辺境走る錬金城
時刻は昼。太陽が中天に輝く頃。
布団の中にいながらセツナは思った。
あたまがいたい。
「やっぱ飲みすぎだったんだよ師匠。ほら、水」
「ぐぅ……」
布団から手だけを伸ばして、弟子のカナンからコップを取る。
口につける前にすん、と鼻を鳴らして臭いを嗅いで──。
(毒ではない、か)
セツナは、夕べの酒宴を思い出した。
冒険者に向けた酒は、酒精が強いものが多い。《適応》は肉体を強靱にする。その一環として、酒精への耐性もまた身についていくためだ。
しかし、冒険者が二日酔いと無縁かと言えばそうではない。
強くなった肉体を試すように彼らは酒を呑み、酒に溺れ、結果地獄のような二日酔いに苦しむのだ。
つまり──あやつと一緒で楽しいからと、ちょっと呑みすぎてしまった。
コップの内の水鏡には、顔色の悪い女の顔が映っている。
セツナはくるりと優美にコップを回し、一息にその中身を空にした。
(あやつであれば。ここで毒を盛ることだろうに)
「また水汲んでくるか?」
「……ん、ああ……。たのむ……」
その悪辣さを見習えと言ったではないか、と思いながら。
二日酔いに苦しむセツナは弱々しい手つきで、弱い弟子へと空のコップを差し出すのだった。
僕は平穏無事な生活を日々希求している。
激しさはいらないし、痛みや恐怖はもってのほかだ。
だというのに──。
「さっき退けたからって。今度は10体で掛かってくるとかあります?」
今この瞬間、布団の中にいる相手を全員妬んでもいいんじゃなかろうか。
それくらいの権利はあると思う。
走る。
避ける。
壁に張り付く。
「はいー。ここで油を投下しますー。これでお料理『からくり魔獣の溶鉱炉煮』の完成ですねー」
はい、戦闘終了。
「ふう……」
走って飛んで跳ねた僕は、10体の魔獣を一度に片づけながら、今この瞬間走って飛んで跳ねずに布団にいる相手──もしいるのならだけど──に呪詛の念を送る。大岩に足の小指とかぶつけてしまえ。
だって、僕がこんなにも多くの魔獣と戦っているのに。そういうのずるいし。多分きっと今もうお昼は過ぎてると思うし。昼まで布団の中とか贅沢性が高い。なにせメリーが許してくれないからね。ずるい。
僕は目に見えない相手に一方的にずるいなーと思いながら、次に出てきた何体かを処理した。炉の光で、どうも7体ほど来ていたことがわかった。
……いや、まあ、何体でかかってきても一緒ですけど。僕は噛みつき草と極楽蜘蛛の糸を伝って天井を走るルートを構築したので、上手く誘導して油で滑らせて落とすだけだった。
いくら数が増えようが、最初に僕に触れる相手は最前列にいる相手だけだし。前後左右天地の六方向に気を配るのはいつもと変わらない。大事なのは、できるだけ体力を使わないことだ。
「お、次は15かな? まあ、いくら来ても油撒くんですけど。そーれ」
つるーん、と滑って溶鉱炉まで流れていく姿を僕はぼんやり眺める。
もちろん、これが知性と悪意を持った人間だったら話はまた色々と変わってくるけど。床に油を撒くと、面白いくらいひっかかってくれるような相手はいくら数がいても一緒なんですね。
対応手段を確立するまではともかく、確立してからは作業か何かだとしか思わなくなった。
「ここまでくると『溶鉱炉落とし師』とか免許が必要になってくるかもしれないなぁ。レベッカさんにでも聞いてみようかな。はい油っと」
それぐらい作業で、もはや業務とすら表現していい状態だった。
まあ、まともに相手したら複数の意味で骨が折れそうな物量だけれど。平原でよーいどんで戦えってなったら、僕はまあ……せいぜい20秒保つか保たないかといったところだろう。僕以外の一般的な冒険者──ほどほどに乱暴で、ほどほどに腕っぷしが強くて、なんか僕とかかわり合いになることを避ける人らだ──であっても、傷のひとつやふたつは負うんじゃないかな、って感じ。
「あぶらー」
いかにまともに戦わないか。
僕の戦い方とは、即ちそこに尽きる。僕は弱いので、相手と同じルールで戦ったら最初から勝ち目がない。
まあ。
この戦法に問題があるとすれば。
「換気が悪いから何やら甘くて美味しそうな匂いが充満して逆に気持ちが悪いことと、元々この高級油はスメラダさんに渡すおみやげのつもりだったってことかな」
僕らの宿屋の女主人が食材を買い揃えるために借金したって聞いたときは、まあ正直、耳を疑ったよね。僕がここでオイルをどばどば使うと、結果スメラダさんが同じ過ちを繰り返すんじゃないかという危惧はある。
なんかいかがわしいメイド服を着たインちゃんは涙目で僕に何度もありがとうって言ってくれてたけど、それに対してスメラダさん、なんか謝罪の言葉も感謝の言葉もぽわぽわしてたからな……。
おっと敵。はい油。あーまた空になった。僕は空箱をぽいっと投げ捨てた。
……しかし、この数すごいな。なんか心なしか、《機関室》に近づくにつれて警備がどんどん厳重になってきているような?
