(ウルフパック)に立ち向かい、

「史実」より敵潜水艦に打撃を与えつつも、ここで力尽きた。


最後の1隻、「門」からの新装備を受領した駆逐艦「雪風」は、ビスマルク海海戦を生き延びる。

その後も南方で行動し、本土に帰還して新装備を設置出来たのは1943年6月1日以降となった。

そして「雪風」は生き残った。

新装備を活かし切ったわけではない。

水上レーダーは1944年のレイテ沖海戦の際に被弾し、修復不可能となった。

ソナーも1944年のヒ87船団護衛任務前に故障し、修復出来なかった。

この時、仮に「雪風」の対潜装備が万全で、「時雨」と共に戦えていたならば、

両者ともに米潜水艦隊を連携で倒して生還出来たかもしれない。

戦後、賠償艦として連合国軍に引き渡される「雪風」は、新型装備は全て撤去していた。

魚群探知機だけは、密かに保管され、捕鯨船団に移し替えられたものの、やがて消息不明となった。



1943年2月 東京:

帰国した辻政信は、独断専行のガ島第三次総攻撃の責任と、

ケ号作戦における功績大なるを引き換えとして陸軍大学校教官に異動した。

この時、持ち帰った3機の無人偵察機を陸軍参謀本部で披露した。

陸軍は喜んだ。

そして陸軍航空技術研究所で徹底的に分解し、研究をしたが、再現出来なかった。

素材からしてどう作っているのか、まるで分からなかった。

強力なモーターとプロペラは理解出来たが、それを操縦し、写真撮影する部分の制御装置は

全くもって未知の部品であり、壊した結果、もう使用不可能となってしまった。

そこで、3機のうち1機のみを使用とし、残り2機は予備パーツとされた。

操縦士の市岡曹長は昇進し、少尉となった。

だが、陸軍では「画期的ではあっても、再現も量産も出来ず、共食い整備でしか維持できない」

無人偵察機を持ち帰った辻政信の功績は、次第に評価の低いものとなっていった。

無線機も、基盤部分が理解出来ず、さらにデジタル暗号化について誰も説明出来なかった。

これは1基を資料として保存し、残りは各戦線に送り、湿気や砲爆撃で故障するまで使う事とした。

功が相対的に価値の低いものとなって焦った辻は、

対蒋介石政権講和を東條に進言したりして、東條に嫌われ、ビルマに飛ばされる。


1944年7月 ビルマ:

この戦場でイギリス軍は、しばしば上空に不思議な機体を目撃する。

人が乗るには小さく、それが現れた後の日本軍は「布陣を見通したような」的確な攻撃をする。

イギリス軍はそれを「白い悪魔」と呼ぶようになった。

イギリス軍でも鹵獲の意見が出たが、その機はどうも1機しかいないようで、

戦局に決定的な影響は与えないと見られた。

「無理をする必要は無い。あれが居ても、最終的な勝利は変わらない」と判断された。

無論、隙あらば鹵獲ではある。

戦局はどんどん苦しくなっていった。


1945年3月27日 イラワジ戦線:

