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一層:黄金の花畑



 別世界と接触したという認知には、必ず五感を伴うものだ。

 目や耳だけじゃない。鼻で嗅いだ匂いや、肌に触れた空気。それから、そこにある食べ物の味だって違う。


 沈みゆく金色の夕焼けと、足下から少し先をすべて埋める黄金の花畑。

 空気はほのかに酸っぱいような甘い香りをさせていて、雰囲気は穏やかだ。

 ……ああ、それがまた気分が悪い。


 ダンジョンという世界の空気は、空気だけは、いつだって僕の気分を悪くしてくる。ダンジョンは例外なく空気がよくない。

 辺りに広がる一見素晴らしい景色だって例外ではない。だから僕は、この景色を見ても、どこか嫌悪感を、


──なんて美しい景色だろう。


 <美しい!>誰だ。僕の頭の中で、<美しい>僕の声で、僕でない誰かが喋って<美しい!>いる。僕に語りかけ<美しい>ることで、僕自身のことばだと<美しい>思いこま<美>せることで<美しい>強引に<美>僕の意識を<美しい<美しい>美しい>塗り替えよ<美>としてい<美しい>時に囁くように<うつくしい…>叫ぶように《美しい!》執拗に僕に語りか<美>け《美しい》黙れ。<美しい>僕を塗り潰<美>して<美しい>都合のい<美…>ように書き換えようと<美しい><美しい>して<美>る<美しい><美>静かにし<美しい>僕の思考は僕のものだ《美しい》都合よ<美>作できると思ったら<美しい>黙れ《美しい!!!》<美しい!>《美しい!》黙れ<美しい>《美しい》<美しい>黙れ《美しい》《美し》<美…>黙れッ!《美しい》《美しい》《美しい》黙れッて《美しい!》言って《美しい!!》《美しい!!》《美しい!!!》《美しい!!!》いるだ《美しい!》黙《美し!》《美!》だま《美し!》《美しい!!》だ《美し》《美しい!!》《美しい!!》《美!》《美しい!《美し《美し《美し《美《美《美《美《美美美美美美美美美美美美美美美美美美》!》!》!》!》!》!》!》》》》》》》》》》


──嗚呼、なんて心地よい光景だろう!美しい!!美しい!!!美しさがある!ここにある必ずあるないはずがないあるにちがいない落陽の光が美しい花のにおいが美しい風の色味がうつくしい僕の視界は美しく美しくてうつくしい!!!


──なんて素晴らしい国だろう!世界の中心!文明文化栄光栄華!美味美食賛美礼讃!世界はすべてここにある! ここが世界の中心にして、すべてが眠る場所なの──ッ。



「…………まだ入り口だぞ。影すら踏んでないってのに、これかよ」


 僕は奥歯に仕込んだ薬草を噛み下し、何とか正気を取り戻した。


 その苦汁は、僕はとにかく嫌いだ。生理的に受け付けない。全身が強制的に組み換えられるような感覚にまず吐き気がして、喉に下した苦汁を喉元までせり上がる胃酸が押し戻すのを、なんとか飲み下した。……クソマズかったお陰で意識を取り戻せたから、ここは感謝するべきなのかな。

 さて、未踏のダンジョンというのはとにかく極地で、大気中にどんな毒が蔓延しているか定かじゃない。……かと言って、ただでさえ能力が低い僕が、マスクとかで五感を制限したらもっと役に立たなくなる。


 だから、ひとつの折衷案だ。

 こうして薬草を口に含んでおくことは、こういう場面で一定の保険として機能する。

 まあ喋ってる最中に間違って噛んで10分くらい苦味が舌にへばりつくクソマズさは本当にクソマズいので可能な限りやりたくないけど、そうも言ってられないし。……まさか、早速使うとは思わなかったけどね。僕は地面にその茎を吐き捨てて、新しいものを詰めた。


「臭気に由来する精神干渉だ。呼吸を塞げ」


「あ? やだね」


 自分の肩に杭のような黒檀の矢を刺したグレプヴァインが、何やら馴れ馴れしく僕に話しかけてきた。どうやら、あっちは痛みを気付けにしたらしい。

 この女の分析は恐らく正しいのだろう。だけど気に入らない。


「あんたの命令を聞く道理が僕にはない。僕にとって。ダンジョンの空気ってのは、いつでもどこでも居心地がとにかく悪いものなんだよ。だったらせめて、この花々の心地いい香りくらいは楽しみたいって理由にでもしておこうかな」