まあ少なくとも。次々と僕に集ってくる魔獣たちには、もう『都市』という建前を守る気はなさそうだった。
* * *
* *
*
噂というのは、人の多いところに集まる。
どうやらそれは、貴族でも市民でも変わらないらしい。
市井に混ざることには発見がある。ステラは思った。
(いい宿が取れたわね)
ステラの宿の床板は薄く、客の喧噪がそのまま聞こえてくる。
ステラの素性をいぶかしみもせず、いつもの態度──それは雑と表現してもいい──にて二階にそのまま持っていったこの宿屋は、一般的には愚鈍な、質の悪いものと分類される。
しかし、王都の政情を──ひいては自領の取るべき方針を探ろうとするステラとしては、悪くない立地だと言えた。
宿屋の一階には、場所を問わず、飲み屋が併設されていることが多い。
元々、酔いつぶれた客を収容して追加料金を徴収することが目的なのだろう。商人というのは、場所を問わず商魂たくましいものだ。
ステラは、彼らの経済活動にかける情熱を高く評価している。貴族の中には彼らを軽視する者も少なくないが、彼らを抱え込むことは領地の発展へと繋がる、とステラは考えているのだった。
『そういや、なんか西に大きな亀裂ができてたらしい』
(あら?)
ステラは床に耳を立てる。
薄い床板ごしに、客たちのざわめきが聞こえる。
『南じゃないのか?』
『北って聞いたぞ』
『東だろ。俺は見てきたぞ』
『お、あんた旅人か』
『ああ。西の向こうまで続いてた』
(ふむ。情報が錯綜してるわね……)
貴族制社会において、マスメディアという概念は発達しづらい。為政者からすれば、市民は無知なままでいた方が統治に都合がよいためだ。
そして、貴族の多くは自分の尻尾を噛まれることをよしとしない。
故に、情報は人と人のやりとりによって作られることになる。
『騎士団長の《抜かずの刃》が抜かれたって話だ』
『近衛騎士だぞ? 仕事してんのかよあいつら』
『いつも王城の中だもんな』
『それが、今日は不在だそうだ』
『女でも買いにいったんじゃないか』
『全員で連れだってか?』
『おうとも。名誉ある近衛騎士様だからな』
『ちげえねえや!』
げらげらと笑う一団。
(もう。あまり行儀がよくない話題なのだわ)
耳をそばだてる自分を棚に上げて、ステラは話者に悪印象を抱いた。
(けれど……そうね、彼らの処遇というのは、シアと話した方がいいのかもしれないわ)
思春期ただ中のステラには、性風俗に対して、年相応の少女なりの嫌悪感がある。
しかし、先の殺人鬼騒動の時に、街娼が何名か犠牲になったことも記憶に新しかった。
彼ら娼婦は『いないことになっている』人々だ。しかし、現実には存在している。
……領主代行として、使用人たちを侍らせていた頃には。そんな人々が存在していることなど、想像すらしていなかった。
ステラは、彼らの話をじっと聞いている。そうして、それに合わせて思索を巡らせる。
『聞いてくれよ。ウチの店でまた盗みがあってな。とっ捕まえたところ、灰髪のガキでよ』
『どっから湧いてきたんだろうな』
『メシどきに汚ぇ話すんじゃねえよ。溝鼠髪とかよ。ありゃシラミの巣だろ』
(…………そういう、ものなのかしら)
『小麦の値段が上がったよな』
『パンギルドの連中、また石灰を混ぜてるって話だぜ』
『白なんざ貴族様の食いもんだろ。俺らにゃ関係のねえ話だ』
(同業者組合の扱いも、なかなか難しい問題ね。ウチでも……混ざってるのかしらね、石灰。もちろん、彼らの噂話に根拠があればだけれど)
『先のどっかの領主の火事、犯人いまだに捕まってないよな』
『どこだったか、田舎の、小さい……』
「っ──田舎でも小さくもありませんっ!」
思わず口についた言葉を叫んで、はっと気づいてステラは形のいい唇を押さえた。
『何か言ったか?』
『いや?』
『上の階に泊まってるのがお盛んなんだろ』
『ぎゃはは!』
(っ……! ……いいえ、落ち着くのよステラ。これは市井の者たちの言葉。流しましょう)
『ま、誰かを犯人にされるよりゃマシじゃねえか』
『栄えある王都タイレリアの憲兵様の得意技だからな』
『捕まえても捕まえても、行方不明になるガキゃ減らねえもんなぁ』
『叩いて埃が出なきゃ、窓枠から埃を持ってくりゃあいい』
『おいおい、お前らが犯人にされても知らねぇぞ?』
(……憲兵隊にせよ、近衛騎士にせよ。市民からの評判は、あまり好くないのかしら。それとも彼らのガラが悪いだけ?)
