りょうり
「山歩きでは歩幅に気をつけて。大股歩きはバランスを崩す原因になりますし消耗も早い。少しペースを緩めましょうか。心配しなくても、老衰するまでには王都に着けますよ」
「野外でまず警戒すべきは虫です。野生動物は魔獣に比べれば遙かに弱い。しかし虫は小さく、毒を持っている可能性があります。冒険者と同じくらい有害なので、見つけたら殺しましょうね。ああ、冒険者も同じ対応ができればいいのに」
「ああ、この辺りに盗賊は出ませんよ。盗賊が構えているのは、関所の先です。だって、ここを通るのはよほど何もない人間ですから。そんな何もない人間を襲って手に入るのは、やせ細ってて不健康な生肉と《経験値》くらいだ。いくら犯罪者でも、生活がかかってる以上割に合わないことはしません」
先導する柔和な表情の青年は、いちいち慇懃無礼な態度と皮肉を交えた不真面目な表現をするくせに、お節介なくらいに周囲の説明し、自分たち姉妹を気遣ってくる。
少しバランスを崩しただけで手を伸べてくるし、喉が乾いてきたと思ったら水の補給を勧めてくる。疲れをすぐに見抜いて休憩を入れる。家人と比較しても過保護にすら感じるくらいだ。
その姿は姉妹に、どこか父親を──オーム・ディ・ラ・ロールレア・ソ・デロルを思わせた。
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ロールレア家は500年以上の歴史ある名門貴族の家柄だ。
迷宮都市の収益も大きく、伯爵位といえど、国内でも有数の権力者である。それ故に当主ともなれば多忙である。自身の領地の管理は代官に任せ、なかなか帰れない。
姉妹たちに浮かぶのは、いつも決まって、自分たちにそのことを謝罪をする父の姿だった。
「すまない。また、すぐに出なければいけない。今月は王都で大きな催しがあってね。私も出席しなければならない。迷宮都市の敵は、目に見えるものばかりではないのだ」
「いいえお父様。私たちのことはいいんです。お父様が領地のために尽力されていることは、私たちが一番よく知っていますもの」
「……ご不在の間、領地の管理はお任せください。お父さま」
「……ありがとう。おまえたちのそばにいてやれない、この身を許しておくれ」
都市の外──関所をくぐるまでのわずかな時間、馬を模したゴーレムの引く馬車の中では、三人だけの家族の時間がある。
オームにとって、二人の娘は亡き妻の忘れ形見であった。
オームの妻は、双子を産み落とした後に亡くなった。彼女を心から愛していたオームは、後妻を迎えることもなかった。
馬車の車窓から見える景色は、活気に溢れ、道行く者は皆笑っている。その光景を見るたびに、姉妹は父のことを誇りに感じられるのだ。
「おいで」
オームは、二人を抱き寄せ、頭を撫でる。
彼が最後に撫でた時から、また少し背が伸びている。この時期の子どもの成長は早い。
「私のステラ。意志が強くて前向きで、心優しい私の娘」
「はい。お父様」
「私のシア。冷静で思慮深く、誠実な私の娘」
「……はい。お父さま」
「自分になくて、相手にあるものを尊重しなさい。そうして、それを自分の強さにしていきなさい」
黄昏時の街は、黄金色に輝いている。
車窓から差す夕暮れが、姉妹の影をひとつに結んだ。
「きっと、おまえたちは元々、二人でひとつだったのだろうね」
そう言って、父は娘たちに優しく微笑んだ。
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「……姉さま。朝です。起きてください」
「ふゃぁ……。あら、夢? んもう。せっかくいい気分だったのに……」
ステラは、シアに揺すられてまどろみから目覚めた。
優しい夢を途中で中断させられた不満が、双子の姉の口をつく。
「もうちょっと寝かせてくれてもよかったと思うのだけど?」
「……善い夢見だったのですね。それは申し訳ありませんでした。ですが、いくら今は一時的に対等な立場といえど、姉さまは領主を継ぐのですから、威厳がなくてはなりません」
「シアはいつも真面目ね。その真面目さ、お姉ちゃんちょっと見習えないなぁ」
「……見習う……、姉さまも、お父さまの夢を見ていたのですか?」
