第三層・懐古回廊
流れるような黒髪の女が滔々と語る。
「特定の土地に囲いをして、「これは私のものだ」ということを思いつき、人々がそれを信じてしまうほど単純であることを見出した最初の人物こそが、まさに政治社会の創設者だ。
──この言葉は、どれだけ世界が巡っても変わらない真理だね。キミたちと出逢う度に、いつもそのことを考える。
このラーグでも、あるいはひとつ前でも、もしくは他の世界でも、草創期の文明発展は少数による多数の支配という形式を辿る。所有権とは、最も原始的な熱量のひとつで、これがなければ文明の推進力が足りないんだ。だから「最初の詐欺師」というものは普遍的に見られる現象なんだよ。
まあ、この世界では『自然状態』においても魔力の多寡という不平等が発生するが……勾配によって水が偏在するように、ヒトが生まれながらに平等な存在ではないということも、また普遍的なことだからね。その才覚の差、環境の差はどうしたって存在するものだ。それを均すことには大きな困難を伴う。だから、この格差に対して、社会というものは概ね二通りのアプローチを取る。すなわち是正するか、それとも固定化するかだ。限られたリソース資源をプレイヤーを増やすために使うか、それとも優秀なプレイヤーに多く配分するか、と換言してもいいかな。そこにある資源によっても戦略は異なるだろうね。だから、プレイヤーを増やさないことは直ちに悪とは言えないところがある。
……ああ、すまない。些か迂遠な物言いになってしまったかな。いや、悪い癖でね。ボクは、対話する相手の知性というものを信頼しているんだ。特定の知識を欠いていることは、知能の欠落を意味しないからね。そのせいで、キミに伝わらない単語を使うことがあるかもしれない。基本的な語彙であれば、作られたばかりの認知結界がカバーしているとは思うけど……わからない単語があれば、訊ねてほしいな。
いずれにせよ──キミたちが文明圏を築き上げ、ヒトらしい生を営むことができるようにすることは、ボクたち色彩の擦り切れそうな──あるいは擦り切れている者も少なくはないが──元々の使命なんだよ。
だから、キミが望むことを叶えるための、道筋を示してあげよう。心に浮かぶことがあれば、何でも訊ねて、ボクに教えてほしいんだ。ボクは、それに答えてあげるよ。
──対価は、その胸に燃える熱だ。それでいい。それだけがあればいい」
ずっと昔の千年前、星のない夜。
そびえ立つ壁が隔てる以外に、何もない灰の平原。
「ああ、それと対価とは別に、たった一匙でいいから血が欲しいんだ。どうにも、喉が渇いてね」
後のはじめの王に、黒き御髪の吸血鬼は語りかけた。
それはどこまでも親しげだった。
貴族街へと繋がる逆さま屋敷のドアを開けるとそこは雪国だった。
かと思いきや積もる落葉、その直後に照りつく夏の陽射し、次いで春風がそよいだ。
吹き付ける風は一呼吸のうちにその風味を変える。
見下ろした空の色も、常に不安定に揺らいでいた。
「これは……?」
ドアの開口部、細い木製の枠におっかなびっくり足を置きながら眺める景色は、先ほどまでの逆さ王都とは全然違う。
なぜなら、足を付けるべき地面がねじれている。
逆さまどころの話ではなく、上下左右表裏天地ぜんぶ滅茶苦茶にねじ曲がってジグザグに屈折している。感覚的には、ただ逆さまになっている先ほどまでより、ずっと屋外を移動するなんてことは困難に思えた。
そんな様子に怯む様子もなく、グレプヴァインは一粒の銀玉を親指で弾いた。
放物線を描いて下の空へ落ちようとするそれは、しかし地面へ──僕のちょうど頭の上にホップアップしてピタっと張り付いた。……理解を拒む動きだ。その銀玉を積もる雪が埋め、舞い上がる落葉が覆い隠し、ぬるい夏風は石畳の隙間に落とした。
「進めるな」
銀玉の軌跡を確認した火傷女は一歩前に踏みだし、くるりと一回転してコウモリのように天井に足を付けた。
汗ひとつかかず涼しい顔をしている。
なにそれ。新しい特技か何かか?
