設立建白
「ご機嫌よう。貧者の灯火へようこそ。歓迎するよ」
机上の一本の蠟燭だけが光源として灯る暗闇。
病的なほどに白い肌と、血のように紅い目が、橙色の光に照らされてぼんやりと浮き出る。
窓を閉ざすカーテンは厚く、星々の目をも通さない。
ここは貧者の灯火。
体温を持つ者遍くを支配する権能を持つ、原初の魔人が管理領域。
「さて。何がお望みかな? 人生における多くの問題は、金銭によって解決が図れるものだ。もちろん、それだけが全てではないけれど。少なくとも、キミが、キミ自身の解を見つけ、それを実現するための助けにはなるだろう」
訪問者へ魔人は穏やかに語りかける。
彼女が提示する契約は、どこか諧謔らしき情緒があり、しかし騙されているのではないかと疑わしくなるほどに良識的だ。それもそのはず、彼女の目的は商行為で利益を上げることではない。
──魔人として抱く、ただひとつの渇望。ヒトという知的存在の想い、その熱量に触れることが目的なのだ。
貨幣を必要とする程度に成熟した社会において、より多くの利害関係者を作ることが出来る職業とは、金融をおいて他にない。
蓄財と散財が欲望にほど近い距離にあることも都合がよい。
「悩みがあるなら、聞かせてもらうよ。これでも、それなりに永く生きているからね。助言くらいはできるかもしれない。
おや? この態度に不思議なことがあるのかい? ボクはただ──話し相手になりたいのさ。世界中のみんなとね」
人には、個々人にそれぞれの人生がある。
思想も、主義も、命題も、その個人のものだ。
所属する文化、教育規範に応じてその色合いは類似性があれど、二つと同じものはない。誰もが、どこかに熱を抱えている。個人の視座には、接する機会がない他者の熱量は映らないというだけだ。
その熱は、僅かな種火であるかもしれないし、炉を備えた猛火かもしれない。
たとえ数多の苦しみを抱えていても、それでも呼吸を続ける以上は、生命活動を維持するに値する何かを胸の内に秘めているものだ。
生病老死四苦八苦。ただ漫然と生きるには、人生は少しばかり寒すぎる。
──その熱に触れた時、凍てつく魔人の心身には、ほんの僅かに血が通う。
自分はきっと、そのためにまだ生きている。
「キミの人生の物語を。どうか。ボクに、聞かせてはくれまいか」
魔人は請い願う。
己が身をも灼き尽くさんとする、想念の熱量を。
* * *
* *
*
やっぱ行きたくないなという気持ちと、いや憲兵庁舎ぶち壊した直後にアネットさんと鉢合わせるのもなという気持ちが対立している。
不可視の、原因不明のテロ行為だ。ステラ様たちによると魔力の痕跡も残っていないらしい。
きっと居もしない犯人の捜索のために頑張るんだろうな……。僕は同情した。
「犯人はあなたの妹でしょ」
「いもしない犯人のためにー、頑張るんだろうなー!」
僕はきわめて誠実に言葉を繰り返した。あれは不可視かつ原因不明のテロ行為である。
そんなこんなで古びた看板が目印の店先に着いた。
銀色の扉の先に、あの金貸しがいる。
僕は急激に帰りたくなった。
「帰ってスメラダさんのごはんたべたい……」
「この後ね。私たちも楽しみにしてるんだから」
「……はい。しばらく厄介になります」
はあ、やだなぁ……。扉が重く感じる……。こんな重い扉、僕の力じゃあ引けないんじゃなかろうか。今この瞬間だけでもめちゃくちゃ重くならないかな。そうなったらそれを理由に帰れると思う。僕の力じゃ引けずにあれ。
残念ながらそんなことなかった。残念極まりない。
さて扉を開いたらそこは暗闇だった。いつ来てもビタミンDが足りてなさそうな部屋だ。
蠟燭に火が灯る。溶けた蠟から、ほの甘い匂いがした。
「ようこそ。貧者の灯火へ。ようやく来てくれたね。待っていたよ」
「僕は待ってませんよ」
「つれないね、キミは。領主姉妹もご機嫌麗しく。……すごく、いい顔をするようになったね。悲しみを湛え、それでも前を向いて歩みを進める──胸の内に熱を抱えた者の顔だ。骨相学はおおよそ学問の体を成していない迷信だけど、ボクの見る目はそれなりに確かなつもりだ。
今のキミたちからは、どんな暖かみがするのだろう? 楽しみだよ」
「そりゃよかったですねー。でも、今日はお金の無心に来たわけじゃないんですよ。貰うならメリーから貰いますし。金貸しの汚い金とかいらな──」
「私から話します」
ステラ様が前に立つ僕を押しのけた。あの。暗闇でそれやるの、つんのめりそうになるからやめてください。使用人の虐待です。労災モノですよこれ?