「あら。シアもなのね?」
「……はい。……そうですね、それは、申し訳ありませんでした。姉さま」
シアが頭を下げると、セミロングの青い髪がさらりと流れた。
この髪色は、何もかも鏡写しのような姉妹の姿形の内、ごくわずかな似ていない部分だ。
「いいのよ。髪を染めないといけないし、早起きしないと準備が大変なのだって確かだもの」
体内の魔力を受けて髪は発色する。そのため、魔力の多寡によって染髪剤の効果時間が大きく変わる。
姉妹ほどの魔力の持ち主となると、朝に髪を染めても、夜には元通りの髪色になってしまうくらいだ。
なお、魔力を持たないキフィナスの場合、自分から落とそうとしない限り数ヶ月は色が保つ。
ステラは肩まで伸びる髪を手櫛で梳きながら、緑色のムースを髪になじませていった。
「久しぶりね、王都は」
「……ええ。お父さまと一緒に訪れたのは、もう何年前になるでしょう」
「この問題が解決したら。……お父様に、会いたいわ。会って、色んなことを話すの」
「……そうですね。滞在期間から、きっと会えると思います。会いま──」
「逃げてください! 二人とも!」
顔から笑みを完全に消し去った、これ以上なく真剣な顔をしたキフィナスが、姉妹のテントの戸を勢いよく叩いてきた。
「何があったの!?」
「──メリーが、りょうりを作り始めました!」
「…………えーと? それが、どうかしたのかしら?」
「なんと貴方たちの分まで作ってるんですよ!」
「ありがたいことだわ。感謝します。で、一体何を作っているのかしら?」
「りょうりです」
「……姉さまは、何を、作っているのかと訊ねているのです」
「だから、りょうり、としか言いようがな──」
「できた」
「嘘だろメリー……まだ一分も経ってないぞ……」
キフィナスは両手で顔を覆った。
一方、ステラとシアは、互いに顔を見合わせる。
「……要領を得ませんね。おまえ。まさかとは思いますが、ひとりじめしたいだけではありませんか?」
「いや違いますよ? 耐性のない人間に出すべきではないって、これは何ひとつの曇りもない僕の良心から出た行動です」
「できた」
外のプレッシャーが一段階増した。
「本当に申し訳ありません。僕は、僕の良心に賭けて、あなたたちを逃がしたかった……」
「このまま待たせるのも問題でしょう。すぐに行くわ」
そうして、テントから出た二人を待ち受けていたのは──紫色の、どろどろばちばち、ぎょわんめぎゃんした何かが入った鍋だった。
「……ご、ごめんなさい? こ、これは、その……、辺境の文化かしら? 初めて見たのだけど、……食べるの? どうやって?」
「すで」
「今回の奴は素手なのかいメリー」
「ん」
小さく頷いたメリスは、無表情のまま鍋の奥──紫色の何かに右手を伸ばした。
すると、『りょうり』と称する物体から二対の触手がぐるりと伸び、右腕の肘の辺りまでぐるぐると絡まる。
観察している三人は、紫の塊が小さな口らしき器官を形成して、か細い声で「タベテ」「タベテ」と鳴いていることに気づいた。それが知性の萌芽なのが、あるいは単なる鳴き声に過ぎないのかは定かでないが、いずれにせよ自殺志願者的な性向があるらしい。
メリスがそれを咀嚼すると、ぴゅぎ、という地獄めいた鳴き声が口内から響く。それは自死を望む出来損ないの何かがこの世界に最後に遺した断末魔だった。
食事とは、生命を奪い、自分の糧とする生物共通の生理的活動である。
生命を弄び、新たな生を誕生させ、それに逃れ得ぬ死の運命を課すのは、双子の知っている料理という単語の定義から遙か遠くに離れている。
──つまり、凄絶なる生命の冒涜の果てに生まれてしまったこれを、今から自分たちは殺してやらなければならないということだ。
「……おまえが逃げろと言ったのは、こういうことでしたか」
「今からでも遅くないですよ。ここは──僕が引き受けます」
「……そうなると、おまえが三人分食べることになるでしょう。私は引きません。姉さまは──」
「たべ、食べるわ? 妹が食べるのに、お姉ちゃんが食べないわけにはいかないもの! ……とっ!」
虚勢もまた勢いだ。ステラは勢いのままに紫色の物体に左手を伸ばした。
「いやぁ……はわはわするぅ……」