最後のドローン操縦者市岡中尉(死後二階級特進で少佐)は、

寝返ったビルマ国民軍に背後から撃たれ、日本に帰れずに異郷の地で死んだ。

既に最後のドローンは、バッテリーが消耗し切って、フル充電でしてもかつての半分しか

滞空することが出来なくなっていた。

部品も既に底を尽き、代用品で何とかなる部分は直すものの、換えの無いものは

そのまま使用し続けていた。

ドローンは着陸し、充電を行っている最中にアウンサン将軍のビルマ軍から攻撃を受けた。

ドローンはビルマ軍の手に落ちた。

だが、彼等はこの無人機の価値に気付かなかった。

銃弾を受け、プロペラが破損し、かつては「白い悪魔」と呼ばれたその機体も泥に汚れた

「謎の素材」でしか無くなっていた。

イギリス本国情報部は、無人小型偵察機の価値を認め、

現地部隊に「何としても確保して欲しい」と依頼していたが、

それは英軍からビルマ軍までは伝わっていなかった。

ビルマ軍の兵士は、そのボロ機械をイラワジ河に捨てた。

「門」の向こうから持ち込まれ、入手解析したらイギリスに新しい産業を創り出したかも

しれない未来の機械は、戦場の混乱の中で泥の河の底に沈んでいった。


辻政信はイラワジでビルマ軍の寝返りに遭った後、脱出して第18方面軍高級参謀となり、

さらにバンコクに逃げのび、そこで終戦を迎える事になる。

そして「国家百年の為、潜伏する」と言い残し、消えた。



ケ号作戦指揮官田中頼三少将は、その後不遇であった。

1943年2月、ケ号作戦終了をもって第二水雷戦隊司令官を解任された田中は、

1943年3月より舞鶴警備隊司令官・舞鶴海兵団長に補せられた。

海軍には、陸軍から「辻政信が怒っている」と苦情が寄せられた。

海軍内部でも、ケ号作戦参加の将兵から「長波は作戦中沖合で停泊をしていた」と言われ、

「あの司令官は我々に行けと言うだけで、本人は沖で釣りをしていた」と批判された。

田中の幕僚に聞き、決してそうではなく、対潜、対水上を厳に警戒していた事が分かるも、

将兵からの批判に陸軍からの苦情で、彼は第13根拠地隊司令官に左遷される。

この第13根拠地隊の在地はビルマであった。

奇しくも辻政信と田中頼三は、同じビルマに赴任していた。




1945年8月15日 日本降伏。

原爆投下、ソ連参戦というものは変わらなかった為、結局この日に終戦を迎えた。

ただしニューギニア戦線等が遅れた為、米軍の飛び石戦術は歩幅が大きくなり、

史実より玉砕する島が減ったり、呉空襲の日がズレて何隻か戦艦が生き残ったりした。

戦艦は南方からの復員船として使われた後、米軍に引き渡され、核実験で「長門」と共に沈む。

占領軍は戦争犯罪者を裁く「東京裁判」を始める。

これと同時に、ガダルカナル島攻防戦の際に日本軍で見た謎の物体について、

陸軍情報部及びNACA(国家航空宇宙諮問委員会)を挙げての調査が始まった。

第8方面軍司令官今村均陸軍大将、南東方面艦隊司令長官草鹿任一海軍中将は、

「部下に責任は無い。全て私を罰すれば良い」という高潔な態度であったが、

米国が最も知りたかったガ島の謎の物資については知らなかった。

知っていても答える気は無かったかもしれない。

ただ、「知っているかもしれない」という希望からアメリカは、今村を死刑にしようとした

オーストラリアに手を回し、彼と彼の部下たちを早期に東京に召還したりした。

その他、病床の元第17軍司令官百武晴吉中将や、元第8艦隊司令官三川軍一中将にも

事情聴取をしたが、肝心な情報は何も得られなかった。


何も情報を得られず、イラつき始めたアメリカ軍の前に、あの男が現れた。

「吾輩がガダルカナルで指揮をした。吾輩に聞け!」

それはバンコクで

「国家百年の為、潜伏する」

と言い残して行方不明になっていた辻政信であった。

彼は、肝心な事ははぐらかしつつも、かつての戦場を自ら案内し、

いずこかの世界から抗生物質や食糧を得ていた、新型軽機関銃は何度も要望したが

撤退1月前まで得られなかった、小型偵察機や重機関銃は鹵獲したものだ、等

本当と嘘を織り交ぜて情報部を混乱させた。

そして、物証としてガ島において使用できなくした機械の破片、半導体の残骸等や、

「仏舎利」で輸送した為消滅していない物資の一部プラスチックごみを渡したりした。

その見返りに己の戦犯指定を外させたり、発生した国共内戦における米軍の

強い介入を要請したりと、翻弄し始めた。

辻は、かつて「門」であった洞窟まで調査団を派遣し、別世界との遭遇を

さも自分が立ち会ったかのように語った。

だが、別な日本軍元兵士への聞き取りとの照合で、辻の嘘の数々が明らかになった。

第25師団が捕らえた捕虜が言うに、謎の日本軍の補給基地があり、大量の補給物資があったという。

さらに、米軍を混乱させた「日独伊三国同盟機甲師団」の策を立てた張本人が

辻政信と聞いて(本当の本当は違うのだが)情報部は警戒を強めた。

この期に及んで米軍を振り回している辻政信を、GHQはこう評した。

「戦争を楽しんでいる。第三次世界大戦さえ起こしかねない男」と。

彼はやがて暗殺対象、もしくは「謎」を聞き出す為の捕獲対象となる。

(続く)

感想ありがとうございます。

本編終了後、すぐ「番外編」を何部かやって、それで完結にします。


この回、人の「その後」というより、持ってった機械の「その後」って感じになりました。

市岡曹長は最初は生きて日本に帰る予定でしたが、

確かに日本に一回生還したものの、ドローン複製出来ないなら、

その操縦者を軍は手離さないだろうなと思い、第2師団のその後を調べたら

ビルマ戦線に行ってたので、ここでドローン共々さらばとなりました。

彼の分まで、奴は生き続けまして…。


今日はアメリカ側の「その後」もアップします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] つ、辻ェ……
[一言] この世界の辻ーんはこちらの世界とはちょっと違う味付けで戦後フィクションの世界を活躍することになりそうですねw
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