「私が欲しいのは、当地の商人勢力との繋がりなの。単刀直入に言うわ。クロイシャ。あなた、商人たちの長よね。私たちに協力して頂戴」
あっ無視された。
「協力。内容と対価にも依りますが……、しかし、その前に誤解を糺さなければいけませんね。ボクの号令で、商人たちを動かすことはできない。ギルドにも所属していない身だよ。商人たちの長と呼ばれるには、語弊が些か大きい」
「おやー?二つも嘘偽りがありますねえー? ひとつ。あんたは自由に商人を動かせる。そこの山積みになった債権証書を使ってね。もうひとつは、この国に金貸しはあんたしかいないんだから同業者組合が最初から成立しない」
「虚偽ではないよ。表現の挿げ替え、誇張は感心しないね。まず、職業倫理に誓って、ボクは期日を過ぎていない債権の履行は要求しない。そして、金融業者がボクしかいないのはただの事実であって、やはり虚偽ではない」
「……権力とは、命令の履行が忠実に行われることのみを指しません。上位者がただそこに立つだけで、下位者が上位者の事情を勘案し、その意に沿うように差配することもまた、権力の行使の一形態です。
……クロイシャ・ヴェネス。商人たちの債権を一手に握るあなたの立場は、まさしくこの領地の──いえ、タイレル王国の商人たちを統べる、この国の多層化した権力の、ひとつの頂点の立場にいます」
「……ふむ。権力論の階梯はやはり高いか。封建制社会を1000年にも渡って継続しただけのことはあるね。それとも、それはキフィナス君の入れ知恵かな?」
「あ? 別段、僕は入れ知恵なんてしちゃいませんよ。僕が教えたのは、あんたが事実上、投融資する銀行の真似事してるってことと──魔人であることくらいだ」
「気づいていたんだね」
ざわ、と、空気が哭いた。相手は腰掛けたまま微笑を浮かべている。
しかし、明らかに尋常ではない気配に、僕は背骨が凍りつくような感覚を覚え、立っていられないほどの重圧を受けた。
「……キフィっ……!」
僕を囲むように厚い氷の障壁が形成され、直後音も立てずに砕け散った。驚愕するシア様を横目に、ステラ様は瞳に緋色の燐光を湛え──、
「待ちたまえ。ボクに、キミたちを害そうという気はないよ。少なくともボクという個は、ヒトとの共存を望んでいる。ボクが魔人であることも、言ってしまえば公然の秘密というものだ。ちょっと驚かしてみただけだよ」
これは失礼、とクロイシャさんが謝罪すると、地面に縫いつけるような重圧は瞬間に霧散した。
「本質が実存に先立つ。魔人とは、そういった存在なんだ。人倫というものの存在を理解してはいても、それを尊重することはないし、ましてや制限される謂われもない。存在としての層が違うのさ。
だから、不用意に曝き立てることは、相手次第では敵対行為に映ることもある。キミたちとの対話を優位に進めようという含意は一切ないと断らせてもらった上で言わせてもらうけれど、ボクたち魔人と、キミたち只人との力は大いに隔絶したものがあるからね」
「……そうね。気配ひとつでこれだもの。私も、あなたと戦う気はないのだわ。このひとにはいい薬でしょう。余計なおしゃべりが過ぎると、いつか舌を噛んじゃうんだから」
「このところ僕の扱いが酷い気がする」
「……敵対的な態度を隠そうとしないからです。キフィ」
「タイレル王国は、封建制でありながら下位者の社会的地位が比較的高くある。それは、この国における権力が多角的な状態になっていること。そして多角化に至った理由は、その源泉が何処に由来するかに関係している。
キミたち王侯貴族は、自分たちに有利な制度を作ることで子孫に渡ってその権力を維持してきた。一方冒険者たちは、武力を以てそれに対抗した。そしてボクたち商人は、都市社会が成立してくるに伴い、財の力で社会的地位を築くに至った。