「想定していた通り、重力反転の影響外ということだ。王都は、二都で構成される。貴族と平民は、同じ土地に暮らしながら、別の都に住んでいる。故に、貴族街の外で起きたことは、貴族街の在りようには影響を与えない」
信じられねぇー。全然信じられん。空に自分の体も固定できるこの女がビックリ能力で僕を担いで空にぶち落とそうとしてるとしか思えない。
「いける」
あっこらメリー!危ないじゃ……あ、いけるみたいだね? 長いスカートが捲れ上がってない。
僕の視界はともかく、重力は正しく、地面の方に向かって機能しているらしい。メリーそういうとこ頓着しないからな。
よし、そういうことなら僕もぅッ──!?
「重力は働いていると言ったつもりだが」
……うるっせえな。手、どけろ。
別に受け身くらいできたし。
「そうか」
グレプヴァインはそう言って、ゆっくりと僕を降ろした。そこもまたムカついた。
僕は自分の足で立ち上がり、周囲を見渡す。
──そこに、先ほどまでの地面の歪みはない。
あれぇ?って思った。
右見て左見て背伸びして前を見ても、僕の目には地面は平らに見える。
十尺棒の先端にザリザリと擦り跡を付けるように歩けば、それがただの幻覚か、それともさっき見たような歪みがあるかどうかがはっきりするだろうが、少なくとも現在の僕の視界には、先ほどまでの光景はどこへやら、真っ直ぐまともな建築物が建ち並ぶ空間が広がっている。
僕は一旦疑問はさて置いて周囲の観察を続ける。
景色は、いかにもな貴族街──王都タイレリアを拠点にしていた頃に見た景色によく似ていた。
石畳の上には雪の絨毯が敷かれている。枯れた街路樹の枝や、立ち並ぶ魔石灯の──僕が王都でよく見たのとほぼ同じ形状だ──小さな屋根にも雪がこんもりと積もっている。
右や左に並ぶ屋敷、その前庭や門にも雪がいっぱいだ。僕の吐く息も白い。
先ほど扉から眺めていた時と違って、一呼吸置いても、季節が移り変わったりはしない。ただ、肌寒い冬の世界がそこにはある。
おおよそ一点を除けば地上で見られるものと変わらなかった。
ただひとつ違う点があるとすれば、雪がひらひらと、空に昇っていくことだろうか。
細く揺れる煙のように静かに立ち昇る雪は、まるでそれが正しい姿であるかのような佇まいを見せている。……実際僕も、おかしいと気づくまでほんの少し時間が要った。
ふと手元の懐中時計を見ると、時計の針は逆転していた。……壊れた? 少なくとも、僕の肉体よりは大切にしてたつもりなんだけど……、うーん、修理効くかな、これ……。普通にショックだ。
それと懸念事項として、壊れた時計見たシアさんが王都タイレリアを氷河期にしないだろうか……。これは最近気づいたんだけど、シアさんは寡黙なだけでステラ様の妹なのだ。あのステラ様の妹なのである。……雪を見たから、彼女のことを思いだしたのかな。もしも今、ここにいてくれたら──いやいや、危ないからナシだって話だろうが。
いや、しかし肌寒いな。これがシアさんの作る氷雪なら、ちょっと涼しいくらいなのに。僕は外套を羽織って、ちびのメリーの全身をすっぽりと覆い包んだ。
「外套は仕舞った方がいい」
あ? グレプヴァインの言葉にイラッと来た。あんたが適応とやらを重ねて新陳代謝が腐ってるのは知ったこっちゃない。年がら年中着てる辛気臭い黒いレインコートを差し置いて人様の服装に文句とか言えるのか?
僕はメリーにひっつかれながら一歩踏み出して──景色ががらっと変わった。
「紅葉……?」
街路樹が紅く染まって、落ち葉が地面に布団を作る。吹く風は涼しいが、どこかもの寂しさを感じさせる。
ついでに、隣に立っていたはずのグレプヴァインの姿がない。
一歩後ろ、まったく同じ歩幅で同じ位置に足を落とすと、景色は冬だった。グレプヴァインがいた。
「ええと?」
もう一度、先ほどと同じ位置に足を前に出す。秋だ。グレプヴァインいない。
慎重に木棒で枯れ葉をすり潰しながらもう一歩だけ前に出ると、そこは太陽が照りつける真夏だった。
「探索は易化したな」
あーそうだな、はいはい?確かにずっと簡単になったかもしれないな。
僕の自律神経はおかしくなるだろうけど。
普通に憂鬱である。つらい。
一歩進むごとに季節が移り変わる。
冬秋夏春が繰り返し繰り返される。
何度も何度も何度もそれが続いた。
思うに、扉から眺めた景色があんなにも歪んでいたのは、このためなのだろう。ここは四次元的な空間なんだ。多分そう。
だから、外側から見た時と内側に入った時とで見せる顔が違う……って、ことなんだろう。
僕らは一列になって歩いている。合図はしないが、同じタイミングで歩幅を揃える。季節が異なった場合、即座に孤立するためだ。
ただし、メリーが僕の腕をぎゅーっと両手で抱きしめているのは、僕がはぐれないようにする為というよりも耐久テストの装いが強いんじゃないかと考えている。もう右手の感覚ないよ? このままだと僕の腕もげちゃうんじゃないかなぁ?
