聖体拝領
レッドカーペットの敷かれた華やいだダンスホールにて、仮面舞踏会が続く。──呑まれるな。
奏でられる演奏は耳障りがよく、どこか気分を弾ませる。──呑まれるな。
そこに踊るは老若男女、髪色はもちろん、着ける仮面の色形にも統一性はまるでない。色鮮やかな光景の中で、踊る人影だけが黒く伸びている。──呑まれるな。
誰もが互いを知りながら、そうとは振る舞わないのがマナーで、この場所ならば関係の上下はない。……ハ、茶番劇もいいところだ。相手が誰なのか──そいつが自分よりも強いのかどうか、この場を離れてから先を意識せずにはいられないだろうに。だから、そんなものに呑まれるな。
僕は壁を背にしながら、人影を眺めている。──呑まれるな、呑まれるな。僕は静かに自分に言い聞かせる。
──思考がちかちか明滅するような感覚。
──目眩のような、足先を震わす焦燥感。
──自我を塗りつぶすような想念の圧力。
無能な僕は、無能だからこそ、その存在を感じずにいられない。
……ここは、本当にダンスホールか?
ふいに僕はそんな疑問を抱いた。
すると景色は瞬きの内にに変わった。
薄汚れた壁と埃まみれの空気。
ふらふら踊るカラフルな人影。
お粗末な演奏の音色は心を陰鬱とさせる。
天井から、ぼたぼた赤黒い液体が垂れた。
訝しんで天井を見ると──巨大なヒトガタの遺骸が掲げられていた。
「……っ!?」
どこか甘い腐臭がして、僕は思わず吐き気を堪えた。
それが人を模しているとわかったのは、頭蓋骨が露出していたからだ。大きさにして10m以上のそれは、赤黒い腐肉に覆われていて、首から先の方で水脹れのような瘤をいくつも作り、それが膨らんでは破裂して、汚水をそこら中に垂れ流していた。
僕がレッドカーペットだと思っていたそれは、破裂した肉腫の小山だったのだ。
「ステラ様! シアさんっ!!」
呼びかけた二人の靴は、やっぱり血肉で汚れている。
二人とも気づいていない……!
「歓談中にどうしたの? 今の私は……、うふふっ。スウでしょう?」
「……はい。シイと呼ぶことを、許します」
「そんなこと言ってる場合じゃ……!!」
「あなたって時々過保護よね、くすぐったくなるくらい。ふふ、安心して頂戴な。ここからは私たちがやるわ。あなたに任せきりはイヤだもの。そこで、メリスさんと壁の菫をしてていいわよ」
「違っ──天井! 天井を見て!」
「ええ、煌びやかなシャンデリアね。落ちてきそうでイヤなんでしょう?」
「シャンデリア? 違うだろ、どう見たって……、」
「……特異なデザインではありますが……。いざという時には、私がおまえを護ります。安心なさい」
そう言うと、二人は仮面の人々の波に混じっていく。その足取りは軽く、地面の肉腫を踏み潰していった。
……受け答えは正常だ。だけど、明らかに異常事態だ。ここは危険だという意識が欠けている。幻術、罠の類……だとすると、解除の条件があるはずだ。
いや、あるいは、……僕が、おかしいか?
仮面の連中も皆、この状況に狼狽ひとつしていない。
腫瘍を踏み潰しながら当然と踊っているのは、むしろ、僕が何かに嵌まったということか?
「──認知結界だ。貴婦人と老婆を同時に見ることはできない。この空間がダンスホールであるという認知を共有する者たちの間で、頭上の満願成腫大空骸が見えることはない」
すると背後から、聞き覚えのある声がした。
背の高い黒のレインコートが、顔半分の火傷痕だけを露出させたデザインの仮面を着けている。
……お互いに、即座に相手を殺せる距離だ。
「空想は現実を凌駕する。演者と脚本があれば、小部屋は王宮にも牢獄にも変わりうるということだ。小道具があれば尚更に効果がある。認知結界の管理者以外、この空間をダンスホールだと信じて疑わない。
己を、疑いなく、仮面舞踏会の来賓客と認識している。己の顔を覆ったその時点で、認知結界はその者を意味の網目へと絡め取る。その網目を抜けるのは通常困難であるが、適応を持たない君は、だからこそ、この違和を理解したということなのだろう」
「物知りだな。で? あんたの説明が正しい保証がどこにある」
ここはもう死線だろうが。
僕は指先を──、
「やめておけ。因果には質量がある。私のそれを背負うには、君の背はまだ細い。
何より、この場には君が護るべき相手がいるだろう」
と、グレプヴァインは彼方を指さした。
そこには、脳天気に腐肉を食らおうとしているステラ様の姿があった。
* * *
* *
*
ステラとシアは、これまで社交の場に出る機会がなかった。
代行として、他領からの来客に応対する経験もない。
それは、父オームが、姉妹のどちらを後継とするかを決めかねていたためだったのだろう。