この三勢力が微妙なバランスで均衡を保っていることで、どの勢力も放縦が許されない状況が生まれている。タイレルの国民たちの一部が離脱し、貴族の立場が強い帝国や、冒険者が自由闊達に振る舞う共和国を成立させてもなお、こうして安定的な政体を維持している理由とも言えるだろうね。
さて──キミたちは切迫した状況に置かれ、影響力を手に入れなければならない。そのために冒険者との結びつきを強め、次いで商人勢力をも掌中に納めようとしている。
キミたちには、キミたちなりに理があるのだろう。
しかしだ。ボクら商人は、利によって判断するものなのさ。実家の権力を使うことができない今のキミたちには、いったい商人に対して何を提供できるんだい?
是非、ボクに聞かせてくれたまえ」
「私たちに、渡せるもの……、そうね。この問題が解決した暁には、当家の御用商人として認定を──」
「後払いの成功報酬。それは、取引ではなく賭けと言うんだ。
そして、内容も反故にすることが容易であり、かつ数に限りがある。既に御用商人として認められた者との軋轢も生まれるね。それでは、商人たちの求心力は得られないよ、レディ・ステラ」
「……手厳しいお言葉ね」
「付帯事項として匂わせる程度ならば丁度いい按配だろうけど、目玉商品にはならない。勿論、これで寄ってくる手合いがいないとは言わないよ。しかし、それは今のキミたちが望む大商人ではないんじゃないかな」
「すこし。考える時間を貰えるかしら」
「いいよ。ゆっくり考えるといい」
そうして、ステラ様は考える。
魔人の視線はあくまで穏やかだ。彼女の二の句を待っている。
……なんかムカつくな。
「はいはーい。僕思いつきましたー」
「いいわよ。言ってみて」
「──株式会社を設立しましょう」
「かぶしきがいしゃ?」
ステラ様は頓狂な声を上げた。
「えーっと……。僕らが暮らしてたとこで、一般的だったっぽいやつです。なんていうのかな、株券?だっけ?を言いくるめて買わせて、定期的に配当を渡すんですよ」
「なんか口ぶりが不安なのだけれど。大丈夫なの?」
「え? 知らないですよ。だってこの国にないやつですし。僕だって曖昧ですよ?」
「……姉さま。いつものことです」
「そうね……」
「いや、だってしょうがないですよ。だってないんですもん不思議と。なんでないんでしょうね? 不思議ですね、クロイシャさん」
「尋常ならざる発展を遂げたことは確かだけど、すべてボクが原因ではないよ。社会とは、個人が思うがままにできるほど狭くも単純でもない。
この国で株式会社が生まれなかった理由は単純だ。発明の裏には必要があり、この国には必要がなかっただけだよ。投下する資本の量に応じて、より大きな利益を得ることができるが、損失によって全てを失うほどのリスクがあるという商業形態がある。それを成功させるために、商人たちは資金を相互に拠出し、一人あたりの損失を少なくする仕組みを作った。それが株式会社の起源だ。これは、多くの文明国家で共通する成立過程だが、この国では少し様相が異なる。
まず、初期投資のための資金ならボクがいくらでも提供することができるし、航海のようなリスクのある形態を取らなかった。市場経済が発達する以前から冒険者ギルドという組織が成立していたことも大きいね。
──なるほど。キミたちは商業界での影響力を得るという必要のため、この仕組みを作ろうということだね」
「ええ。ちょうど僕ら、どうやら冒険者らしいので。まー内容は『株券を買ってくれた枚数に応じて迷宮資源を優先的に取引する権利を得られる』とかで。どうですかね?」