「もんだいない。めりが、てになる」
「あるよ? 『問題ない』で流せないよ?」
メリーは離してくれない。僕はどうなってるか怖くてミチミチ言ってる右腕がどうなってるのか見れなかった。
ダンジョンにおいて、正しい道というのは基本的にわからないものだ。道順を解説した看板などを設置しているダンジョンなんかも中にはあるし、あるいはヒントは大量に残されているのかもしれないが、基本的に冒険者は無知無学無教養の三無揃ったアホなのでそれを読みとることができないのだ。……まあ、その点で言えばメリーは違うと言える。いつもぼーっとしていてあまり難しいことを考えていないけど。
そういう意味では、この逆行する景色というのはわかりやすい変化で、探索のための大きなヒントだと言える。
例えば、この現象がより激しい、あるいは和らいでる場所が深部だとアタリを付ければいい。間違っていたらその逆をする。
後はそれぞれのオブジェクトがこの世界でどんな意味を持つか、というところも探索には役に立つ。
ここは貴族街だ。どれもこれも無駄に大きな──無駄にトゲトゲしている建築様式の──屋敷の中で、一際大きな建物が視界の先に見えている。
尖塔をいくつもいくつも備えたそれは、金の城だった。
移り変わるどの季節においてもその建物は変わらず雄大で、華美で、僕の目に優しくなかった。
さて、僕がちょっと齧っているこの国ならではの学問ことダンジョン学、その基礎テキストである『ダンジョン学序説』の記述によると、ダンジョンとは、ひとつの完結した世界なのだという。
王国という世界の中枢は? そりゃあ勿論、王城になるだろう。
あの悪趣味な金ピカトゲトゲ城はこれ以上なくわかりやすい目印だ。
今から一本ずつへし折ってやる。僕じゃなくてメリーが。僕の腕じゃなくて尖塔を。
決意を固めいま一歩僕は足を踏み出そうとした。
「待て。そろそろ身体稼働時間が15時間を過ぎる。携帯食料を口にした方がいい」
「そんなに経ってないだろ」
僕は拒否った。時計は逆さに動いているが、そんな時間は経ってないだろうと思った。わかんないけど絶対そうだ。言葉とは、時に内容よりも誰が言葉を発したかによって正否が異なるものである。
しかもレンバスって。僕お弁当持ってるし。美味しいって言っても『携帯食料にしては』って但し書き付くからな? つーかあれ粉っぽくて喉乾くし薬草みたいになんか強制的に元気にさせられる感あるとこ好きじゃないし、そもそも無防備な食事という行為をこいつの前でするのが大変に憚られる。
「極度の緊張が君の空腹感を消しているだけだ。食事にも体力を消費する。君は弱いのだから、余裕がある内に──」
その時、唐突に現れた人影が、グレプヴァインの右手、その二の腕から先を切り落とした。
いや、正確には首を落とそうとしたのだろう。グレプヴァインの義手が握った鉄杭状のクロスボウの矢が、火花を散らして剣の軌道を逸らした。
グレプヴァインの右腕は義手だ。鉄が雪の絨毯に沈む。
一方襲撃者は、頭に鉄の矢が突き刺さって倒れている、光沢のある黄緑色の髪をした人物だ。
白い鎧を着ていて、うつ伏せに倒れている。そこにもう一本の太矢が頭を穿った。
僕の目の前で、肩越しに命のやりとりが始まり、そして即座に終了した。
……あまりいい気分はしない。ヒトの形をしているってだけで、暴力に忌避感が出てしまう。人間だろうと魔獣だろうと殺らなきゃ殺られるんだから、ダンジョンでそんなこと言ってられないんだけどさ。
「キフィナス。そこから足を一歩も動かすな」
「僕に命令をす……んぅ?」
そう言うと、グレプヴァインは一歩前に出て、義手が唐突に宙に浮いて爆発した。
空中にワイヤートラップが張られて全部切れてだらんと垂れ下がり、矢が撃たれて……?