しかし彼女らの立ち振る舞いは、経験の不足を一切感じさせない洗練されたものである。
主賓を定めない、互いを匿名とする仮面舞踏会でありながら、彼女らの周囲には多くの人々が集まった。
「我々は、この世界の構成要素を探求しているのです」
なるほど、彼らは学徒であるらしい。「世界の構成要素は液体である」「適応である」「熱量である」「暴力である」「大地である」「大気である」「魂である」「基体原質である」「魔力である」「論理である」「感情に他ならない」「時間である」「寒暖に違いない」「原子である」「想念である」「金だ」「光」「忠誠」「力」……、
彼らは、それぞれの主張をぶつけ合っている。その姿は、最近訪ねる機会が増えたダンジョン学者たちを思い起こさせた。研究者という種族は、自説の正しさを信念のように堅持するものだということをステラは最近知った。
そういう頑固さは、ステラの目には好ましく映る。
(──さて。それは結構なのだけれど。……いつ、話題に出すかよね)
『世界の崩壊』という語を投げるのは、どこが適切か。
ステラはそのタイミングを見計らいながら歓談を続ける。
「……論理が世界の構成要素であると言いましたね。世界のあらゆる事象には、整合が取れる一貫した論理が存在すると。ならば、未来もまた、論理で演繹可能であると言うことでしょうか」「左様で! なぜならば──」
妹シアは主張の論拠を訊ねては当意即妙に質問を──自分の理解力を示しつつ相手の自尊心を擽るための質問を──人々に投げかけていた。
こういった些細な按配もまた、ロールレアに伝わる政治学の技術として受け継いでいるのだった。
途中、何やらキフィナスから声を掛けられた。
いつものように心配性を発揮し、天井について気にかけていたようだが、それ以上のものはない。
シャンデリアが膨らむのは、当然のことだろうに。
「一切れのパンと、一杯の葡萄酒はいかがでしょう……」
ふいに、華やかな場には不似合いなほど幽かな声がした。
ステラとシアを囲んでいた人々は、その声を聞くや否や一列に並んだ。その列に乱れはない。
──何らかのルールの存在を感じて、ステラとシアもその列に並ぶ。そうすべきだ。下級貴族が開催する夜会では、この手の秘密の符丁が好まれる。何らかの意図があるのだ。
不自然なほど自然に、ステラたちはそのように考えた。
列が進む。
パンからは芳しい香りが漂う。
列が進む。
赤黒い葡萄酒は濃厚な質感だ。
列が進む。列が進む。列が進む。進む。進む。進む。進む進む進む進む進む進む進む進む──、
ついには、ステラにパンと葡萄酒が手渡された。
「毒味って好きじゃないのよね。私たちに配膳される頃には、すっかり冷めてしまうのだもの。最近気づいたのだけれど、ごはんは温かい方が美味しいのだわ」
そうして、ステラはそれを、無防備に口に含もうとして、
「ほんッとに世話が焼けるなあ!」
振り抜かれた木棒が、ステラの仮面を引き剥がした。
そうして、ステラは一際高い悲鳴を上げた。
* * *
* *
*
「どういうことですっ!? なに!? 何がどうなっているの!?」
「天井ー。天井見てください。シャンデリアですか? 違いますね。あれ食わされそうになってたんですよ」
「なっ……、食べられるワケがないでしょう!? あんなもの!」
「そうですね。……シアさんも大丈夫ですか?」
「……ええ。大事ありません。姉さま。お手を。清めます」
シアさんは、ステラ様の両手に赤黒い氷の蓮華を作った。
どうやら、肌の表皮を瞬間的に凍らせて汚れだけを固めたらしい。
「ううう……。ありがとうね、シア……」
「……いえ。礼には及びません」
僕らが話していると、仮面の連中が静かにこちらを囲んでいた。
その表情からは感情が伺えない。……仮面を被っているというのもあるだろうけど、それを差し引いても、ゆらゆら揺れる彼らから感情というものが出てこない。
「これは……、懐柔は失敗かしらね?」
「認知結界は、結界内部で発生するあらゆる行動を、特定の意味を持つものへと補正し、破綻が発生しないように解釈する。現在は、辻褄合わせの時間だ。彼らの意識は、一時的な空白状態となっている」
……は?
おい。何話しかけてきてるわけ?
「他者の想念を利用した結界は、術者の不在によって容易く変質し、想念を苗床に際限なく膨張するものだ。あの空骸は、この空間の核として機能している」
「……それを僕らに伝えて、どうする気だよ」
「管理者もなく放置された人工魔人の生成施設など、世界崩壊因子にしかならない。今回の私の目的は、《探求》の魔人カーマインの遺骸を回収、もしくは破壊することだ」
この施設の継承権は、君たち領主一族にあるだろう。
グレプヴァインは当然のように言った。