「花の匂いではない」


 この甘い匂いが、花から由来するものじゃない? ……ああ、言われてみれば、確かに覚えがある。

 ──腐敗した肉が放つ、えた臭いだ。腐った肉は酸っぱい臭いをさせて、ツンと鼻を刺すような悪臭がする。

 それを薄めたものだと、唐突に理解した。


 ……この辺り一面から広がる、この臭いというのは、要するに。



「100万の死体からの腐臭だ。あまり、嗅ぐな」


「……ちッ。言われるまでもないっての」


 僕は、いつもの様子でぼーっとするメリーの口元に、マスク代わりに《眠り水母の半透膜》を巻いて、僕もそうした。

 別に。今やろうとしてたことであって。あんたの言葉に従ったわけじゃないから。



・・・

・・



 改めて、周囲を見る。

 黄昏に染まる空。水平線の向こうまで広がる黄金の花畑。

 そして、それ以外には何も見えない。


 この空間のどこかに、また別の景色へと繋がる場所があるのだろう。

 それは典型的な階層型ダンジョンの構造だ。


「この第一層が安全なら、ダンジョン内に拠点を作るってアホな試みにもまだ実現可能性があるけどさ……」


 ──それなら、これまで戻ってこない人間が誰もいないなんてこと、有り得ないだろう。


 僕の真後ろにはまだ、このダンジョンの出口となる次元の裂け目がある。

 旧王都についてだったら、どんな些細な情報だろうと金になる。入り口付近だけ見てすぐに引き返す、なんてことを試みないはずがない。最初の精神干渉にしても、無謀な挑戦者の中には、耐性を持ってたのも居たはずである。というか僕が何とかなるんだし。

 そうなると、どこかに絶対、未帰還者を未帰還者たらしめる要素が隠れているはずであり──僕の目に映ってるこの黄金の花がいかにも怪しい。


 僕はため息をつきながら、足下の黄金の花を踏もうとし──。



「不用意に触れるな」



 ……あ? ンなことわかってんだよ。そこ、邪魔。

 あのさぁ、10万人だぞ? そのうちの誰かが触らずにいられるわけないだろ。高価く売れるって考えてポケットに入れる奴は絶対に出てくる。人間ってのはそこまで利口じゃないからね。どこかで、出し抜きたいとか考えるやつが出てくるものだ。

 だったら今のうちに、何が起こるか検証しておく必要があるだろ。


「規律違反者は出るだろうが、君が気にすることはない」


「あんたに。僕が気にするかどうかを定める権利はない」


 これでも斥候スカウトとして、やるだけのことはやらなきゃいけないってだけだ。

 僕には命の責任がある。

 金色の花弁を、僕は踏み抜いた。



 次の瞬間。

 頭の中で何かがちぎれるような感覚の後、僕の主観は10年前の王都グラン・タイレルにいた。


僕はもう僕ではなくて私になっていたし、そこでは私はパン屋をしていて育ち盛りで反抗期のかわいい娘と女盛りを過ぎて少し肥えてきた今でも美人の妻と暮らしていた。一日の始まりと終わりにみんなで食卓を囲む時間が幸せで全てが満ち足りた王都で幸せで穏やかな生活を一日送り十日送り百日送り千日送り一万十万百万千万日送り送り送り送り送り送り送りつづける。朝も晩も既に越えてかわいい娘は体の中身をすべて裏返しにしてケラケラケラケラ笑い美人の妻は赤黒い腫瘍が全身を何倍にも膨れ上がらせそこから血が混じった黄色い膿を吹き出し続けていた幸せな家族の団欒がいつまでもいつまでも続く■■が起きてもこうして一緒にいられる毎日を過ごせる幸せで幸せで全てが満ち足りているここは世界の中心のタイレルの完結した世界で無限に追憶を繰り返すのだ。


  …頭が、割れるように痛い。不快なイメージが、頭の中に流れ込んでくる。


私が毎朝作るパンの材料は妻の肉<頭痛>を食卓に並べ続けて娘は私の首から髄液で喉を<頭痛>し妻は娘の剥き出しの<頭痛>臓を喰らうそれを一年続け十年続け百年続け<頭痛>年続けることができる毎日毎日私たちは互いを慈しみ愛し合い<頭痛>


痛い。   …痛い。

  痛い。    痛い! …痛い。


 ──だけど、それだけだ。


 僕を、このキフィナスという存在を作り替えるには至らない。

 僕は、結構慣れているからね。

 この追憶の牢獄は、この状況に齟齬を発生させればいい。



「悪いね。君らより可愛い子を、僕は何人も知ってるんだよ」



 食卓でテーブルを倒すと、腐肉にまみれた世界が崩れる。伸ばしてくる手を──それはもう、異形のそれの形をしていたが──僕は振り払った。

 僕の自我が、僕という形を取り戻していく。



「待たせた、メリっ……」


「戻ったか、キフィナス」



 …………僕の目の前に立っていた女は、一輪の黄金の花をスライムの皮に入れて回収していた。

 どうやら、僕より後に花に触れることを試して、僕よりも先に意識を取り戻したらしい。

 当てつけか? 当てつけのつもりなのか?