「どうかな。冒険者ギルドの領分を侵害しているように思える。考えはあるのかな」
「ギルドにも一枚噛ませるに決まってますよね。だいたい、資源ぜんぶ払い下げなんてことはギルドだってしてませんよ。単に粗暴で頭が悪くて数も満足に数えられない冒険者じゃあ商人とかと上手くお話ができないからギルドに代わってもらっているだけです。侵害なんてしてないでーす」
少なくとも、建前の上ではそうなっている。冒険者ギルドの規約に、全てウチに譲り渡せなんて一文はない。
「めり。つよい」
メリーが唐突に力を誇示した。……あまり気は乗らないけど、メリーは最強の冒険者だ。冒険者ギルド側として、その意向を無視するというワケにはいかない。
問題はクリアしていると言えるだろう。……少なくとも表向きは。
「最強の冒険者メリスの看板と、領主一族の公認か。……ふむ。それは、売れるだろうね」
「そして、発案者はわたしの頼れる参謀なのだわ。ぜったい失敗なんてしない最強の布陣よ! どう? 今なら、あなたも仲間に入れてあげるわよ?」
「一時的に商人ども騙せるなら失敗したって別に──もがもががが」
「……静かに……」
「なかなか魅力的な提案だけど、遠慮しておこうかな。ボクらのように逸した存在は、キミたちと同じ時を歩むべきではない。ヒトによって築かれた、ヒトのための社会に居場所はないし、在るべきでもないだろう」
「……別に、そんなことはないだろ」
思わず、そんな言葉が口をついて出てきた。
「おや? キミからそんな言葉が聞けるとは思わなかったな。あまり良い感情を持たれていないと思っていたんだけど。人間の精神構造というのは複雑だね」
「あんた個人は普通に嫌いですよ。その他人を上から眺めるような態度が気に入らないし、何よりあんたはメリーを嫌ってる。
ただ、それは違うだろって思っただけだ。誰が作ったとか関係なく、誰だって居ていいだろ。社会って、そんな上等なものじゃない」
「フリーライダーは排斥されるべきだよ。自らの役割を商人と定めた存在が、便益のみを享受する存在になるのはどうも。御免蒙りたいところだね」
「それでも、あんたはこうして商人をやってる。今更だろ。金融業なんて国家の根幹になる事業を担っておいて、フリーライダーの排斥なんてよく言えるな」
「……うん。キミの指摘の通り、矛盾があるよ。高潔でありたいというのはただの感傷だ。しかし生命は、他者から熱量を収奪しなければ生きていけない」
彼女の微笑に、些かの憂いが混じったように僕は思えた。
それが、どうにも居心地を悪くさせる。
「……それじゃあ、僕らの事業に投資すればいい。それなら、あんたのいつもの生業の範囲だろ。あんたは、あんたが考える値段を、僕らにつければいい。それに応じた配当を、僕らはあんたに与えるさ」
「……やはり面白いね、キミは。
それじゃあ、ボクはこれで購入できる分だけ購入してみようかな。あまり配当権を貰っても持て余してしまうから」
クロイシャさんはそう言うと、指先で一枚のコインを弾いた。
それは暗闇の中、ちりりと光を反射して軌道を描き、僕の手のひらに収まった。
──よく磨かれたそれには『日本国 百円』と記載されていた。
「それではご機嫌よう。どうか、またのお越しを」
蠟燭を吹き消し、クロイシャはふうとため息を吐いた。
「どうした。お主にしては、随分と感情的な仕草じゃの」
「……そうだね。感情が動かないことを、残念に思うのさ」
「世界の破滅は近い。明日が惜しくなったか?」
「惜しいとも。ヒトの想念が交差し描かれる織物が失われることを、惜しくないと感じたことはない。
未完結の物語に抱く感想は、いつだって、その一言に尽きるだろう?」