*ドアの音*
『お初にお目にかかります。あたくし、旅の吟遊詩人にございます。王都に来るのは数年ぶりで』
吟遊詩人と聞いて、ステラは耳をべったりと床に擦りつけた。
彼らは旅で見聞きしたものを伝える、情報通としての側面がある。
そして、ステラは詩曲も好きだ。
『ほー。すると、あんた、外の大きな亀裂って見たか?』
『ええ。ええ。北は奴隷を抱えるルクロウ、南はロールレア家のデロル。こないだ屋敷がばあんと燃えたとこでさぁね。そっからそこまで、一本線を引くように、びしぃっと亀裂が入っとりました』
『すんげえ長さだな』
『なんだってそんなモンが?』
『いやぁ、あたしもそこまでは。鬼でも魔でも来なすったか、あるいは抜かずの剣輝を審らいたか。天翔る流星が地面を走ったって言ってる者もござんすね。ま、噂うわさは数あれど、誰も仕手は見ちゃいないようでさぁ』
『朝にはもうあったらしいからな』
『やっぱ魔獣じゃねえか。グランタイレルみたいな……』
『や、や。そんなことより、どうぞ、あたしのお歌を聞いておくんなさい。何せあたくし、路銀が底にぺったりと貼りついちまってござんすからね。こいつがないと飯にもありつけない』
『どんなの歌えんだ?』
『ここ、王都にちなんだ曲なら例ゃぁ《タイレリアの暗殺者》が──おおっといけない渋面だ。こいつぁ失礼いたしやした。あたくしのおハコを披露させていただきやす』
す、と呼吸の音が、ステラの耳にはっきりと響く。
『昔々のあるところ。一人の男が、遠い未来に待つ破滅を予言し、そいつに抗おうと牙を研ぎやした。鉄で出来た、体積120万立方キロメートルの鉄くれ。術者が死してなお動く、自己複製機能を備えた錬金術の秘奥の秘』
ぽろん、
ぽろん、と。
リュートの神秘的な音色が響く。
『曲目は──《辺境走る錬金城》』
詩人が曲名を告げる時分には、酒場の中にはもう誰も、馬鹿話をする者はいなかった。
さて。
あれから何度か格闘をして、空箱を7つほど床に投げ捨てて、僕はついにカルスオプトの中枢、《機関室》の前に到着した。
入り口が《銀の扉》になっていないかどうか、僕は慎重に四隅を確認する。以前、メリーに連れられて入ったダンジョンで一度あったパターンだった。
足を踏み入れた途端に迷宮の主から攻撃を受ける、なんてことは御免だ。
十尺棒、ヨシ。右ヨシ左ヨシ前ヨシ後ろ……っと危ない!駆け寄ってきた相手がいましたが、油を撒いていて正解だった。魔獣はといえばつるりと滑って機関室の床に痛切なキスをしながら頭が壁の間の歯車に挟まれてぎいぎいと音を立てて僕は耳を塞ぎました。
「……よし」
頭部をなくした魔獣。その貴い犠牲によって、この部屋に足を踏み入れた直後に襲われることはないことが確認できました。
初見殺しって怖いからね。
確認が取れたので僕は当然そのまま入る──前に十尺棒で二度三度四度五度と安全確認を繰り返す。
ヨシ。
ヨシ。
ヨシ。
ヨシっ。よーし入る。覚悟は決めたぞ!
「さあ来い、すぐ来い、何でも──いや僕の対応できる範囲で、その範囲で何でも来てくれると嬉しいかなってのはあるけどまぁ──おや?」
ランタンの火で照らされた《機関室》。
銀の扉どころか、めぼしいものが見あたらない。
そこは空洞だった。
「……あれぇ?」
元々《機関室》を埋めていたはずの《階差機関》が──つまり、機工都市カルスオプトの存在意義すらも、見あたらなかった。
……何かがおかしい。
《階差機関》は世界の救済手段とやらを演算する装置で、この馬鹿でかい鉄くずは全部それを動かすためのもので、足先を動かすことすら計算のためだったはずだ。
──じゃあ、今。この亡骸は、何のために走ってるんだ?




