深夜2時の《翠竜の憩い亭》客室
メリスの願いは、彼と出逢ってから今現在に至るまで、ずっと変わらない。
キフィの──キフィナスの、近くにいたい。
「すぅ…………、すぅ…………」
宿屋のベッドで、キフィナスは安らかに寝息を立てている。
胸が上下するのを見る度に、メリスの胸にはあたたかいものが流れる。
それは、《適応》を重ねて新陳代謝を止め、久しく血を流すこともなくなったメリスにとっての血潮だった。
《適応》を重ね続けたメリスが、存%スケールを限りなく縮めて日々を過ごすことは、言ってしまえば天突く巨人が小蟻と歩幅を合わせることに等しい難行だ。
ひとは《適応》を重ねるたびに、ひとでなしになる。
ダンジョンでしか呼吸できない感覚に晒されて、次第に人間性が削られていく。
Sランク冒険者がタイレル王国にたったの4人しかいない理由は、優秀な冒険者たちがダンジョンに魅入られて帰ってこれなくなることにある。現に4人の内2人は、ここ半年冒険者ギルドに姿を見せておらず、除名の日も近いだろう。
──彼らは、ダンジョンとそれ以外を天秤に掛けて、ダンジョンが勝ってしまった人たちだ。
ダンジョン以外のものを削ぎ落としてしまった人たちだ。
生きていくこととは、内に抱えた多くを少しずつ削ぎ落とす過程である、とメリスは思う。
辺境の旅は、元来無口無愛想無表情だったメリスの内面にも影響を与えた。
当時は寝食もまだ必要だった。
当時はキフィナス以外とも、もう少し話そうとしていた。
当時はもう少し、だいじなものが多かった。
草原をそよと吹く風の音色が好きだった。
耳の感覚は鋭敏になって、よけいなことばかり聞こえるようになった。
木漏れ日が肌を撫でる感触が好きだった。
全身の触覚は鈍感になって、そんなものは感じなくなった。
日向で寝ころび夢見ることが好きだった。
体に睡眠は必要なくなって、夢は見ることができなくなった。
キフィの、色んな表情が好きだ。
笑った顔。怒った顔。泣いた顔。楽しんでる顔。
表情豊かな彼の、なにもかもが大好きだ。
キフィと、話すことが好きだ。
昔のキフィは素直で優しかったけど、今のキフィは生意気で優しい。
メリスが口下手な分、二倍、三倍と喋る彼の声を、朝から晩まで、いつまでもずっと聞き続けていたい。
キフィのそばにいることが大好きだ。
──これだけが、今もメリスの胸に残っている。
だから、メリスは多くの冒険者が囚われるダンジョンに打ち勝ち続けている。
メリスには、息ができないとか、上手く歩けないとか、力の加減ができないとか……そんなつまらないことを、ぜんぶ塗りつぶすほどの強く激しい衝動があるのだ。
──メリスは、もっと強く、もっと激しく……もっと、ぎゅっと。
大好きな男の子に、抱きつきたい。
ずっと昔──辺境の廃村にいた頃から、メリスが抱きつくと、キフィナスは照れ隠しに『痛いよ』と言って体をほどいていた。
もちろんメリスには、今のキフィナスが痛がっている時の、そのほとんどの場合が照れ隠しではないことはわかっている。
……そして、ほんのすこしだけ力をこめたら、胴体を二つに割ってしまうことも。メリスは理解している。
──だけど、自分の衝動を止めることができない。
どうにか抑えて、抑えて、抑えて──それでも、ふとした瞬間に触れたくなる。触れれば抱きしめたくなる。抱きしめると痛がる。いつもの無表情で、それを見て見ぬふりをする。
……キフィがずるいなら。メリスも。ずるい。
メリスがキフィのことを世界でいちばんよく知っているように、キフィも、メリスのことを世界でいちばんよく知っている。
だけど、キフィはどれくらい、メリスのずるさを知って──許容してくれるのだろう。
彼が痛みを嫌う理由を、メリスはしっかりわかっているはずなのに。
優しさに甘えて、傷つけてしまう。そのたびに、メリスも体のどこかが痛む。受け入れてくれないんじゃないかと、怖くなる。
痛覚など、恐怖の感覚など、とうの昔になくしているのに。
「きふぃ」