「……はわはわ……?」
「はわはわとしか言えないわこの感触!はわはわするっ! ええいっ! いただきま゜ッッ」
ステラが謎物体を自分の口に寄せようとした途端、紫の触手は自らの意志で口内に進入し、舌先で弾けた。
あまりにも食品のそれではない。
ステラはそのまま硬直した。
「……姉さま。ご立派にございました。死出の旅路、私もご一緒します……」
悲壮な決意を固め、姉と同様に鍋へと利き手を伸ばすシア。
手指に絡みつく触手の感触は、清水のような、粘液のような、砂のような──ただ一言で表すならば、姉の言う通り『はわはわ』だった。
明らかに食品ではない。わかっている。五感がそれを主張している。しかし妹として、最愛の姉の覚悟に殉じなければならない。
シアは全身に鳥肌を立たせながら、それを口へと運んでいく。
「ぴっ゜」
シアの時間も止まった。
「はあ……。止められなかったのは、僕の罪になるのかなぁ。なるよね……。いただきます」
キフィナスは慣れた手つきで名称りょうりを掴み、二回ほど殴って昏倒させてから口に含んだ。
地獄の黙示録のような狂乱と、天上の調べのような清廉さが混然と──けして一体とはならず、正反対の要素が激しい自己主張を絶えず続けている──して、キフィナスは目を白黒させた。
「相変わらず君の料理はパンチが効いてるね、メリー」
とはいえ、キフィナスはりょうりの扱いに慣れている。顔色ひとつ変えずに飲み干し、混沌を産み落とした張本人へ感想を送ることくらいは容易かった。
そして、その感想を送るという行為が、メリスの邪悪すぎる創作行為の熱を更に高める悪循環を引き起こしていることもある程度以上自覚している。
「癖がありすぎるけど、おいしいよ。例えるなら、口内で何かが暴れ回っているのにおいしいって概念がすべてを塗り潰してくるっていうのかな。とにかく、まあ、最終的な感想としてはおいしいよ。最終的な感想としてはね」
「よかた」
それでも、ほんの少しだけ顔をほころばせる姿は──キフィナスにとって、それは幼なじみの満面の笑みであり──多少の苦労なら買ってやろうと思えるのだった。
《スキル》の力によって、美味しいという概念で強制的にマスクしている"りょうり"と呼ばれたそれは、問題点にさえ目をつぶれば確かに美味なのだ。
だから、マイクロサイズの地獄が現出してなお、とても楽しく、おいしい団らんの時間であるといえた。
……そこに硬直している二人の犠牲者がいることさえ除けば。
「……そうね。美味よ。美味なのです。意味がわからないわ……!」
「あ、お帰りなさい。早かったですね」
「卵の殻みたいなザリザリした食感と、蜂蜜みたいなとろとろした舌触りが同時にっ、まったく同時に感じられるのっ! 味も甘くて辛くて苦くて渋くて酸っぱい! おかしいわ!これ絶対おかしいわ! 何がおかしいって、なんで明らかに異物なのに『美味しい』って感想以外が頭に浮かばないのっ!? うちのシェフが作るふわふわのオムライスも、ヒルディーリャ家のパーティで食べたロースト・バードビーフも、お父様と一緒に食べたショグ・ブラックプディングも! こっちの、このっ、美味しいだけの概念が殴って私の中の順位を常識を破壊しようとしてくるっ!!」
「……あー。どうも、メリーのりょうりに、あてられてしまったみたいですね。ステラ様は」
「なぜ私はこの紫色の、舌を這い回ったり破裂したりする、どう考えても食べ物じゃない何かに崇敬の念を覚えているのっ!? 美味しい! 美味しい! 美味しいって何!? このままではこの名状しがたい何かを讃える自由定型詩が口から流れ出しそうなの! これは私の意志!?」
「たまにクリティカルが出る。まあ一応、すぐに落ち着くはずですので。それまではどうか、見て見ぬふりをしてさしあげましょうね」
「ん。めり。やた」
「殺ってるんだよなぁ……」
キフィナスはいたたまれなさを感じ、《闇蝙蝠の翼暗幕》でステラの周囲を覆った。
「…………姉さま、なんとおいたわしい……」
「あともうすぐで王都ですので、小休止しましょう。えーと……、まあ、ちょっと経てば。きっとこう……元のステラ様に戻ってるはずですよ、たぶん。ええおそらく間違いなく」