「そのような意図はない」


 端的な切り返しに、僕はより腹立たしく感じる。

 ……黄金の花畑。この花は一房ずつに王都の人間たちの想念がそれぞれ湛えている、ということなのだろう。

 そして、それぞれの個人が、理想とした世界が内包されている。



 ここで一面に広がっているのは──百万人の墓標だ。

 苦悶と懊悩を、見せかけの幸福で塗り潰した煉獄だ。

 これまでの探索者たちは、ここで自我を剥奪されていったのだろう。


 ……これを、一歩一歩、踏み越えろと?

 勿論、ひとつなら簡単だ。円満な家族とバロックを混ぜ合わせた粗描スケッチ

 それが、あと、どれだけ続く?


「……耐えられるか?」


 僕は思わず呟いていた。

 その呟きに、


「耐える必要はない」


 黒いレインコートが反応した。


「なんだよそれは。僕がクソ弱いから、ここで留まっておけって──」


「正面から向き合う必要はない。効果の確認と、サンプルの採取は終わった」


 そう言ってグレプヴァインは、赤黒い液体が詰まった瓶を取り出した。悪竜の毒血だ。周囲のモノを焼き払い、どこまでも燃え広がる性質がある。


「キフィナス。少し下がれ」


 グレプヴァインはそう言うと、何の感慨も浮かべることなく瓶の中身を纏めて地面にぶちまけた。

 黄金の花が──人々の墓標が、追憶が、想念が。

 黒い炎に蝕まれ、等しく灰へと変わっていく。


「……ここってさ。あんたの故郷って話じゃなかったっけ?」


「そうだ。この金花には、私の家族もあるのだろうな」


 グレプヴァインは、表情を一切変えない。



「だが──それらは、既に終わって久しいものだ」



 黄昏の空の下。黒炎が地上を焼いていく。

 火は燃え広がり、花は燃えつき、積もりゆく地面の灰燼が、熱でところどころ硝子化している。


 そうして、燃やすものをなくした火が燃え尽きると、そこには灰の野だけが残った。

 グレプヴァインはまだ煙を上げる地を踏みしめ、


「安全を確認した」


 そのように宣言した。





 灰まみれの野を歩く。

 僕らは無言だった。隙を見せないようにメリーとの会話は最小限に留めたし、あいつは自分から僕らに声を掛けてくるようなことはなかった。


 その間、敵らしき姿はない。

 拍子抜けなくらい、安全な空間だった。


 これまでの犠牲者は恐らく、次から次に頭の中に流し込まれる追憶の数々に自我を完全に崩壊させた後、それよりも深層に足を踏み入れることになったのだろう。

 そして、この先で無抵抗なままに惨殺されたのだろうと思われた。


 十尺の木棒で次に踏むべき場所を確認していると、ぬるりと木棒が虚空に消える。

 第二層の目印だ。ここが、どうやら境目らしい。


 棒は、鋭利な刃で切り裂かれていた。僕の予想は、どうやら間違えていないようだ。

 僕はため息を吐いて、気合いを入れようとして──。


「君は弱い。あまり軽率な真似をするな」


「肩から、手を離せ。……わかってるんだよ、そんなことは」


 だけど、僕にもできることをやらないのなら。

 ここにいる意味がないだろ……!


「君に可能な検証は、私にはより安全に実行できる。だから私に──」


「任せろって? ハ、やだね。やなこった。僕はあんたが嫌いだ。直ちに死ねばいいと思ってる。斥候の役割を任せるなんてできるわけないだろ。

 何より、あんたは命を何とも思っちゃいないんだから」


 僕はこれでも斥候として、僕の基準での安全を確保することを第一に考えている。

 目の前の女は、他人の命にも、自分の命にも鈍感であるように僕には思えてならない。……なんで、その顔の傷痕を今も治していないんだ?


 ──そんな相手に、この役割を譲り渡せるはずがない。


 僕は灰の髪だ。《罠解除》やら《気配感知》やら、斥候のスキルというものを持っちゃいない。

 だが、斥候の心得──『同行者の身の安全を護る』ってのだけなら、一応備えているつもりだ。



 それから、幾ばくかの沈黙が続いた後に。

 リリ・グレプヴァインは、一言「そうか」とだけ言った。

 ……やりづらいな、本当に。







 この不吉な黄昏と──破滅の光景と同じ色をした少女が、無音で佇んでいる。

 そこには緊張も自信もない。ただ、そこに立っているだけだ。

 彼女の注意は、傍らのキフィナス以外には一切払われていない。


(1000年の歴史と、100万の想念を重ねたこの世界すらも。彼女の脅威にはならないか)



 リリ・グレプヴァインは、また一つ確信を深めた。

 ──只人でしかない存在は、真なる魔のそばにいるべきではない。


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