え? 何?なんだこれ?
いったい何が起きてる?
* * *
* *
*
一撃で腕をやられた。
自身の戦力評価が下がった。
リリ・グレプヴァインは歯噛みする。
相手の顔は次期ベネディクトとして名高き──名高かった、が正確か──エルフリーデ・マオーリアだった。
近衛騎士隊長エーリッヒの長女、十年前に行方を眩ました、特別騎士家の完成形。王都大禍の痛ましき犠牲者──。
(……なぜ殺せた? あれは到底、私がやれる相手ではない)
確かに、今の彼女は《嵐の王》は手にしていない。手にした長剣は数打ちとまでは言わないが、中堅冒険者が持つ程度の代物でしかなかった。
だが、あの人斬りセツナのように、真の天才には道具など不要だ。
あの時、リリがあの悪鬼を打倒できた理由は入念に準備を重ね、殺すための条件を慎重に整えたためであり、仮に今のような遭遇戦なら勝算はなかった。この世界における天才とは、そういった絶対的な、隔絶した力を持つ存在を指す。
ただの似姿ではないことは、その剣筋の鋭さが証明している。
魔道具としての義手の能力を一撃で根こそぎ奪った、マオーリア家の《魔封剣》も十全に機能している。
であれば──ここには何かしらの意図がある。
(殺されてもよいということか?)
リリは一定の準備の後、もう一歩踏み出る。
周囲の景色が冬から秋へ瞬時に切り替わる。
木枯らしが秋風となって共に死体が消えた。
「ふッ──!」
──瞬間、リリ・グレプヴァインは全てを理解し、斬り落とされた義手を蹴り上げて中空で炸裂させた。それは反射であり戦略である。鋼鉄製の義手には、相手からの攻撃による衝撃を相殺し反撃するための爆発機構が備わっていた。
鉄片の散弾を含んだ爆風を搔い潜って接近する影、しかし空へと舞い上がる紅葉の影死角仕込んだ鋼線六本。
足を止めず斬って裂いてリリに迫るその脳天を一本の矢が撃ち抜いた。
致命傷である。
地面に転がっているのは、たった今殺したばかりのエルフリーデの顔だ。その顔は笑顔だった。
もう一度、確実に脳幹を破壊する為に、倒れた死体の眉間を左手のクロスボウで撃ち抜く。
確実に命を奪った感覚がした。
これで二回目。義手に仕込んでいた多くのユニットが破損した。
──こちらのリソースを、確実に減らしていくための動きだ。
それは理解している。しかし、それを惜しんでいればこちらの首が飛んでいただろう。
「ふー……ッ!」
リリは、肺の空気を一息に吐ききった。
一歩、一歩と歩む度に、緊張と弛緩が繰り返される。それは、緊張を継続させるよりも精神力を効果的に削る。ならば、切り替えのスイッチを意識していた方がいい。一回の呼吸で、暴力装置へと意識を変える──慣れたルーティーンだ。
軽い検死をする。瞳孔が開ききっている。だが、リリの目前に今転がっているこれは、死体であって死体ではない。
この肉体の持ち主は、一歩分の風景につき、一つ命を消費することができる無限の命を所有している。
そうやって一手ずつこちらを詰めようとしているのだ。
(手口はわかる)
対策はない。
あるいはエルフリーデという概念そのものを破壊することが対策になるが、それができるような武装や技術は現在リリの手元にはない。
金の王城までは、目測であと四千歩ほど残っている。
包囲戦ではないことだけは救いだが、1:4000の戦いを繰り返すことになるのは分が悪い。
遠隔武器は遭遇戦ではその利点を発揮できず、一度の対策でこちらは崩れる。
(……ここで全てを消費して、勝てるか?)
