偉大なるもの
いつもの宿屋への足取りは、いつもよりずっと重かった。
歩幅の小さなメリーが僕を追い越すくらいだ。振り向きながら、僕の顔をじーっと見ている。
僕の顔色は多分、さっき殺した死体みたいになっているだろう。メリーはそれを面白がっているらしい。
「きふぃ。いや?」
「別に。僕に嫌がる権利とかないだろうし」
「あるよ。めりも殺した」
……だったらやめてくれないかな。
僕はそう思ったが、メリーは眺めるのをやめてはくれない。……わかってるくせに。
「めりは。きふぃのかお。すき。いろんなかおすき。いやがってるかお、すき。くるしいかおも。かなしいかおも。すき」
「いいや。僕はいつもへらへら笑ってるよ。今だってそうだ」
「つらい。くるしい。きふぃのかお、そうゆってる」
別に。そんなことないよ。
むしろ辛苦なら味わってもらったばかりだ。
「いっしょにいるの、だめ。おもてる」
メリーの澄んだ金色の瞳には、顔半分を規則正しく歪めた顔が映っている。
いつもの、何度も練習した顔だ。
「そうだね。温かくて優しいひとたちに、僕は相応しくないんだろう。みんなはまっすぐで、僕は斜めにかしいでる。ずっと前から自覚はしてたんだ。とぼけてただけで。それを改めて感じただけで」
「だから。にげる? にげてもよい。にげなくてもよい。めり、ついてく」
「ううん。逃げない。……そうじゃないな。都合がいいかも知れないけど。僕はここにいたい」
「そか」
メリーは、自分から話しかけてきたくせにどうでもよさそうな相槌をよこした。
足に纏わりつく鉛が、ほんの少し軽くなった気がした。
・・・
・・
・
「……姉さま。姉さまっ。起きてください」
「もうやだぁ……失敗したあ…………違うのよわたしみんなで考えた原稿だいなしにする気はなかったの!だけどね気持ちがね?みんなのこと大好きだって思ったら伝えたくなってそしたらぜんぶ飛んじゃってでもね──」
夕暮れ時。
帰ってきたらステラ様がベッドの上でじたばたしていた。
ええぇ……。
「……戻ったのですね。キフィ、メリス」
「あ、はい。……た、ただいま。で、なんですかこれは」
「……姉さまの演説が──」
「え、演説に問題はありませんっ! 完璧にこなしたわっ!」
ステラ様は布団を被ったまま、視線をあちこちに彷徨わせながら震えた声でシアさんの言葉を遮った。
「はあ」
「な、なんですかその目はっ。もっ……、もちろん? 多少? 予定と違うところはありましたけれど?」
「みんなだいすきー」
「なっ……!? なんで!? どこで聞いてたの!?」
「場所を事前に決めてたんですから盗聴の手段なんていくらでもあるでしょう。……まったく、あれでよく完璧とか言えましたね?
全然完璧から程遠いです。ああいうのって自分の100倍アホに聞かせるくらいの意識じゃなきゃいけないんですよ。最後列の人にも、これは自分のことだって錯覚させなきゃいけないんです。だからキーワードは大きな声で。相手に理解させることが必要な概念はゆっくり話す。理解力がいらないところで緩急をつける。例え話は相手に共感させるためにある。こういう技術的な部分、途中で完全にすっぽ抜けてますからね? 内容に至ってはもっとひどい。封建社会の領主様が、自由がどうとか言うんですもん。あんなの他領に漏れたら普通に弱点ですからね? あの演説が心に響く人なんて、せいぜい一人か二人しかいませんよ」
「ネチネチと正論で馬乗りに殴りかかるのはやめて頂戴……! いいの!? わたし……、泣くわよ!?」
既に涙目なんだが。なにを情けないことを言ってるのか。
いやまあ、寝間着で布団被ってる時点で情けないか。
「言葉は。自分の考えを伝えるには。たくさんの工夫しなきゃいけないんですよ。言葉の切り方、ブレスの置き方ひとつでも印象は大きく変わるんです。
……ほんと、これ以上ないくらい、ステラ様らしいお言葉でしたね。その価値わかるの僕くらいじゃないですかね」
まず稚拙でそのくせ愛されている自覚がある傲慢さを隠そうともせず聴衆の理解力とかもぜんぜん考えてないやらかしを心から反省してほしいけど──僕は、とても偉大だと思った。
天は人の下に人を作る。個人の尊厳は他者が束縛することが許されている。この世界はそういう世界だ。
統治者の言うところの寛大さというのは、首に掛けたリードの紐をほんの少し伸ばしてやることを指す。僕はそう思ってた。
まっすぐな人は、時々気持ちいいくらい、僕の偏見をどこかに吹き飛ばしてくれる。
「……ところで、シアみたいに私も気安く呼んでもらってもいいのよ?」
「なんでです?」
「なんでって……なんか、わたしだけ仲間外れみたいじゃない。私だってあなたのこと、お友だちだと思ってるのだけど」
「ステラ様って呼び方は変える気ないですねー」