メリスは耳元で囁く。起きないように小声で──あるいは、起きて、聞いてほしいのかもしれない。メリス自身にも、自分の感情の動きがわからない。
「めりは。いつまで。だいじょぶか。わからない」
メリスはいつまで、歩幅を合わせていられるのか。
メリスはいつまで、この衝動を抑えていられるのか。
メリスはいつまで、キフィのそばにいられるのか。
わからない。INTという数字に解答を与える効果はない。
わからないことがわかっているのに、……離れることが、できない。
メリスが厳しい姉として、キフィナスに日々稽古をしているのは『いざという時』のためなのに。
そんな時は来なければいいと。
キフィに降りかかること全部から、メリスが守ればいいではないかと、思ってしまうことがある。
……最近、キフィの周りに女の子が増えた。
レベッカも、セツナも、アネットも、赤いのと青いのも、桃色のも。キフィのことをしっかり評価してくれている。
きっと、みんなキフィのことが大好きになるに違いない。
メリスは姉としてとても誇らしい気分になる。
キフィより少し年は低いが、カナンという少年は昔のキフィに似てて、いい友だちになれるとメリスは思う。
最近会ってないが、レスターも悪くはない。メリスと並ぶSランクの冒険者だが、あれの人格は信用できる。あれは、ダンジョンと王姫とを天秤にかけて、王姫が勝る側──メリスの側だ。
元々、キフィは同性の友人を作ることが苦手だ。カナンをきっかけに、友と呼べる人がもっと増えるといいな、と思う。
──キフィの世界は、どんどん広がる。
卑屈な笑顔の仮面を被って、生意気な皮肉ばかり喋っていても、キフィがいい子なのはきっと誰だってわかってしまう。
だって、メリスはキフィを、一番よく見てきたから。わかる。
キフィは、世界で一番すてきな男の子だ。きっとみんなが好きになる。
だから、そんなキフィの世界にメリスが占めている領土は、きっと、これからどんどん小さくなっていく。
メリスは、それを、とても……、よろこばしいことだと、おもっている。
よろこばしいことだ。
よろこばしいと、おもわなければいけない。
「……ん…………、だいじょぶ……。だから……」
──穏やかなテノールの寝言が、メリスを落ち着かせる。
彼は、触れてしまえば壊れてしまいそうなほどに脆く、メリーにとってそれは誇張ではない。メリスは、この客室を物質世界から完全に隔離した後、《コn■ール》を用いて自らの存%スケールを下げた。こうすれば、無防備な状態であっても襲撃はされない。屋外ではできない荒技だった。
メリスは、寝息を立てるキフィナスを見る。
メリスはそっと、やわらかな手のひらを重ねた。
彼の眠りを妨げないように、おなかを重ねた。
最後に胸を合わせて、心臓の鼓動を重ねた。
下から寝顔をのぞき込むと、まぶたの下で眼球が動いている。夢を見ているのだろう。どんな夢を見ているのだろう。
夢の世界では、キフィナスの隣に、メリスの居場所があればいいなと思った。
いつもメリスが、メリスこそがキフィの隣にあればと思ってしまったので、思考を一時停止してキフィの寝顔を眺めた。
「ぼくの……しょう、り……」
──めりは。きふぃの隣に。いたい。
体を這いのぼって、耳元で、その言葉を囁こうとして──口にしたら、もう踏みとどまれない気がして、思考と言葉を止めた。
寝息と、心臓の鼓動以外に、この部屋から音がなくなった。
外界から完全に隔絶された、
深夜二時の、宿屋客室にて。
メリスは体を横たえながら、
傍らにある安らかな寝顔を、
朝日が昇るまで眺めていた。
「おはよう。メリー」
「ん」
「とりあえず……、そうだなぁ。その邪魔っけなちっさい体をどけて貰えると、僕としてはとても助かるかな。なんかね、起きあがれないんだよ。メリーは何でだか、わかるかなー?」
「のってるから」
「ああ、状況認識が正確でとても助かるよ。それなら、君がやるべきことはもちろん──えっいや降りてよ。邪魔だって。きみ結構重いんですっていつも言ってえっ重いほんとに重い。これいつ退きますか? ねえメリー? メリーさーん?」