メリスを使うという選択肢は、リリ・グレプヴァインには存在しない。彼女にとってメリスとは、次の瞬間にもその力で世界を滅ぼしかねない生きた爆弾だ。
当人がいつ気まぐれに世界を握り潰すかは定かでないし、たとえその気がなくとも、その力に共鳴して未回収の終末装置が起動してしまう可能性は大いにある。
ならばここは、この手しかない。
グレプヴァインは一歩を踏み出し、
「対話をしよう、エルフリーデ・マオーリア」
「いいよ。スタインベックさん」
夏風に黄緑の長髪を靡かせる騎士鎧に身を包んだ女性が、人好きのする笑顔を浮かべていた。
十年前と同じ顔だと、リリ・グレプヴァインは当然の感想を抱いた。
「貴女は、死後に魔人へと変性を遂げたようだな」
「そうなるみたいだね。知らなくていいことを、たくさん知っちゃった。わたし、ただの騎士なんだけどなぁ。あんまり難しいこと考えたくないのに」
「この現象も、魔人の権能か」
「ううん、ここの時間が遡るのは、わたしの力じゃないよ。このセカイの特徴である『すべては人々が望んだから』だね。
あまねく空想には力がある。それが明瞭で、より多くに共有されていればいるほどにその力は強くなる。
古き良き時代を、都市の人々は願い続けた。今よりも温かみのある昔、懐かしい過去、偉大なる古に想いを馳せた。『昔はよかった』という言葉を、千年間も繰り返し続けた。
だから、ここはそうなった。今よりもほんの少しよかった昔が、永遠に続く回廊になってるんだよ」
「なぜ、私はまだ生きている?」
「それはテツガク的な問いかな? ええと……どう答えてあげればいいのか、ちょっとわかんないな。もしかしてスタインベックさん、疲れていたりする? 顔も何か……すごいことなってるし。わたし、声聞くまであなただってわかんなかったよ」
「質問を訂正しよう。貴女は私を殺そうと思えば、いつでも殺せたはずだ」
「そんなことないよ。多分、スタインベックさんならあと20歩は歩けただろうし、第一、いつでも殺せたって言うならそっちだって。あのバケモノが指先を振るうだけで、わたしは死んじゃうよ。
それとさ……、こんな灰髪の子を連れてくるのは、ちょっと悪趣味なんじゃない?」
「貴女に義務的な慈しみを向けられるほど、彼は無価値な人間ではない」
「ふうん。そんなに気に入ってるなら、なおのこと、こんなところに来させちゃダメだよね。……わたしなら、絶対しない。
アーニャちゃんは弱くて、泣き虫で、なのに強がって……だからわたしが護ってあげないとダメなんだ。あれから、何年経ったんだろう。あの子は、どんな大人になったのかな」
「10年だ。貴女の妹アネットであれば、現在、第一層の最後尾にいるだろう。部下の報告によると、既に死傷者は2万人ほど出ているそうだ」
「……そっか。来させたんだ」
「この国が王都を取り戻すことを選んだ。現在我々は、千年首都に対する叛乱の移動式都市……帝国への離脱を再演することで、想念を相殺することを目的とした作戦行動中だ。
故に志願者でなければ意味がない。戦線に参加することは、彼女が望んだことだ」
「父親は、止めなかったんだね。……うん、でも、ちょうどいいや。世界が終わるまでに、アーニャちゃんを保管しないとって思ってたからね。
じゃ、騎士のお仕事はここまで。わたしは用事ができたから、通っていいよ?」
「──誰が通すって言ったんだよ」
脳漿ぶちまけた女の死体が転がっていた秋の世界でメリー特製の概念瓶『死の否定』の封を開けながら、僕は夏の世界の連中に割り込みをかけた。
「僕の肩越しで、手の届かない場所で、あんたらはずっと大きな話をしてる。
でもさ。僕にはそんなの、何ら関係ないんだよ」
首都奪還の意義だとか、因縁だとか過去だとか政治だとか。
魔人様のあれこれだとか世界の危機だとかいかにも高尚で複雑でむつかしそうな事情だとか。
そんなモノはどうだっていい。
全部まとめて、丸めてどっかに捨ててしまえ。
──僕の勝利条件は、ひとりでも多くの人間を生かすことだ。
そのために来た。痛い思いをして、怖い思いをして、嫌な奴と同じ空気を吸って。何もかもいけ好かない。
それでもここに立ってる理由は、それだ。
命よりも価値があるモノなんてのは、僕にはわからない。わからなくていい。わかりたくもない。
「いい加減、僕も混ぜろよ」
僕は、死を否定する。