──きっと誰も。このおふとんおばけ自身さえも、その偉大さに気づいていないのだ。
「……いずれにせよ。旧使用人は改めて解雇しました。明日より執務を再開しますので、キフィもメリスもそのつもりで」
「はいはーい。……あと、理念だけじゃご飯は食べられないので、彼らの再就職状況次第で年金とか配給するのも考えましょうね。株券とかでもいいのかな。たとえ意志が強かったとしても、日常の苦しさに上書きされてしまうものですから」
「そうね。それと、まず最初に魔灯を建てましょう。表通りは勿論、裏通りにも建てるの。予算の計算はあなたとシアに任せるわ」
「……王都みたいにするんですか? まあ、ここ数日の売り上げでも建てられると思いますけど」
「お願いね。ここデロル領に、暗いところは要らないの」
「そういうところでしか生きられない人もいるかもしれませんよ」
「そんなの、なおさら日向に引っぱり出してあげないといけないのだわっ!」
「……ん? あの。翌日ですよね? 明日から平常運転なんですよね?」
「……それが何か?」
「荷造りとかしないんですか? 具体的にはステラ様の錬金術とか片付けないんですか」
「しばらくここで暮らすわよ? だって、ご飯が美味しいんですもの」
「えっ。あのーシアさん。ステラ様がなんかバカなこと言ってんですが」
「……問題は、ないかと。この世界に、ここ以上に安全な場所はありません。我々には、まだ周囲の安全に気を配る必要があります。……はい。必要です」
「いやいや……、え、ほんとに? ええー……いや、別に嫌ではないですけど。えええ……」
ドヤ顔の寝間着のひとを見て、僕はさっきの錯覚だったかもなと思い直した。
べつに嫌じゃない。
ただ、本当にいいのかなって思うだけだ。
心が軽くなりすぎてしまう。
* * *
* *
*
「ご機嫌よう。ラスティ・スコラウス」
「ムーンストーン氏の知人でしょうか? あいにく、本日は席を外しております」
「ボクは、この国で貸金業をビジネスとしているクロイシャ・ヴェネスだ。今日はキミを訪ねに来たんだよ。ああ、ムーンストーン君なら、ちょうど今亡くなったところだね。また不良債権が増えてしまった」
「師が身罷られた!?」
クロイシャの言葉にラスティは驚いた。
「彼には昔からの因縁が数多あったからね。その内のひとつと絡まってしまった結果だよ」
「そうですか……」
「ボクも残念だ。彼には強固な意志があり、世界を本気で救おうとしていた」
クロイシャの言葉はどこか上滑りした。
「……しかし、貴殿は。世界を停滞させた『黒』ですか」
「キミたちはその名で呼ぶのが好きだね。ムーンストーン君から聞いたのだろうけど、ボク一人でコントロールできるほど世界は単純で退屈ではないよ。せいぜい、神なきこの世界で見えざる手を差し伸べているくらいかな。
この世界の停滞──思想の検閲は、為政者がそう定めたものだ。
ボクがしたことと言えば……当時のタイレル3世に、知識を乞われたから教えてあげたくらいかな。彼の語る人生の物語──その熱量のお礼にね」
クロイシャは懐かしむように言った。その方が相手に望ましい印象を与えるためだ。
「建国当初のタイレル王国は、王と諸侯のパワーバランスがそこまで開いていなかったんだよ。そのために、彼は権威を必要とした。
彼の人生の物語は、とても面白かった。彼のはじめの一言は、病没した父王の骨を食べた、だからね。同じ病で床に臥せる最期まで、彼の心は燃えていた。何百人もの脳を灼いて、ついには街ひとつ分の殉死者を出すほどに、彼の熱は暖かかったんだ」
「それが、あの《検閲文庫》を献策した理由なのですか?」
「技術や産業の無秩序な発展は、灰の世界を覆うテクスチャを剥がしかねない。そういった環境への危惧が先ではあるよ。それが統治のツールにすり替わるまで、そう時間は掛からなかったというだけでね。
検閲文庫とは言い得て妙だね。王都大禍から10年。《公証文庫》を失ったことで、キミたち研究者は学問の自由を広げることができた。魔術基礎方程式も、公証文庫が正常に機能していたら検閲されていたであろう研究だ。
魔人のような超存在が常人に介入している。キミの論文中の推測は正しい。が、それはキミたちの在り方を決めるモノではない。ボクたちは、キミたちに知識や技術を効率的に伝達するためのシステムなんだ。世界を小さくコントロールしようとしたのは、他ならぬキミたち自身の判断だよ」
クロイシャは穏やかに笑う。
ラスティの心の震えを──熱量を感じたためだ。
「……知りたい」
「おや? なんだい」
「当方は、真理を知りたい……! 原初の黒よ!どうか、どうか当方に、知識を授けていただきたい! この世界の真実を──!」
「いいよ。その代わり──」
──その対価には、キミの人生の物語を。
何千何万回と唱えた言葉を魔人は繰り返した。




